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  • 8月19日 自分に期待すんな

    8月19日 自分に期待すんな

    神様は見ていない

    7時に起床。5時くらいから何度か目が覚めるも、二度寝三度寝を繰り返し、7時になったところでガバッと起きた。

    たくさんの夢を見たような、だけど思い出せず。思い出さず。

    プロテイン。フルグラ。ヨーグルト。牛乳。いつもと同じやつ。

    無心になって出勤の準備。ここで気が触れてしまうとベッドにごろん、としたくなる。そうならないように、意識をそっち側に落とさないように注意する。考えないようにする、が正解か。

    出勤中は小野寺文宣。いえ。読書感想文は後ほど書く。

    9時過ぎに到着。タバコを吸うか迷い、吸わずにオフィスへ。喫煙室は下の階にあり、タバコを吸うだけなのに片道3分くらいかかるから、効率は良くない。そんなこと言うならやめろよ、って話ですが。そこには耳を塞ぐ。

    仕事は忙しい。てか、忙しくなってきた。9月末くらいまでずーっと忙しそう。

    在宅勤務じゃなくてなるべく出社した方が良さそうだよな言われてはいないけど、を察し、定期を買うかとも迷ったけどそこは出社/在宅勤務の自由、経路の自由を選択した。

    お昼はファミマ。もうずーっとファミマ。他に選択肢はあるんだけど手軽だし、なによりカロリー表示が明確なのが良い。クリスプサラダワークスも好きなんだけど、カロリー表示をもっと頑張ってくれたらもっと使うんだけどなぁといつも思う。担当の方、よろしくお願いします。

    ランチを一人で摂りながら、昨日ブログを書かなかったことを題材に挙げ、A5ノートに内省。テーマは、あの時の自分と約束した自分はどこへ行ったのか。なるべく毎日書きたいなと思っていて、いつも寝る前に書いていたのだけど最近は眠いというか、書く気力がなく、スキップしてしまう。

    で、いろいろ考えた結果、今の自分を肯定するのが必要だなと思い、当時の私と今の私に見える優先順位が違う、という結論。我ながらいい感じの落としどころだわと思いつつ、サラダチキンにかぶりつく。

    午後も忙しく仕事。20時まで。

    退勤後、野暮用で新橋による用事がある。用事自体はタッチアンドゴーな案件だったんだけど、西口商店街の誘惑がヤバかった。ここのところお酒は1杯までね、ってルールにしてるので、店に入ったらあっという間に4杯、つまみもこってりしたやつ、合計1600kcalいくやつだ、みたいな。あすけん先生に怒られるの嫌だし我慢した。で、今、帰りの電車の中でこれ書いてる。

    こんなところで我慢?したところで、私の生活にキラキラとした喜びが訪れるわけではない。神様は見ていない。

    徳を積む、という考え方がある。それは分かる。徳を積むことでいいことが、みたいな。

    だけどそれっていいことをして、自分が気持ちよくなりたいだけだろ、と。そしてこれまた眉唾(と思ってます)の、引き寄せ?のように、これは徳を積んだおかげだ!と感じてしまう。

    それ自体は良い。徳ドリブンで生きてるってことでしょ。否定しない。けれどそれいいなぁ、とも思わない。

    なぜか。神様?みたいな、絶対に手の届かないところにいる象徴?に依存してるから。

    私だって神社に行くよ。お賽銭投げて、顔の前で手のひらを合わせるよ。だけどそれは黙祷みたいに、無心になることが私には合ってるな、と思ってる。何も考えない。無意識に心に浮かんだ意識を拾うけど、それを追いかけない。

    そうやって私は、マインドフルネスみたいなやつだけど、心を洗ってるような気がするから。

    神様はいるかもしれない。だけど私はいなくても良いと思ってる。

    小野寺文宣 いえ 星4

    小野寺文宣さんを読むのは4冊目。ひと、とにもかくにもごはん、ライフ、からのいえ。

    ライフと繋がってるのはよかった。もっと読みたいぜな欲を満たしてくれた。あと、まち、もあるから、もしかしたらまた平井の話なのではないかとワクワクしている。

    これから読む本のことを考えてワクワクするってさ、幸せなことだよね。楽しみが待っている、それを考えるだけで仕事ですり減ったMPが回復していく。

    4冊目ともなると、小野寺文宣さんの個性というべきか、クセというべきか、そんなのがぼんやりと。

    名前を大切にする。本当に大切にする。代名詞といっても過言ではないような。

    あと、絶望的に悪い人がいない。みんな実直で、誠実。小野寺文宣さん自身がいい人なんだろうなぁと思ったりする。上司にしたいタイプかも。お顔すら検索して拝見したことないですけども。

    いろいろあるけど、生きている。ここが一番好きかも。感情移入させられる。それがまた心地良い。

    あと会話が適度に砕けている。読みやすい。だからか、往復3時間の通勤で読んでしまう。あ、会話が多いということなのかな。

    ストーリーについては、これは、主人公の覚悟というか、気持ちの考え方次第なのかもなぁと思いながら読むような内容。小野寺文宣さんだから絶望する結末はないだろうと勝手に予測してしまうので、一度、取り返しのつかないような絶望感に浸る作品がもしあればそれも読んで、小野寺文宣なのに落ちる!があっても良いかも。気持ちが割と強く引きずられるので、読みたくはないけど(汗)。

    読んで良かったよ。まちも楽しみ。駅に着いたので終わる。フリック入力してる左手の親指がぼんやりと痛い。書きすぎた。

  • 8月5日 善く生きるということ

    8月5日 善く生きるということ

    心療内科からきちんと卒業するということ

    6時くらいに起床。サクッと朝食、出社。この辺り何も考えずに動けるようになってきた。心療内科で処方されている薬を飲まないという選択肢を取っている今、将来的に挫けるようなことがあったらまた心療内科に行けば良いのだろうけど、このままいけば、次回の予約分から行かないということになる。
    心療内科からの脱却。正しくないやり方だと思っている。だって心療内科の先生と何年も付き合っていて、先生から、もう薬いらないと思う、来なくていいよ、って言われていないから。
    何度か減薬の相談をしたこともあったんだけど、一旦様子見で、っていう感じではぐらかされ? 2年近く同じままで続いていた。別に不信感を抱いているということではないのだけれど、このままずーっと薬を飲み続ける生活を送るのではないかと思ったりしてる。

    心療内科からちゃんと「卒業」する人って、通ってる人の中で多数を占めるのだろうか。私はここ 2年くらい、それこそ減薬を相談するくらいに調子が良く、鬱っぽいことを考えたり、そっち方面の気持ちが心に充満したり、ということからだいぶ脱却できてきた。それでも先生の言葉を信じ、通っていたけれど、さすがに 2年くらい減薬の相談をしても、私の願い?期待?通りに処方箋を更新してくれなかったのは、ちょっとどうなの、と思っている。

    だから私は、だいぶチャレンジングだと自認しているけれど、もう心療内科に行かない、という選択肢を取るのだね。そして、処方された薬を自分の意思で飲まない、という選択肢を取るんだね。

    きっと危険なことなんだろう。分かってる。またいつか、そういう系の衝動が急に芽生える可能性は、ゼロではないのだろう。
    私は薬を飲まなくなって、そしたら朝、快適に起きられるようになり、午前は眠くならず、いい感じにランニングしたりして、お酒の量を減らして健康への意識を高めるようになった。

    これってどう見ても、善いことなのではないだろうかね。
    私は、死ぬ時に後悔しない生き方を、というモットーを心に抱いて生きているから、その目的のためにどうしたらいいのか、ということを考えながら生きている。

    それってソクラテスの時代から言われているような、「善く生きる」ってことなのかもしれない。

    小野寺文宣 ひと 読了しました

    巻末の書評で中江有里さんが「実直」という言葉を使っていたけれど、全くその通り、これほどまでに実直な青年に、だいぶ感情移入してしまった。主人公は自分の人生を控えめに生きてきたけれど、だんだん、自分の意思で生きるようになるんだよな。
    そして、実直という言葉の通り、まさに誠実に生きている。両親を亡くし、お金に困窮しても決して挫けず、前を向いて生きているその姿を、善く生きると言わずして、なんと言えば良いのだろうか。

    昨日、まだ途中だけど、って体でその時点での読書感想文を書いた。
    そして今日、読み終わったけれど、この作者の、日常の描き方が本当に好きだ。そして、登場してくる人の温かさに関する描写が、とても適切な言葉で綴られていて、想像しやすい平易な言葉だし、その言葉の選び方がまた良かった。
    一人称、つまり主人公の目線で描かれているから、20歳の男子という目線で書く必要があるんだよね。だから、難しい言葉を使うわけにはいかないし(一般的な20歳の男子が知っている世界での、言葉を使うという意味)、そして行動や思考だってそのスコープに照らして書かないといけない。
    当たり前のことだけれど、これが自然にできないと、この主人公、実は何歳?みたいなことになってしまう。そういうところって自分の経験でできるのかなぁ、みたいなことを考えていたら、私の記憶の深さ、豊かさについて考えるようになった。

    20歳代の記憶が一番エモくて強い

    私は47歳になった今でも、大学時代にバイトしていた焼肉屋での風景や、そこで出会ったお店の人たち、お客さん、みたいなところの夢をよく見る。
    別にトラウマがあったとかではない。焼肉屋を営む家族みんなが優しくて、それこそこの小説に出てきた惣菜屋のみんなみたいな感覚だけど、だからイヤな思い出はほとんどなかった。

    一方、例えば、結婚してからとか、ここ10年くらいの記憶や経験をベースにした夢ってあまり見ない。それって、私の意識的に拾える脳の引き出しに入っていない、もしくは違う引き出しを見ているのかな、と思う。
    ここ10年、例えば妻や子供たちを愛していないとか、そういうことじゃないと信じる。私が家族のみんなが大好きだし、彼らが風邪をひいて熱を出しただけでも心配でしょうがない。家族のために全力で仕事をしているし(このへんも善く生きるに繋がるのかも)、だから、家族と得た経験や思い出は20代の頃のそれと比べても劣ることなんて全然ないと思う。だって家族旅行だってめちゃくちゃ楽しいし、行ってよかったといつも思うし、だから定期的に夢に出てきてほしいな、思い出を振り返りたいな、と思う。だけど残念ながら夢に出てくるのは、20代のあの頃なのだ。

    つまり私の中で、取り出しやすい引き出しにある記憶って20代の頃で、それがとてつもなく強いレベルで保管されているように思う。エモい。眠くなってきたので唐突だけど終わり。何が言いたいのか良くわからなくなってきたけどこのまま投稿して寝る。

  • 7月29日 もっと生きていたいと考える

    7月29日 もっと生きていたいと考える

    健康診断を申し込んだ

    7時30分くらいに起床。今日もつくばに出社。家からオフィスまで1時間かからないって本当にありがたい。電車も混んでないし。

    眼精疲労?なのか分からないけれど、これまた感覚的なことだから言語化するのが難しいんだけれど、普段、耳に、チー、みたいな高周波の音が鳴るのを感じると思うんだけれど、それが、眼球を上いっぱいに上げた瞬間だけめっちゃ増幅される感覚があって。私は体調不良でこれから熱が上がっていきそうな時にそれを良く感じるんだけど、そんな感じで体のどっかに不調を来しているのかな、と焦った。そして会社で年1回受けましょう!っていう健康診断に申し込んだ。今から約2ヶ月後。
    そしてそれをCopilotに話し、今イマの身長、体重、飲酒喫煙習慣などを話したところ、飲酒量を下げることと、適度な運動を勧められた。
    私は鉄は熱いうちに打て派なので、かねてから取り戻したかったランニングの習慣を再開した。とりあえず週3目指そう、って優しいCopilotは勧めてくれたけれど、個人的には、いけるんなら毎日走っても良いのではないかと思っている。
    で、早速今日、終業後に走った。かねてから気になっていたちょこザップの無料体験を申し込んで、7kmくらい走ってきた。心拍140くらい、ペースはキロ7分くらい。ケイデンス164。まずまずかな、って感じ。ラン後は身体的にはへっちゃらって感じだけど、走れるなら外ラン、そして朝だよなぁ。5時くらいに起きて20km走ってた頃が懐かしい。あの頃の自分を取り戻したい。
    そして今夜の飲酒。これは日常のペースにしていきたいんだけれど、今日はハイボール1杯だけ。ウイスキー50mlだけ。これで酔い気分になれるんならちょうど良いかもな。

    飲酒による機会損失

    これ結構デカいと思っていて、小説書いたり、読んだり、ブログ書いたり、刺繍したりっていう、夜、一人で楽しむようなイベントが酒によって妨げられてるのが割と気になっていて。
    私は本来、酒を飲みたかったのかどうかすらよく分からなくなってきてて。それもCopilotに相談したら、多分私は、1日を締めくくるイベント的な感覚で飲酒していたのだろう、と。
    確かにな、と思った。
    1日を締めくくるには別に酒じゃなくなって良いだろう。
    最近は毎日のようにこんな感じで1日を振り返ってブログを書いているけれど、これだって1日の締めくくりを彩るためのイベントとして昇格させても良いだろうに。
    確かにね、酔って気持ち良くなるのは分かるんよ。私はハイボールを3杯くらい飲むと良い感じに酔ってきて、その感覚を楽しんでいたのは間違いようのない事実だけど、それによって蝕まれる健康のことを考えたら、トレードオフじゃないだろ、と。むしろマイナスだろ、と。
    だから、基本、酒はハイボール1杯とか、ビール1本とか、レモンサワー1杯とかで終わりにして、だらだら飲む習慣を絶ってみようと思う。
    分からんよ、意思薄弱と自分でも認めるくらいだから、飲みたくなる日だってあるでしょうよ。だけどそれを毎日のイベントとして掲げるのではなくて、たまにのご褒美で捉えるくらいでちょうど良いのかもしれんね。ご褒美って考えてる時点でまだまだだろ、とも思うけど。

    湊かなえ Nのために 読了した

    奥さんから勧められて読んだ。物語が何層にも重なっていて、ストーリーの構成力とかすごいよな、と思った。私にはこんなのは書けない。ロジックを組み立てるところで私は破綻してしまいそう。うまくできた話だよなぁ、実際の生活にはこんなことは起きないだろう、って点で、私はそこまでグッと来なかった。私は日常を描く話が好きなんだろな。
    考察。贖罪っていうものに登場人物全員が執着していて、それを意識的に感じてる人もいるし、そうじゃない人もいるし、だけどそれぞれが持つ意識のもとに行動していて、それ自体は自分の本心に基づいて動いているんだろうけど、だけど他人の感情や行動に振り回されることもあるもんね。
    心理描写って点ではそこまで深く抉っておらず、だけど多くの読者に対して、最大公約数的なところで描写を止めるあたりはさすがだな、と。読者に委ねるところと、文章で語るところの攻め際って難しいよなぁ。そういうとこすごいわ湊かなえさん。他にも読みたいかと言われると、うーん、なんとも言えない。私は心に火が灯ると図書館で本を借りまくってがっつり読み込むんだけど、そこまでではなかった。心理描写で語るというよりかは、ストーリーテリング、ロジックの妙で読ませるタイプのように感じたから。

  • 7月28日 故郷を想う

    7月28日 故郷を想う

    茨城で仕事

    私のオフィスは東京だけではなく、茨城のつくば市と、北海道の札幌市でも働くことができる。
    それを恩恵と呼ばず、なんと呼べばいいのか。
    私は子供の頃から、筑波山を見ながら育ってきた。
    実家は筑波山から、そこまで近いわけではないけれど、けれど裏山に行けばいつでも筑波山を見ることができた。
    故郷を想いながら、仕事に励む。
    こんなことが実現できるとは、この会社に入るまで考えたことはなかった。
    いや、嘘だ。
    私はいわゆる田舎の長男坊で、だから大学こそ静岡にある大学で過ごしたけれど、いつかは実家に入らないといけないと感じながら過ごしていた。
    とは言え、気持ちと体は別というか、大学を卒業し静岡に本社がある印刷会社に新卒で内定が取れ、そして東京支店への勤務が決まった。
    そうやって、徐々に実家に近づいていくプランを、当時の私はぼんやりと感じ取っていた。
    意識的に考えていたわけではない。のらりくらりというほどではないが、風に身を任せ、いつから茨城という地に軸足を置いて生きていくんだろうな、とぼんやり考えていた。
    時は経ち、私はそこから25年くらいを生きてきたという計算になるが、いまだに軸足は東京に置いて過ごしている。
    物事は意識的に計画していかないと、人生というものは固まらない。
    先日、バレットジャーナルに集中して取り組もうとして、それ系の本を何冊か借り、読み、そしてバレットジャーナルに対応できそうなA5のノートを買った。Editの320ページのやつ。借りた本を読んでいると、1、2、3、5、10みたいな、自分の中でのマイルストーンを決めて、その数字ごとの未来を描いていこう、みたいなことが書いてあり、私はハッとした。
    風に身を任せて生きていく、というのと、物事は計画的にいくべきだ、という両極端な意見を上述した。
    とはいえ私は前者の方が自分の考えに合っていると感じることが多いから、1年後の自分を想像することができず、ましてや10年後なんて、試しに1ページをそのプランにあてがってみても、10分考えてみても何も浮かんでこなかった。
    何も、浮かんでこなかったのである。
    だって10年後って想像できる?私が今、在籍している会社で働いているかどうかすらもわからないのだから。そんな私が、たとえば3年後ですら、何をしているか分からないのだ。そりゃそうだ。だって生まれてこのかた、自分の将来を真面目に考えてきたことがなかったんだから。

    自分の将来についてじっくり考えてみる機会は必要なのだろうか

    不要なのかもしれないよね、と考える。
    これこそ自分の持つ価値観の話で、自分の生き様を計画していくことで、それに基づいて日々の暮らしを計画していく。物事を計画的に考えて生きていくべき!と考えている人はきっと、こっち側なんだろう。
    ふと、MBTIのことを考える。私は3番目のやつがTなのか、Fなのか良く分からない。Tは計画的、Fはその場の感覚で生きる、みたいに私は捉えている。
    私はFの方に大きく針が振れているんだろう。それを悪いとか良いとかっていう判断材料にはしていないけれど、多分これが、私の計画性の弱さという一面を物語っているように感じる。
    だって自分の将来って。私は今、結婚していて、2人の子供がいるけれど、私の計画通りに家族が生きていくとは限らんもんね。私は自分なりに健康に気を遣ったり、仕事も真面目に取り組んだりしているけれど、妻や、子供たちが私の計画した通りに生きるとは限らないじゃないか。だとすると、私が今ここで、47歳の人間として考えることすら意味がないじゃないか、と考える。
    いや、違うのかもな。何を計画するのか、という考え方にもよるのだけれど、たとえば、家族がどんな生き方をしていたとしても、私は私、私なりに考えた生き方を貫いていきます、ということになるのかもしれんよね。
    たとえば、妻が癌に罹患したとしよう。してほしくないけど。だけど妻が入院したりして、今の生活を継続できなかったとしても、私は仕事をやめないし、できる限り全力で家族を支えていくのだろう。それを計画と呼ぶのかどうか、それこそ個人の価値観による。
    そこには「臨機応変」という言葉がとても良く当てはまる。臨機応変ってすごい。TでもFでも、どっちも当てはまるのだから。
    だから、もしかすると、MBTIとは違う階層に、「自分の価値観」というものが被さっているんだろうな。
    私はF型だから綿密な計画はできないけれど、「それでも生きていく」みたいなマインドで、その場その場で適切な選択肢をたどりながら、なんとか自分の生きたいように生きていくんだから。

  • 7月22日 いずれにしても自分が納得できる人生を

    7月22日 いずれにしても自分が納得できる人生を

    今日の出来事

    8時台に起床。もともと通勤するつもりはなかったので在宅にて仕事。
    子供たちが夏休みに入っていて、だから家の中にある体感時計がゆっくりとしている。
    朝の慌ただしい時間を乗り越えた妻と、そうではない今日みたいな時の彼女の雰囲気は違う。
    アドレナリンという言い方が正しいのか良く分からないが、朝、バタバタと子供たちの準備、長男の弁当などを準備すると、頭も身体もきちんと起き上がるんだろうな。
    私は妻に甘えていて、平日の朝の準備はすべて妻にお任せしているので、私自身のテンションは平日だろうが休日だろうが変わらない。妻は休日は結構寝ていて、多分寝るのが好きなんだと思うんだけど、だから休日の朝の準備は私がすすんで担当している。休日くらいゆっくり寝たいもんね。
    9時くらいから仕事開始。今日もゆったり。てかこの頃ゆったりな仕事量の日が多い。
    在宅なのをいいことにまったり、しつつも自分に課せられた仕事はきちんとこなす。社会人として当たり前のことだけど。
    いくつかミーティングをこなし、昼食。家でリュウジさんのボロネーゼを作って食べた。これまた我が家のルールみたいな感じなんだけど、平日、私が在宅勤務の時、妻が料理を作ってくれることよりも、私が作るほうが多い気がする。妻は専業主婦だけど、朝バタバタした時間を乗り越えたからゆっくりしてもらいたいというのと、昼、私の食べたいものを私の好きな時間に食べるという生活をしているから、私にまかせてくれてるんだと思う。専業主婦なんだから昼食くらい作ってよ、みたいなことは考えていない。滅相もない。私は私だ。私の食べたいものくらい、私の手で作るよ。
    これってバイクとか車のオイル交換を自分でやるか、店に頼むかの違いに近いかもしれない。自分でやる人の大半は、心配で任せられないと考えている人だそうだ。少なくとも素人よりは数多くオイル交換をこなしているだろうから、私は店に頼むで良いと思ってる。自分でやると廃油の処理とか分かんないしね。バイクは自分でやるけど。楽しいから。
    さて午後。いくつかミーティングをこなし、終業。今日は柏で長男の通うかもしれない塾の説明会を受けてきた。高校3年で7月22日まで塾に入っていないって現実から目を背けてきたけど、ここらへんできちんとした塾に通うんだろうなという空気感で我が家は包まれている。
    終わってから長男が次男に、今ここで頑張らないといけないから、遊べないわごめん、って言ってて、まぁ確かにそうなんだけど、実際、いい大学に入れたからと言っていい人生を送れるかというのは、疑問。

    何を優先するかという話

    日本はそこそこの学歴社会だと思う。大企業に入りたいならきちんとした名前の通った大学に行けたほうが、入る確率は上がるんだと思う。任天堂なんかは東大京大ばかりだと聞くし。
    ポイントは生きていく上で何を重要とするかということ。
    このブログでも何度も書いてきたけど私はいわゆるFラン大学卒業で、いろいろあって47歳までやってこれた。マイナスな面で言えば、と思い立って手を止めて、しばし考えてみたけれど、マイナスな面なんてないような気がする。有名な会社に入れなかった、入らなかったという言い方のほうが正しいかな。そもそも大企業ってあんまイメージになかったから、Fランだったけどまぁいいのかな。マイナスな面、なんだろう。生涯の収入っていう点で考えたら最初から良い企業、高給取りな業種、職種に就いていたら、生涯の収入は多かったかもしれない。結局お金か。
    今は家族4人でなんとか暮らしていける感じだし、適当なタイミングで外食したりもしてるし、家族も今の生活を楽しんでいるようだから、別にいいのかな。
    家族との団らん、時間を大切にしたいと私は今優先度を上げて暮らしていて、だから、それって給料じゃないんだよな。価値観がそこじゃないってこと。
    お金を一番に挙げる人を否定はしない。お金があると、だいたいのことは解決するから。心にも余裕が生まれるし。余裕があるってすごく大切だよな。私も現段階ではお金の心配をしていないから、心に余裕が生まれ、結果的に家族を大事にする時間が取れている、ということになるのかもしれない。
    何を優先にしたら良いか分からない人。まず、なくなったらさみしい、悲しいと思うものを挙げてみてほしい。そこから、寂しさや悲しさの度合いを、相対的で良いから、順位付けをしてほしい。そうすると、自分が何を大切にしているか、見えてくると思う。

  • 7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    病気で臥せっていたときのこと

    私は1年に1回程度風邪をひく。だけど熱はあまり上がらないタイプの風邪をひくことが多い。
    そんな私でもさすがに風邪をひいた時は仕事を休みにして、自宅で寝てることが多い。やっぱ寝るのって大切だよな、と風邪をひくたびに感じる。
    私はメンタルこそやられているものの、身体的には健康で、中性脂肪とかの中年のおっさん特有のやつはあるものの、それらと付き合っていきながら生きている。
    完全体な人間はいない。みんな、どこかしらやられていたりする。そしてそれらとうまく生きていく、共存していく、折り合いをつけていくという生き方を選択しているだろう。
    さて、私がなぜ、「家族にずっと寄り添っていたいんだぜ」と思ったのかというと、そんな、風邪をひいて寝ていた時のこと。
    夢うつつ、起きてるんだか寝てるんだか分からないような時にふと、私を除いた3人の話し声が聞こえたのだ。
    それは取り止めのないような、些細なこと、私の病気を気遣ったようなことではなく、たとえばテレビを見てそれに反応するだとか、そういう類のことを話しているのが聞こえた。
    それがとても心地良くて。私はずっと、家族の話し声を聞いていたいと思った。

    家族の形は千差万別

    私の家族は私を含め、穏やかなタイプで、だから居心地が良いということもあるのだけれど、私は家族が大好きなんだと思った。
    私が出社して会社で仕事をしている時など、私が不在の時にはこんな感じなのかな、と感慨に耽けたりして。
    そして私が仕事している間にも、私は幽体離脱をして家族の声を聞いていたいな、とも思った。
    そんなことは実際に無理だから、私は今、在宅勤務をできる限りして、家族の近くに痛いな、なんてことを考えていたりする。
    数年前に私が作家になりたい、と考えたのは、決して有名になりたいからではなく、自宅で仕事ができるから、という理由が一番強かった。結果はどうあれコロナ禍を経て在宅勤務が仕事のスタイルの一つになってそれはありがたいことで、私はそれを謳歌しているのだけれど、家族の近くにいることができるっていうのは本当に嬉しい。
    うちは決して口数の多い家族ではなく、むしろ少ない方だろう。家族の形はそれぞれで、全く同じスタイルで暮らしていますっていうのはあり得ない。両親のパワーバランスとか、子供たちとの年齢構成とか、多くの環境要素がある。
    だから私みたいに、家族の声を一生聞き続けて暮らしたいです、という意見を持つ父親がマジョリティなのかどうかすらも良く分からない。だから私の意見が全うなのかどうかも分からない。だけど私はそんなふうに、家族のことを考えている。

    理想の家族って?

    私はそれ系のスペシャリストではないし、今まで時間を使って考えたこともない。
    理想の家族なんてものは上述した通り人の考え方に依存するものだから、その人それぞれの理想があるんだと思う。
    だけど共有しているのは、思いやりを持った家族なんではないかなー、と思ったりする。これまた多数派だかどうか分からないので声は小さめで意見を表明する。
    思いやりを持つというのは、相手の考えていることを先回りして考え、家族全体が気持ちよく過ごせるように努力することなのではないかな。これまた私の意見だから、異論はあると思う。
    そうやって社会って成り立っている気がするんだよなぁ。

    死んだ時に

    そんなふうに考えているから私は、死ぬ時に、家族には周りにいてもらいたいなー、なんて考える。
    死に目に会えないっていうのは残された側としては、(死に目に会いたいと思ってる人にとっては)とても辛いことだと思う。
    死ぬ直前に会ったって話ができるわけではないんだけど、私が死ぬ時って考えたら、言葉なんていらないけど、家族の雰囲気を十分に感じながら、息を引き取りたい。

  • 私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    そもそもエモい文章ってどういうことだよ、とその時点で立ち止まってしまう。
    後ろを振り返ってみて、過去の自分を思い浮かべ、エモかった瞬間を切り取ることができたとしよう。
    だけどそれを、言葉にする力を持っていないことに愕然とする。
    言葉を知らないということなのかもしれない。つまり語彙力の問題?
    私は今まで何冊の本を読み、それらからどれほどのエッセンスを得たというのだろう。
    本の読み方が正しくなかったのでは、なんていうことも考える。

    47歳。私は割と、自分の年齢を気にする。
    47歳。80歳で死ぬとして、残り33年。
    そのうち半分は身体が動かない、心に火が灯らないということで、過少に見積もって16年。
    私が自由にいろんなことができるのは、あと16年ということになる。
    気持ちよく春を迎えることができるのは、あと16回。
    夏の陽射しに耐えることができるのは、あと16回。
    豊かな秋の恵みに喜ぶことができるのは、あと16回。
    冬の美しさに目を輝かせることができるのは、あと16回。
    その間に、自分の納得できる小説を上梓することはできるのだろうか。

    その前に、そもそもなんで私、小説を世に出したいんだっけ?とも思う。
    もともとの理由はとても不純で、ただ、家で仕事をしたいから、というものだった。
    おそらく10年くらい前になるだろう、今から考えると2016年頃(完全にうろ覚え)、私は日々の出社に疲れていた。
    家で仕事できたらいいのに、という思いは10年どころではなくもっと前、もしかすると新卒で入った会社の時点で考えていたのかもしれない。
    出勤時で得られるストレスは半端ない。満員電車嫌い。得られる恩恵と言えば、狭苦しい中で読む小説くらいのものだ。
    コロナ禍を経て、週の半分くらいは自宅で仕事ができるようになった。だから本質的な問題は解決されたのだ。
    これで良かったのだろうか、とふと考える。
    これで良かったのかもしれない。

    最近、インターネットで見かけた言葉。

    静かに続けることのできる人が、いちばん遠くまで進めることができる。

    野球で有名なイチローは、日々、同じように準備し試合に臨んでいたと聞いたことがある。
    変なことを行うのではなく、毎日同じように起き、食事を摂り、準備運動をするなど、一般的な人間のやるべきことと大差ないはずだ。
    違うのは、それをイチローは、繰り返し行うことができたということ。
    私は文章力が全然ないと感じているけれど、それも同じことで、日々、何かしら文章を考えて書くことで、
    もしかすると、ずいぶん遠いところまで来てしまったな、と後ろを振り返ることができるのかもしれない。
    そしてその先には、冒頭に書いたエモい文章を書くことができるのかもしれない。
    いつから始めればいい?それが遅いということはない。今日からだって。というか、ここで綴っていることがそのきっかけになっているのだろう。そう信じたい。

  • ロディア No.11とA6ノートの基本的な回し方

    ロディア No.11とA6ノートの基本的な回し方

    いわゆる仕事術!みたいな考え方を目にすると、きちんとした型にはめて実行するものが多いように感じる。私はもっとゆるくて良いのではないかと思う。

    守破離という言葉がある。まずきちんと型を守る。そこからその型を破り、やがて離れていくという考え方だ。だから、まずその型を理解することが必要だ。そして離れていくために、自分流のやり方を見つける、というものである。

    ここで、私が最近取り入れているやり方を載せたい。ここ3ヶ月くらい、以下のやり方で仕事を回していて、結構気に入っている。

    日々の仕事

    1. まず、ロディア No.11をいつでもどこでも持ち歩く。通勤して出社する人なら、ポケットにロディア No.11とボールペンを入れておく。ロディアには、着想するすべてのアイデアや、やらなければならないことなどを1ページ1つの項目として載せる。ロディアの役割としては、情報を逃さないというもの。「あーあれやらないと!」と突然降ってきたような仕事を、出社してPCを立ち上げるまで覚えているのは不可能だ。仮にそれが可能だとしても、出社する時のエレベーターで同僚と会い、違う話をしていて忘れてしまうなんてことが多々ある。そういうのを防ぐために、情報を残しておくのだ。
    2. 出社してPCを立ち上げる。その時にもロディアが効く。一日のタスクリストを作るためだ。ロディアは1行が5mmという、文章を書くにはギリギリのサイズ感。そしてとても小さいため、タスクに載せるリストは最小限度の言葉を使う。その言葉だけを見れば、何をやらなければいけないかが瞬時にわかるよう、冗長な言葉は可能な限り排除する。この行為が割と重要で、いわゆるタスクのエッセンスだけを抽出するのだ。そうすることで、本質的に、何をすれば良いかが瞬時に理解できるようになる。と言うよりも、書いているうちに何をすれば良いか具体的なアクションが浮かんでくることに気づくはずだ。
    3. ここから、ロディアとA6サイズノートの共演が始まる。基本的にロディアになんでも書くが、仕事上で自分なりに思考する必要がある場合、ロディアではスペースが小さすぎる。だからここで、A6ノートに内容を拡げていく。サイズはA6ではなくても、もっと大きなものでも構わない。0秒思考のように、A4のコピー用紙あたりを使うのも良いだろう。私がA6ノートを使っている理由は、絶妙なサイズ感だ。私はスペースが大きすぎると、つい冗長的なことを書いてしまう。「そんなことを言われても、、」のように、ぼやきを入れてしまうのだ。これはこれで良いかもしれないと考えたこともあった。私の思考プロセスを可視化して、私が躓いているポイントをあぶり出すことができるからだ。だけどA6ノートでは、冗長的なことは書けず、ここもロディアと似たところがあるが、可視化する言葉を厳選する必要がある。このようにして、なるべく本質的なことから逃げずに、アイデアを膨らませたり、タスクを細分化することができる。

    以上が、私が最近取り入れているやり方だ。アイデアを失いたくないという私の貧乏性な性格が、このやり方を作り上げたと言っても過言ではない。私は仕事以外でも、小説を描いたりもするので、その点でもアイデアを逃すというのは書く機会を損失するということになる。

    たまたまこのブログを見つけた方には、いったんこのやり方を取り入れてほしい。ロディアは275円、A6ノートはページ数が少なければ100円、ボールペンなんて今お持ちのもので十分なので、イニシャルコストは数百円だ。

  • 人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間は死ぬまで成長できる、と考えていたけれど、時折、足踏みするよなと思ったりもする。

    足踏みする自分を許容しても良いのだろうか。そんなことじゃダメだろ!と鼓舞し、自分の成長を促すべきなんだろうか。

    促すには体力が必要だ。気力も同じくらい必要で、それらがないと自分の中で力が出てこない。

    成長のために、気力と体力を準備するのって難しい。40代も後半に差し掛かってくると、その両方が同じタイミングで満たされるってことが結構貴重なことなんだなと思う。

    だとすると、自然の流れに従って、死ぬまでぼんやりと生きるという生き方、考え方も貴重なのではないかと思う。

    貴重というか、考慮すべきというか。

    常に100%、いつでも発射できますぜ!というスタンスを作るのが難しくなっていくからこそ、ケセラセラ、Let it be的な生き方も考慮すべき、みたいな。

    たぶん、基本的には後者のスタンスで生き、自分の中で「今行けるな」と感じた時に、成長の機会を促すべくアクションを起こしていくことが必要なように思う。

    たぶん、って上で書いたけれど、きっとこれ正解ってないんだよな。

    だけど昨今、成長していかなきゃ!ってなることが多い。

    SNSとか見るだけでも、他人と比較してしまったりして、自分の武器の拙さ、弱さに辟易したりして。

    ちょっと哲学的な考え方に実を寄せてみると、これ系のことがすでに打ち出されているのに気づく。

    例えばニーチェ。自分で価値を作り、それを肯定すべき。苦しみは成長するための条件。(善悪の彼岸)

    ずいぶんとまぁ背中を押してくれるよな、と思う。

    いやそもそも、上記、私の前提が良くなかったかも、と思う。

    気力体力を十分に必要とする成長にばかり目を向けていたから、「できないときはしょうがない」なんて条件を加えていたんだ。

    そうじゃなくて、気力体力が十分じゃない時にでも、その時に持ってる気力体力で臨んでいけば良いだろう。

    自分の価値を創造するために、必ずしも気力体力が必要じゃないということ。

    そもそも、上述したけど、むしろ100%じゃない時の方が多いもんな。

    成長の機会、と言ってみても、それはいったいどんなことが挙げられるだろう。

    分かりやすいところで考えると、仕事をもっと効率的、効果的に進めるために、必要な知識を得ることとか。

    今の私で言うと数字を集計し、マネージメントへ報告するという業務が大半なので、数字が暴れているところをいち早く察知して、それの原因を探り、必要な対策を講じること、この一連の仕事をもっと効率的にやっていきたい。

    この流れで考えると、自分の仕事を効率化させるには数字を集計するところのスピード。あと正確性。もしくは、見方を変えてみると、一連の流れを自動化することも可能かもしれない。

    目の前にある仕事を毎月のように同じ作業を繰り返すこと自体は楽だ。あんま物事を考えなくて済むから。だけどこのご時世、このテの仕事は自動化すべきだという風潮をものすごく強く感じるので、その方向で考えていっても良いのかもしれない。

    仕事から離れてみるとどうだろう。このブログにも書いているけれど、ランニング。つい5年くらいの間に、ランニングをする習慣がなくなり、身体が太ってしまった。健康的な身体作りというのは、ライフワークとして考えていくべきなんだろうな。こんなところで倒れてなんていられないもんな。

    ランニングは日々、コツコツとやっていくことが肝心なので、なるべくそっち側に意識を向けて、頻度を上げて取り組んでいきたいと思う。

    仕事とプライベートという両面で、成長の機会というものを考えてみたけれど、その前に、こんな感じでブログを書くことだって自分の成長につながるのではないかと思う。文を書くって難しい。自分の考えを適切な言葉を使って可視化するのって、すごく難しい。けれどそういうものもランニングと同じで、日々、コツコツと続けていくことが必要なんだろうな。

    そう考えると、コツコツと続けることこそが、人間にとって一番大切なことかもしれないなぁ。

    結局、正解はないんだよな。でもニーチェはこう言った。『苦しみの訓練こそ、人類のあらゆる高まりをもたらした唯一の原因である』。私は、いったいどんな苦しみを抱きしめる?

  • # 星を掬う 町田そのこ ★★★☆☆

    # 星を掬う 町田そのこ ★★★☆☆

    ## 星3つ

    とても重たい話です。私はこの登場人物たちの抱く感情や思考を100%受け入れることは難しくて、きちんと感情移入できませんでした。

    町田そのこさんを読むのは2作目、52ヘルツのクジラたちに続いてこれです。

    どちらの作品も、「家族」っていうものが作る絆とか、愛とか、そういうものをテーマに描かれており、今作もまた、家族というものの在り方を考えさせられるような内容でした。

    星が3つだったのは、ストーリーが私には重すぎたからです。

    それぞれみんなが重たいものを抱えていて、ぶつけ合ったり、労りあったりするんだけど、その起伏が激しくて、正直なところ私は疲れてしまいました。

    町田そのこさんのすごいところは、丁寧さだと思います。ストーリーの展開もまた結構ダイナミックなんですが、それを進めるための登場人物たちが抱く心情をきちんと言語化していて、またそれが伝わりやすく、はっとさせられるシーンが何度もありました。

    辛い思いをした分、報われてほしいと心の底から思いました。

    ページの残りのボリュームから、そろそろフィナーレに向けて浮上していくんだろうなという予想を大きく裏切るような展開に、歯がゆい思いをしました。だけどそれでも、読みたくなってしまうのは、町田そのこさんの描く物語が魅力的だったからだと思います。

    ## 家族って

    私は恵まれています。たぶん。

    生まれ育った家族も、私が築いてきた家族も、みんないい人ばかりで、家族っていう軸で困ったことってそんなになかったように感じます。だから恵まれているんだと。

    100%そうとは断言できないこともあって、おそらく私は忘れてしまっている記憶の中に、いい人、という文脈から離れているようなエピソードだってあると思いますが、それでも、総括して「みんないい人」と感じることは、きっと幸せなことなんだと思います。

    家族って人間が生きていくためには必要で、子どもは成長していかなきゃいけないし、親は守ってあげなければいけません。

    この本を通して、家族の在り方とか、子どもに対して同接していけばいいのかとか、問題を抱えた時にどう対峙していけばいいのかとか、そんなことを常に考えたような気がします。

    みんな幸せに、健やかな家族ばっかりで、みんな素直に生きていけたらいいんだけど、そうはいかないもんな。

    私の中の常識を決して押し付けることなく、広い視野で見守っていきたいです。