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  • 8月2日 向かい風に向かって走るためには

    8月2日 向かい風に向かって走るためには

    バイクで向かい風はキツい

    今日は日曜日でお休み。7時くらいに起床。今日も暑い。
    今日はロードバイク。40km行こうかと考えていたんだけど、AIに相談したらやめとけ、30kmにしとけって啓示が降りたので、その案に従って30kmロードバイク。
    我孫子の曙橋ってところまでのライド。昨夜、手賀沼での花火大会があったからそのゴミとか落ちてんのかなぁーバイクで踏んだらやだなぁと思いながら向かったけれど、ゴミ的なものはほぼ落ちてなかった。すごいね、この数時間で掃除した人がいるってことだね。もしくは手賀沼まで来てた観客たちの「着いた時より綺麗に」っていうマインド、モラルの賜物か。掃除の人にしても、観客たちにしても、どっちにしても翌朝、花火終了から12時間以内の空間でキレイにしてるってこと、ほんと誇っても良いと思う。

    さて、目的の曙橋まで、行きはほぼ向かい風だった。踏んでも踏んでも進まない。人生って向かい風が吹いている時って大体辛いよな、みたいなことを考えながら走った。これはロードバイクだけじゃなくて、ランニングする時も同じように考えてたよなぁ。人はなぜ、向かい風なのに進もうとするんだろうか。風が止むのを待って、そこから走り始めたら良いのに。
    向かい風だとしても、前に進む理由があるんなら、進むしかないよな。風が止むをの待ってなんかいられないことの方が往々にしてある。自分の信じた道が、たとえ向かい風がバンバン吹いていたとしても、それに向かって進むしかないよな。

    逆に、帰りは追い風だった。そしてそこでも私は考えた。追い風の時って、割と無意識に風を感じていて、「今の私、追い風が吹いてる!」とは、人生の中でも感じることはないように思う。
    私みたいな、どっちかというと慎重な人間は、追い風が吹いてる!と感じた時、それはむしろ悪いことが起きる前触れだったりするから、より一層気を引き締めて暮らしていこう、と改めて考えたりする。いわゆる、足元を掬われるってやつ。ほんとそういう時に滑りやすいよね、人生って。

    30kmを終えて帰宅。尻付近と、尿道付近に痛み。痛いと言ってもどっちも、ヤバいやつではなく、ロードバイクあるあるなやつ。走りながらも痛みを感じていたけれど、そういう時って上半身が前に倒れていて、腕というかハンドル付近に重心が寄っているような気がした。頑張って上半身を起こして走ったら、なんとなく痛くなくなったような気がする。ロードバイク買って7年とか経つけれど、初めて知った事実なんではないだろうか笑

    宗教ってどうやってできたのだろう

    私は一切,哲学とか宗教学を学ぶ機会がなかった。大学は理工学部だし,単科大学だったということもあり,基礎教育としてその辺りを教育できる人を囲っておく予算はなかったのかもしれない。あったとしても、当時の自分は哲学とか宗教にはなんの興味もなかったから、きっと取ってなかっただろうな。

    今日、ぼんやり,ロードバイクに乗りながら宗教の成り立ちを考えていた。
    所詮素人の思いつきだから,事実とは大きく異なるとは思う。興味があったら調べる。

    さて,どうやってできたのか。私の意見はこちら。

    人が増えてくるにつれ,多様な考えが生まれるようになった。
    人々は苦しみ,一時の快楽に溺れ,やがて死んでいくという人生。多くの人はそうだった。そのことに疑いを持たず、人生ってそういうものだから、と先人たちに言われて年をとってきた。
    さて、そんな中で人間は、死んだ魂はどこにいくのだろう、と考えるようになった。
    物理的には、死んだら魂なんてものはどこにも行かず、血液が脳に流れなくなった時点で終わり。いわば宗教的な、輪廻転生とか、そういうものは一切あり得ない。私もそう思っている。
    脱線した。多くの人は、死んだ魂はどうなってしまうのか。とても気になった。

    そして、「天国」が生まれた。皆が、自分の理想とする世界が天国。自分の理想って様々。多分私のと、このブログを読んでくださっているあなたの描く天国は違う。

    そこで、人は考えた。共通の天国を作れば、分かりやすく、多くの人にその天国というものの大切さを伝えることができるのではないだろうか、と。
    今、苦しんでいる人は、死の淵を彷徨っていて怖がっている人に、その天国のことを教えれば、その人は怖がらずに死を迎えられるのではないだろうか、と。
    それが果たして、住民にとって良いことなのかはわからない。しかし、現在の生活がうまくいっていない人に、死なずに、生き続けるには希望が必要だ。現世でやり直すのは難しい。このままどんなに頑張ってみても、生活は苦しいままで、そんならもうこの世からいなくなってもいいよね、どうせ私がいなくても、誰も困らないし、と自暴自棄になってしまう。

    それを防ぐことが必要だ。気持ちがアウトローになっていても、生きていくためのモチベーションを与えなければいけない。そして、そこに必要なのは天国という存在。
    今は地獄かもしれない。けれど死んだ後は天国に行けますよ、という教えが誕生する。

    必要ない人だってたくさんいる。だけど、今の生活に躓きを感じる人は、「ちょっと信じてみようかな」って軽い気持ちで考え、やがてその宗教に入る。
    入ったところで生活が改善されるのを保証されるわけではない。もしかするともっと苦しくなってしまうかもしれない。だけどその、拠り所があるだけで、「また明日も生きてみようかな」と思えるようになるのではないだろうか。
    素人考えだから、これが当たっているかどうかはわからない。だけど、宗教の成り立ちと、宗教に没頭する信者の考え方を整理してみると、面白い結果になったりするのかもなぁ。

  • 7月26日 暑い、暑い

    7月26日 暑い、暑い

    今日の出来事

    7時台に起床。早い。昨夜はあまりよく眠れなかった。気温はグッと下がったんだけど、睡魔がやってくるのに時間がかかった。体感的には30分くらいは眠れなかったのではないだろうか、と。
    昨夜、思い立って、薬を飲むのをやめてみた。私の場合、一日二日程度飲み忘れても、急激なダウンっていうことはないので、時折そうしている。なぜ飲むのをやめたのかというと、翌日、つまり今朝、早く起きる必要があったから。
    現在飲んでいる薬のセットは、午前にものすごい眠気を引きずる。だから仕事とかも午前は気持ちが入っていかないことが多い。困っている。先生に言っても、普段の生活で慣れて行けば眠気がなくなるはずと背中を押されているんだけど、もう何年も治りませんよ。そのせいで朝ランもやめた。朝活全般ができていない。最初は仕方ないかな、体調が良くなることを優先するよね、と思っているけれど、もう7年とかになるかな、心療内科で処方されている薬を飲み続けていて、全くもって改善が見られないので、正直なところ、もう嫌気がさしている。
    このブログを読んで、私も心療内科でもらってる薬、飲むのやめようかなと思った方、くれぐれも自己責任でお願いします。
    ってか、心療内科でもらった薬を飲み続ける生活を7年も続けている、って上述したけどさ、ゴールってなんなん?どうなったら薬を飲まなくてもやっていけるわけ?
    全然分からない。
    夜、きちんと眠ることができるんなら良いとか、定量的な指標を作らないと、こりゃ死ぬまで飲み続けるしかないんじゃん、って思ったりしてしまう。
    そんなことないよね、知らんけど。
    これ、まだ試していないのだけど、薬を飲む以前の、朝起きちゃってランニングとかしてた時代に戻りたいと思っていて。薬をやめることで被るリスクは十分に取った状態で、だけど生きていけます、みたいなスタンスで生活を営むことができたら良いんだよなぁ。できるかどうかは分からない。薬を飲むことをやめて、体(というかメンタル)にどう影響するか、試してみないと。っていうか、病院の先生に相談すべきなのでは。いや、減薬は何度も相談してるじゃん、だけどはぐらかされる(っていうのとはまた違う感じだけど)ばかりで、先に進まないじゃん。ってか、飲まなくてもやっていけるのでは?というのは今年入ってから考えるようになっていて、仕事先が変わったため?なのかは分からないけれど、気持ち的に安定しているからか、そう考えるようになったんだよな。行動に移すか。しばらく薬を飲まないで生活してみようか。
    話が脱線した。この頃の私の日記は脱線ばかりだ。
    今日も子供達はイベントづくし。そして私は今日は長男に付き添って、一緒にお出かけ。
    そして今、長男と別行動をし、その間私はここでブログを書いている。
    森がたくさんある場所でのイベントで、私は欅と台湾ふうの子供をゲットした。帰宅したら盆栽に仕立てるつもり。

    新しいノートの話

    ここ数ヶ月、私はAmazonベーシックの、黒い表紙のノートを使っていた。スリムなA5って感じのサイズ感で、紙は割とザラザラしていた。EFの万年筆を使うとガリガリいう感じ。
    私はどちらかというとペンの滑りを優先するタイプなので、このガリガリ系はちょっと苦手だった。ずっとガリガリ。質の悪い紙と言ってしまうとそういうことになるのかもしれないが、手帳用紙には敵わないよなぁと思いながら240ページのノートとともに数ヶ月の人生を旅した。
    そして今度は、EditのA5ノート。いったん、私のホームであるほぼ日領域に戻ろうかと、A5のほぼ日ノートを買おうとしたんだけど、Amazonからおすすめされてちょっと気になったので買ってみた。ページは320ページと、ほぼ日ノートよりも多いボリューム。値段もまぁ、A5で320ページの割に1500円台ってなかなか安いでしょ、という値頃感で、ポチってみた。帰宅することには家に届いてそうな気がする。書いてみての印象はまた改めて書こう。楽しみだ。
    気づいたらだいぶどっぷりと文房具の沼にハマっている気がする。万年筆は、気づけば4本持っている。ノートの質、ペンの滑りにはこだわりたい。手元に手書きできるペンとノートを常に持ち歩きたい。文房具の雑誌をKindle Unlimitedで見つけたら、没頭するように読んでしまう。お金があったらシステム手帳を手に入れてみたい。好きなサイズはバイブル、A5、A6、A7。A6とA7を組み合わせたアイデアをまとめる方法をKindleで出版したい。お店を出すなら文房具屋をやりたい。
    ざっとこんなところか。最初の万年筆を買ったあたりからハマり出している気がする。2018年頃か。もう7年以上も経っているのか。早い。人生はあっという間。

  • 7月19日 命を預かるということのインパクト

    7月19日 命を預かるということのインパクト

    家に新しい風を吹かせようと

    9時くらいに起床。3連休の中日って本当に幸福に包まれている気がする。
    何のプレッシャーも感じない。普通の土日休みだったらきっと、今日は日曜日だから、日曜日らしいことをしなくちゃ!と小さな焦りを抱えながら生きているから。
    ぼんやりと目が覚め、今日は二日酔いではないことを感覚で掴み、朝食。フルグラ。今日は13時にはま寿司を予約しているから、軽めに食べようということで、家族揃ってフルグラを食べた。
    しかし、ここで、今日、千葉ニュータウンにあるジョイフル本田(結構通ってる)で保護猫の譲渡会があることを知る。
    ここ数ヶ月、テレビで譲渡会のことをやっているとついつい見てしまう我が家、だけど怖がって今まで一度も譲渡会に参加したことはなかったんだけど、今日は初めて行ってみようと家族の意見が一致。
    途中、藤ヶ谷あたりにある珍来で昼食を摂った。
    レイソル一色。店内に備え付けられているテレビにはレイソル戦のハイライトがずーっとやってて、次男はラーメンそっちのけで夢中になって見ていた。ずっと見ちゃうよね。しかも2025年シーズンのハイライトだったから、カッキーのオーバーヘッドキックとか出てて、懐かしい〜!ってなった。コヤはまだいたんだよなぁ。左サイドにコヤがいるのは驚異だったよ。戻ってこないかなぁー、と次男。
    流石に戻ってこないだろうな、残念だけど、と思いながら私もラーメンを食す。
    さて、念願の、譲渡会の話。
    開催していたのは千葉県にあるNPO法人の方々がやっているそうで、会場には十五匹くらいの猫たち。生まれて数ヶ月から、割と大きい、4歳くらいの猫まで勢揃い。だいたいみんなゲージの奥の方に陣取ってじーっとしてたり、寝てたりしてた。お客さんは私たちが見てた時で15人くらいはいたのではないかなぁ。猫と人間、1対1くらいの感覚だね。
    NPO法人のスタッフさんたちとも結構話した。うちはまだ一匹も猫がいないので、子猫を飼うのであれば、遊び相手という感覚で二匹いると良いとのこと。その感覚はなかったけれど、まぁけど、一匹も二匹も変わらないだろ、と個人的には考えたね。家族的にもそんな感じで捉えることができたので、それはそれ で一つの収穫だったかもな。
    なんとなくめぼしい子たちの名前を覚えて、今日は終了。
    私は割と即決したいタイプで、それは「せっかく行ったんだから」という気持ちの裏返しでもあるんだけど、そこまでガソリンを使ったのに何も手に入れずに帰るというのがとてももったいなく感じることが多くて、だから今日も予約して帰るくらいの感覚でも良かったのだけど、家族の総意としては決断を一旦持ち帰る感じになったので、そこでは確約せず。
    まぁ、私としても「この子が欲しい!」というくらいにまでビビッとは来なかったから、即決しなくて良かったのかもな、と思ったり。

    命について考える

    それからしばらくは、なんとなくぼんやりしてしまった。
    命を、しかもいっきにふたつも預かるということに対する、責任の重さをずっしりと感じてしまったんだな。
    せっかく迎え入れるんだから、天寿をまっとうして欲しいもんね。
    まぁ、ウチの家族はみんな優しいし、うちにやってきた新しい命にたいして暖かく接することができると確信しているから、だからきっと不幸せなことにはならないと思うんだけど。だけど、それでも、命を預かる重みっていうのは割と本気で、重たいよな、と感じた。
    それはメダカとかのレベルとは違っていて、多分メダカは安ければ100円くらいで手に入れることができるし、長くても3年くらいで寿命を迎えるから、その分意識が軽くなってしまうような。考えすぎかな。メダカが死んでしまった時も、悲しいと言えば悲しいもんな。
    ということで、そのあたりの覚悟も決めて、猫を飼おうと思う。
    大丈夫、きっとうちを選んでくれた子たちも、きっと、この家を、私たち家族を気に入ってくれると思う。

  • 恋よりも、嫉妬の話をしたくなった

    恋よりも、嫉妬の話をしたくなった

    恋焦がれる、という言葉がある。
    気持ちが焦げるほど好きだと、今の私は理解している。
    では、恋をしている時っていったい、どんな気分なんだろう、とテレビのCMでプロポーズをする男性と女声の姿を見ながら考えた。

    気持ちが焦げるほど、熱い思いを抱く。
    私は柏レイソルが好きで、現地のゴール裏で応援する時はそれこそ、熱い思いを抱いて精一杯大きな声を出して応援する。
    しかし「焦げる」って。やり過ぎではないだろうか。
    ものが焦げると、もとに戻すことができなくなる。不可逆だ。
    まぁ気持ちについてはそれほど、後戻りができないほどの思いを抱くってことはさすがにないだろうけれど、と思いながらもふと、嫉妬という言葉を思いついた。
    嫉妬は怖い。もとに戻ってこれなさそうな気がする。
    私は嫉妬というと、憎悪という言葉を連想する。
    ねたみ、そねみ、という言葉の持つ強さ。

    嫉妬は、自分が手に入れることのできなかったものを他の人が手に入れたと知った時、気付いた時に感じるもの」

    という言葉を最近知った。
    自分があれほど恋焦がれるほど好きだった相手を、他の人がかっさらっていったと気付いた時、人はどんなことを思うんだろうか。
    後戻りできる程度で、「まぁ、時期が悪かった」とか、「もともと合う人ではなかったのだ」とか、「縁がなかった」くらいで片付けることができる人は、もしかすると恋焦がれるというレベルに達していないのではないだろうか。

    いや。
    うーん。

    恋焦がれるレベルというのは、人それぞれだから、それは私の考える程度の話か。
    となると、恋焦がれる=後戻りできない、という式は、成り立たないのかもしれない。

    それよりも私は今、恋焦がれるということよりも、嫉妬の方に気持ちが惹かれているのを否定できない。
    嫉妬モノ、というジャンルの作品、映画やドラマってなんで人気があるんだろうか。
    映画やドラマって、昨日も書いたけど、非日常を楽しむものだから。
    嫉妬って自分の日常には大して転がっていない。私の周りはいつも平和だ。
    そんな私が、普段触れることのない嫉妬について煮詰めてみて、それを作品にしたらどうだろう。
    世間では良くあるネタではあるから、きっとストーリー自体はあっと驚くようなパターンにはならないだろう。
    恋愛モノでは少し詰まらない気もする。私は真っ当な、普通の恋愛しかしてこなかったので嫉妬に関する引き出しが少ない。
    私は素直すぎるところがあるから、嫉妬という感情の変化球にはついて行けない気がする。

    いや。
    うーん。

    それは私の思い込みかもしれないね。
    嫉妬についてもうちょっと考えてみようと思う。

  • SRV250 ルネッサ ちょっと街乗り

    SRV250 ルネッサ ちょっと街乗り

    ガソリンを5リットル入れて少し乗ったんですがまたしてもエンスト、、。ホースから漏れておらず、プラグはまだ新しく、バッテリー電圧は13v付近なので問題はないと思うのですが。。

    レギュレータかなぁ、乗り終えてアイドリングさせるとだんだん電圧が下がっていき、やがてエンスト…。

  • SRV250 ルネッサの調子が悪い。またしても。

    SRV250 ルネッサの調子が悪い。またしても。

    ここのところ、何があるか分からないからという理由で遠出はしておらず、したとしても私の住む市内、つまり半径5kmくらいをうろちょろと走ることが多いのですが、走っている途中でバイクに異変が。

    • 低回転状態だとエンジンの回転が落ち、最悪エンストしてしまう(だから常にアクセルをすこーしだけ開けて待ってたりします、信号待ちとかで)
    • 多少回転が上がってくると気持ち良いくらい伸び上がり、エンストなどの問題はない
    • バッテリーは13vくらい
    • (上の問題とは関係ないかもだけど)セルモーターが回ってない感じがする。昨日軽くエンジンをかけようとしたらそんな感じに。

    意味が分からない

    良く、パスコンに関するスラングで「何もしてないのに壊れた」と言う発言がありますが、まさにその状態。直前までは気持ち良く走れてたんです。私は回転を上げたりせず、普通に低めの回転数で走るのですが、だからエンジンに無理をさせるということはしていないのです。
    強いて言えば、最近暑いから?とか、信号待ちが多くて暑い中アイドリングさせてるから?とか、そういうことは思い当たるのですが、果たしてそれが原因とはちょっと思えず。

    次に何をする?

    • とりあえず、バッテリーを充電します。これでセルモーターが回れば、新しいのと替えなくても良いかなと思ったり。ま、ヤフオク品質なので、新しいものに替えても良いのでしょうけど。
      替えてみるか。
    • エンジンの回転を上げるときちんと吹け上がるということから、もしかしてエアクリーナーが劣化してる?と思ったので、これは新しいものを買ってみようと思います。

    ご参考まで、買おうとしている商品リンク


    ヤマハ SRV250 ルネッサ 4DN 1992-1993 1996-1997 セルモーター スターター モーター 社外品 純正品番 4DN-81800-00 4DN-81800-10 4DN-81800-20 互換 パーツ

    NTB(エヌティービー) YA-1014 エアフィルター SRV250/ルネッサ バイク
  • 三島由紀夫 潮騒 ★★★★☆

    三島由紀夫 潮騒 ★★★★☆

    青年があの航海を経て見た景色は、以前は遠いものだったんだけど、やがてそれが手の届く距離に近づいたんだねぇ、としんみりしてしまいました。
    彼は、自分が成長していく様を自分で理解しつつ、周りにいる人たちとの関係が、最初は小間使いだったような立場から、自分が経験を積むことでだんだん一人前に認められていくという点を、この三島由紀夫という作家は丁寧に、瑞々しく描いていて、さすが、後世に語り継がれる名作を描くだけあるな、と思いました。

    三島由紀夫の作品は、これが初めてでした。当時の時代背景とか何も知らず、これが彼の前期なのか後期なのかみたいなもの、というのも知らないままに、ネットでオススメに入っていたからという理由で借りたのですが、読んで良かったー!という読後感がありました。
    ストーリーの展開が、この先どうなっていくの?!というエンタメ感はありつつも、海の美しさ、十代の若者たちが胸に抱く思惑など、少ない文量ながらも丁寧に描かれているなと感じました。

    新治は急いていた。千代子はそれを知っていたから、彼よりももっと急いた。言葉は出ず、あの告白はまして出なかった。新治が自分の目の前に一秒でも永く居てくれるようにと祈りながら、彼女は目をつぶった。すると彼の寛恕をねがった気持ちが、実は彼のやさしさに触れたいと思う久しい希望の、仮面をかぶったものにすぎないことが分かるのだった。
    三島由紀夫 潮騒 第79刷 P99

    これは、千代子が新治に恋い焦がれる状況で、新治と別の女性との恋仲を打ち砕くようなことをしてしまった後に、新治のもとへ訪れ、そのことを寛恕してもらいたい(もういいよ、みたいな許しを得たい)つもりで訪れたわけです。しかし新治は仕事に入っていて忙しくて、十分に千代子のことをかまっていられない状況で、だけど千代子としては大好きな新治を眼の前にしているから、その中でのドキドキ感とか、そういういろんな思いが込められているな、と思いました。
    結局新治はこの後、千代子に優しい言葉をかけて、この場面は終わるのですが、新治の優しさとか、言葉少なで語る男らしさ、個性みたいなのが前面に出てくるような、素晴らしい場面でした。

    そうだ、三島由紀夫の凄さとして、場面の臨場感の勢いがすごいと思いました。物語は島での生活と、船上での生活(というか仕事)、大きく2つの場面で描かれるのですが、穏やかで美しい、島の自然や、その島で暮らす人々の生き生きとしたやり取り、一方、嵐の中、荒れ狂う波を進む船の状況など、文章でその風景を描くには実際に見に行かないと描けないのではないかと思うのですが、三島由紀夫はまるでそこにいたかのように、具体的な描写で文章が描かれていて、はー!すごい!と思ってしまいました。

    そして、経験とともに成長していく若者の心情もまた、具体的で分かりやすい平易な言葉を用いて描かれていて、とはいえ現代風に言うとエモさも十分に含まれていて、あぁ、私の才能では私が抱いた思いを正確に書き綴ることが出来ない、、悔しい。

    夕方沖を走る白い貨物船の影が、ずっと以前に見たときとは別種のものであったが、また新たな感動を新治に与えた。
    「俺はあの船を知っている。船の生活も、その艱難も、みんな知っているんだ」
    と新治は思った。少なくともその白い船は、未知の影を失った。しかし未知よりももっと心をそそるものが、晩夏の夕方、永く煙を引いて遠ざかる白い貨物船の形にはあった。

    かつては遠くに眺めたあの「未知」に、たしかに一度、新治はその堅固な掌で触ったのである。彼は沖の白い船に自分は触ることもできると感じた。
    三島由紀夫 潮騒 第79刷 P141

    新治が一度、遠くの海に仕事で連れてってもらい、島の外を見た後に感じるシーンです。十代の青年が、経験を経て一回り大きくなったことを実感したところを精緻に描いていて、こんな書き方ができる三島由紀夫はカッコいいですね。それは自分がかつて同じように、自分が経験によって成長したことを実感するシーンがあり、それと新治の成長を重ね合わせたのかもしれません。
    もっと私に文才があれば、、、くっそ。。

    ★4つにしたのは、これからもっと三島由紀夫を読んでいこうと思っていて、その基準にしたかったからです。これを5にしてしまうと、後に辛くなってしまうことがあるかもな、という自分の浅ましい気持ちが発端になっています。

  • コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    これは私の場合に限るのかもしれませんが、頑張ればコミュニケーションをきちんと取ることができて、つっても年相応の、45歳の普通の社会人って感じの程度ではあるのですが。

    だけど、そんな風にコミュニケーションをたくさん取った時、例えば会社の社員交流会みたいな、いわゆる飲み会みたいな場を経て、帰宅したらどっと疲れを感じることが多いです。

    シンプルに、コミュニケーションを頑張って取った証な気がしていて、例えば、コミュニケーションの強者みたいな人って、疲れたりしないのかな、と思いました。

    コミュニケーションは疲れる?

    本来、人が構成する社会生活って、コミュニケーションがあってしかるものだから、そこに払うコストってしょうがない、払わなきゃいけないような気がするんですけど、そもそも、コミュニケーションって疲れるものなんですかね?

    生きていくには必要なコストって今言ったばかりですが、果たしてそれは本当なのかと。

    というよりも、コミュニケーションって、頭を使う?のかもしれないですが、どういう時に頭を使うんでしょうか。

    • 雑談をする時、(いい意味で)適当な話題を探す時
    • 雑談をする時、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ時
    • 仕事をする時、みんなで課題に向かって解決策を練る時に、いい感じのアイデアを出す時

    いや、3番目のやつは厳密にはコミュニケーションのためのコストではないか。

    どちらかというと問題解決のためのアイデアを考える時ですね。

    私の場合、私はどちらかというと聞く方に回りがちなので、その時の相槌の打ち方、話を引き伸ばしたほうが良いのか、終わり二持っていくべきなのかみたいな時に、結構頭を使っているような気がします。

    疲れるけど、それが必要なコストかどうか

    ぐだぐだと書いてしまいましたが、肝心なのって、自分にとって、それが必要かそうではないか、という価値観なのかもしれません。

    不要だわ、そのために消費するカロリーがもったいない、という人はだんだんコミュニケーションの頻度を下げていき、最終的には殻に閉じこもってしまうのでしょう。

    私は、私の中での最上の理想はそっちがわなんですけど、それだと生きていくために得る必要のあるお金を手に入れることができなくなってしまうので、「頑張って必要と感じているコスト」と思っているような気がします。

    生きていくには社会生活に溶け込む必要があって、それには必要なコミュニケーションを取って、そうやって自分をすり減らして生きていくことになるわけですが、一方で、やっていくと慣れていくってこともありますよね。

    慣れてくるとコストが下がっていくので、気にするほどでもないレベルまでコストが下がっていけば、それはコミュニケーション強者ということになるのでしょう。

    これって難しいですよね。十人十色の考え方の中で、相手はどんな人かっていうのを見極め、今までの経験の中から同じタイプを思い出し、その引き出しを開け、そこから出てくる「雑談の作り方」や「相槌の打ち方」みたいな素材を、相手に合わせて出していく必要があるんです。

    慣れていけば、その引き出しがどこにあるかを瞬時に見つけることができるから、探す手間とか、そういうコストは最小限になるのでしょう。

    コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん強くなっていく

    コミュニケーションを取っていけば、相手がある程度の種類に分かれていくワケで、上述のいわゆる引き出しがどんどん増えていくんですよね。

    それは相乗効果で、ロジカルに考えるとこんな感じかな。

    1. 会話を開始する
    2. 相手を見極める
    3. 新しいタイプ?
      1. 新しいタイプを受け入れる
      2. 引き出しが増える
    4. 既存のタイプ?
      1. 過去の引き出しの中を見に行く
      2. その人に合った素材を出し、会話に合わせていく
    5. 次のターンへ

    こうして、コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん引き出しが増えていくんですよね。

    タモリさんなんてのは何十年も色んな人とテレホンショッキングをしてきた人なので、ものすごく膨大な引き出しを持っているのでしょう。

    どっちがいいとか、そういう話ではないので、自分に合ったペースで、コミュニケーションの幅を増やしていくと良いのでしょう。

    生きていくのって難しいです。

  • SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    前回までの記事はこちらです。

    SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    先日、日頃からお世話になっている 4DN wikiと、2chの過去ログを読み漁ってみたら、「アイドリングが安定せず、エンストしてしまう」というのは、バッテリーがヘタっていて電圧が足りてないから、スパークプラグから火花が飛ばないことがあるとか。

    これを読み、私の頭に電球の光が灯りました。

    それまで私が使っていたバッテリーは、購入時に入っていたものを充電して使っていたのです。

    なので、先日買ってあったバッテリーを満充電して、先程、小雨の降りしきる中、バッテリーを付けてみました。

    すると!アイドリングが安定するではないですか!

    驚きました。

    だけど、合点が行ったのも事実で。

    前回までのブログで書いた通り、走り出して1kmくらいしたところでエンストするんですよね。

    それって、よく考えると、セル始動する時は、ヘタったバッテリーなりに頑張って火花を散らして、そして走り出しのところまではできる限り頑張って来たんだと思うんです。

    だけど1kmくらい走ったところで電圧が降下し、とうとう火花を散らすまでには至らなくなってしまったのではないか。いや、おそらくそうだろうということ。

    今日は小雨が降る天候なので、近くを走るのは諦めましたが、それでも、次回のライドに期待が持てる状況となりました。

    次になにをしよう

    いったん、バイクが安定して走れるようになるまではいくつかタスクが必要だよな、という観点で考えると、これで十分に乗れるのかもしれないですが、まだやることとして

    オイル交換

    が残っています。

    ここにも難関が。というのも、ドレンボルトを開けるための工具がないんです。

    インターネットを調べる限り、どうやら19mmっぽいのですが、ルネッサのドレンボルトの位置はフレームが邪魔しており、いい感じにレンチがハマらないということで。

    写真撮ってくればよかった。今度載せます。

    また、どうやら19mmっぽい と上述しましたが、本当に19mmなのか怪しいのです。18mmかもしれないし、20mmかもしれない。モンキーレンチを物差し代わりにして測ってみた時には、どうやら19mmっぽいぞ、という感じ。

    ここで散在するのもアレだしなー、とか、

    いっそのことソケットレンチのセットを買っちゃう?!とか、

    だけどダイソーで買ったソケットレンチセットあるから、それの工具と組み合わせて使えたらいいから19mmのだけがあればいいんじゃないかなぁとか、

    そんなことを考えています。

    貧乏性、というヤツにちょっと近いのかもしれないですが、ダイソーで買ったソケットレンチ、今はもう売られていないようなんですが、500円の割に、ルネッサのバッテリー交換くらいなら楽勝で対応できたヤツなんです。

    ラチェットのとこ、差し込み 6.5mm (1/2)っぽいから、それに合うソケットレンチで19mmのやつを買えれば良いのかなぁ、それが一番お金のかからないやり方っぽいですね。

    ソケットレンチセット、現段階で一番安いセット、楽天で探してみたらこれっぽいですね。これ買っちゃうー?いやいやー、ダイソーのやつあんじゃん、というところでせめぎ合っています。


  • 過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過ぎてしまったことをいつまでもクヨクヨするのって思考プロセスのバグなんですかね。
    「過去と他人は変えられないんだよ、だから自分の中で変えられる未来にだけフォーカスしよう」という言葉と出会ってからは、過去、やってしまった過ちをいつまでも掘り起こしてウダウダしそうになったら、そこで思考をストップして、違うことを考えるようになりました。

    性格というか自分の考え方のクセってなかなか変わらない

    性格ってなかなか変わらないよな、と思う一方、こういう思考プロセスってクセみたいなものなので、訓練でどうにでもなるんですね。そういうのに気づくまでに、数十年もかかってしまいました。つい、最近気づいたと言っても過言ではないような。反応しない練習とか、禅的思考みたいなものを読んでいるうちに気づいたというか。思考なんてものはほとんど無意識の段階で動かしているものだから、「自分がそう思い込んでいること」に対して気付けないのが普通なのかなと思います。普通なんだけど、例えば、自分がクヨクヨしてしまいがちな性格の人は、他人から言われたことに対して「それを真正面から受け止め」、「適正な受け取り方を超えて過剰に反応して」しまい、そしてクヨクヨしてしまう。真正面から受け止めるところを、少し斜に構えた状態で受け止めるとか、そういう考え方を変えてみるってのが重要なんだよな、と思いました。

    最近あったこと

    最近、私の心を揺さぶるような事件(と書いてしまうと大袈裟で、そこまでデカい話ではない)が起き、それは私の仕事上起こった失敗のようなものなんですが、自分でなんとかできたかもしれないけれど、結果的に失敗してしまった、と。それが起こった時から、引きずっています。最近、仕事で失敗ってしなかったから、久しぶりの状況に動揺している感じで。大切なのってその後のリカバリーだから、早いとこ忘れて(根っこだけは覚えておく感覚)、次に向けて頑張ろう!と自分に気合いを入れるべきなんでしょうけど。まだもうちょっとクヨクヨしたい感じで、それがなぜかは分からず、そんなのに引きずってもなんの意味もなく、気持ちを切り替えて前に進めていくべきなのにな、という状態で。浸りたい、と言うのは果たしてなんの目的があって、そうしたいと思っているのか。誰がどう考えても、切り替えて前に進むべき、それは間違いのないことなんだと思います。
    そうだよな。書きながら、考えを変えました。つまらぬものにクヨクヨしていてもしょうがないだろ、と。