さっき風呂に入ってて、ぼんやりと、「今日も何もない、ただの平凡な日だったな」、と思った。それでもまぁ判を押したような生活よりは少しはみ出すような出来事はあったけれども、メガネを外してぼんやりと今日の出来事を俯瞰してみると、まぁ、判を押してるよな、と。
今日を一日、平凡に過ごしただけの私、これは失敗なのだろうか。
悲観的に物事を考えていた頃の私だったら、「今日は何も生み出さなかった」と考え、少しの間落ち込むかもしれない。八年くらい前はこんな感じに思考プロセスだったよなきっと。今思い出すと、結構な頻度で毎日のように凹んでいたように思う。
だけど今は違う。
今の私は、ちょっと待てよ、というスタンスを取ることができるようになった。成長を感じる。
そんな私は、風呂を出て、カミソリ負けをして血が滲んでいた顎にクリームを塗りながら、思考の続きを試みた。
そもそも、人生の大半って今日みたいな、判を押したような生活なんだよな。
それをドラマチックな日ではなかったからと言って、卑下することはないだろう。
毎日、キラキラしている人生なんて、ゾッとする。
キラキラだとか、平凡だとか、そんなのどっちだって良いこと。そもそも、人生に成功か失敗かなんて、ないんだから。
では、今日はいい1日だったな、って思うのはどういうことなんだろう。少し考えてみる。そこで思いついたのは、身体的、精神的な部分が、昨日と比べて、弱まったりしていないこと、だった。
つまり今日始まりの時点と、今、寝る前の時点で、自分というもののサイズが小さくならず、いつもの形で今日を終えることなのではないだろうかね。
それって実は難しくて、ちょっとしたこと凹んだり、つまづいたり転んだりして膝を怪我したり、今日起きた時と比べてマイナスになることが多い。それも、死ぬこと以外はかすり傷という言葉に従えば、決してマイナスということではないんだろうな。