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  • 三日坊主でも良い、大切なのは

    三日坊主でも良い、大切なのは

    ゆったりした一日

    7時くらいに起床。祝日で仕事は休みだったけれど、起きる時間は変わらず。
    昨日9km走ったせいか、ふくらはぎが筋肉痛。もしくは3日前に乗ったロードバイク40kmと、レイソルのゴール裏応援でジャンプしまくりだったやつがまだ響いているのかもしれない。
    47歳にもなると、回復が遅れるのは当然なことだ。自然の摂理とも言うべきか、いかに栄養に気をつけた食事を摂ったとしても、回復は摂取栄養の内容に関わらず、年齢に相応な回復スピードを辿る。

    人間の体ってわかりやすい。最近お酒の量を減らすようにしていて、飲む日は焼酎100mlか、ウイスキー50mlのみ。最初にそれをコップに入れて、大量の氷、それにソーダストリームで作った炭酸を割りながら、500mlの炭酸を飲み切るまで飲む。最初は酒が強いけれど、だんだん弱くなってくる。その流れが、寝る頃には酔いが覚めていて、睡眠には悪影響を及ぼさないような気がする。
    それにしても最近のソーダストリーム、炭酸の入りが弱くなった気がする。先月くらいに炭酸のボンベは替えたんだけどなぁ。500mlボトルに4秒くらいできちんとした炭酸が入っていたように思うのだけれど、最近は7秒くらい炭酸を入れても強い炭酸にならない。水温?と思って前日夜から冷蔵庫に入れてきちんと冷やしているのだから、何をすれば良いのか分からなくなっている。経年劣化とも言えないだろうしなぁまだ3年目くらいだし。暇な時にでも調べてみるか。最強の炭酸水を作りたいんだよなぁ。

    今日はそんな感じで、体を休める日と決めた。お昼にボロネーゼ。食材が少し足りなかったので近所のスーパーまで買い物。100円ショップが併設されているスーパーで、100円ショップで綾テープを買った。かねてより作りたかったトートバッグの、内側の、端処理に使いたいなと思っていて。トートバッグに限らずこういう端処理のあたりに、丁寧さが宿ると思っている。
    ボロネーゼはリュウジさんの、ワンパンのやつ。これが美味しくて多分10回くらいは作っている。レシピも、最初はYouTubeを見ながら作っていたけれど、今ではもうそれを見なくとも作れるようになっている。そして大体美味しいのだからすごい。(私じゃなく、再現性の高いレシピを作り表現したリュウジさんがね)
    それを食べたせいか、なんだか眠い。14時頃。関係ないけどaikoの二時頃って歌、昔好きだったな。少し昼寝。1.5時間くらい寝てスッキリ。つまり体が休息を求めていたのだなと考えることにする。だから今日は運動はせず。完全な休養日。こういう日があっても良いと思う一方で、「ここで運動習慣が断たれてしまったらどうしよう」という、言いようのない不安が頭をよぎる。明らかな妄想だということは体で理解している。ちょっと前に流行った「反応しない練習」にも、将来の不安は三大煩悩の一つ、妄想に考えられると書いてあった。つまり、そんな不安に反応すること自体がナンセンスで、その妄想に囚われないということが大切なんだと。

    大切なのはそれを、三日坊主だと捉えないということ

    言われてみると簡単なことで、「あー自分の悪い癖、また三日坊主で終わってしまった」と考えるのではないということ。三日坊主で終わること自体は、人間の飽きるという特性に倣ったものだからしょうがない。大切なのは、その、変な妄想を忘れ、「もう一度始めてみよっかな」と考えるのが大切なんだろうな。
    もしかしたら最近のブログにも書いたことかもしれないけれど、私は二週間くらい前から、週3回の運動、というノルマを掲げた。それに該当するのはランニングかロードバイク。必要なグッズや自転車などは揃っているから、今イマでの初期投資はゼロ。(以前は買ったけれどそれはもう数年前で、減価償却できているから割愛する)
    ハードルをいかに低く設定するか、というのは、これまた本の受け売りなんだけど、続ける技術みたいな名前の本を読んで知った。あの本読みやすかったな。今のところ私は週3の運動、それに認められるのはランニングとロードバイクと定義した。これを、続ける技術に従って考えると、ハードルを下げることが必要、ということで、どうしても続けられないようであれば、いったんこの選択肢に「通勤」を加えれば良いのだと思う。続けることにハードルを感じるのではなく、自分が習慣を続けているという感覚を持つことが大切。何よりも大切。始めてから2週間経ち、週3は達成できているどころか、週5くらいの感じで走れている。私はこういうの、熱しやすいタイプだから、常に、「週3習慣で十分」と考えている。距離も、設定していない。設定するとそれがチャレンジングだと考えてしまうから。それよりも必要なのは、習慣づけるということ。

    さて、47歳の私が今、なぜ急にそれに取り組んだのか。いわゆる根本となる背景を未来の自分のために記しておくと、健康な体を維持していきたいから。それだけ。速く走るとか、痩せるとか、そういうことは念頭には置いていない。結果としてそれらが齎されるようなら嬉しいのだけど、それはご褒美的な感覚で考えている。だって一番大切なのは、健康でいられることだから。

  • 8月4日 いろいろな気持ちを抱いた。それも日常の一コマ

    8月4日 いろいろな気持ちを抱いた。それも日常の一コマ

    毎日同じようなことを考えている

    6時台に起床。二度寝はせず。サクッと朝食を摂って会社へ。今日は楽なつくば。
    出勤中は小野寺史宜の「ひと」。チャッピーにおすすめされたもの。
    初めて読む作家さんで、前情報が何もなく、チャッピーからは「お前に合うかもよ」って言われただけなので、正直あまり期待していなかった。
    だけど、これはドはまりの予感しかしない、と感じた。まだ読了していないけれど、後述しようと思う。
    会社に着いて、バレットジャーナルで昨日やり残した仕事を確認する。

    最近のバレットジャーナルの使い方としていいな、と思ったのが、デイリーログを「今日の予定」として入れるのではなく、「今日やった結果(ログ)」として入れる、というやり方。
    メリットは、やったことを確実に残せるということ。あと、仕事に取り掛かる前に、他のタスクのことを考えなくなること。つまり集中できる。これはデカい、と思った。
    私は割とマルチタスク系な人間で、だから他のタスクが気になってしまう。仕事をしていて、同僚からTeamsで問い合わせみたいな相談が来ると、気になってしまう。これは非常に良くない。結局仕事が想定より遅くなってしまったということも多々ある。
    だから、仕事に集中するために、他の仕事には目を触れないということが必要なのではないかと考えるようになった。

    デメリットは、これまた割とインパクトがデカいんだけど、「本来やらなきゃいけないこと」を見逃してしまうという点。これはデカい。大切なタスクを見逃してしまうというリスクがあるから。仕事効率化というカテゴリーで括られる、仕事術として、適切なタスク管理はその中心的存在だ。それを根底から無視してしまう、とも考えられる。これは対策が必要。

    そこで私は考えた。私はA5のバレットジャーナルと共に、A7のメモ帳を肌身離さず持っている。これはアイデアとか、やらなきゃいけないこと、小説のネタに使えそうないい感じの状況などを逃したくないから持っているんだけど、こっちにToDoリストを毎日作って、そっちを日々の予定表扱いにする。
    こうすることで、それぞれの持ち味が発揮される。ToDoリストを肌身離さず持つことで、タスクの取りこぼしがない。ロディア No.11を始めとするA7メモ帳は、ミシン目が入っている。だから、常に最新のToDoリストが、開いた瞬間に登場する。毎日の終わりにはそのミシン目で捨てるから。終わったタスクはToDoリストで斜線等を引いて終わりにしてもいいんだけど、そこでバレットジャーナルで日々を記録する。この組み合わせはなかなか良い気がする。この辺りのアイデアで本を書きたいんだよなぁ。

    小野寺史宜、ひとについて、途中まで読んだところでの読書感想文

    さて、上述した、こちらの本。

    ネタバレを含みます

    若い青年の話。お父さんとお母さんを亡くし、一人で生きていかなければいけないという、辛い境遇。最初にお父さんが亡くなり、それでもお母さんが頑張って私立大学へと進ませてくれたんだけど、そのお母さんが突然死してしまう。絶望。涙が止まらない主人公。そんな彼を応援せずにはいられない。そして、これ以上彼に不幸が訪れないでほしい、と切に願い続けながら読んでいる。

    今、だいたい半分くらい読んだところ。通常、読書感想文というのは、本を読み終わった時に書くものだろう。だけど私はこの途中段階で書こうという気持ちを抱く程度に、この本の魅力に取り憑かれた。まだ全部読んでいないけれど、今年読んだ本の中でトップを取りそうな気さえする。まだ読んでいないけれど。

    私は小説を読む時、作家さんの思考の拡げ方、癖、文末表現などを気にしながら読む。ストーリー展開は奇抜でなければだいたい良くて、ファンタジー要素は苦手で、現実に則した話であればあるほど好きなんだけれど、この辺りの作家さんの匙加減と、物語で取り扱われるテーマの両方が、私の好みにドンピシャだった。もし居酒屋でばったり会ったら私は、生ビールを奢り、普段どんなことを考えているのか聞いてみたい。そんな風にこの作者にも興味を抱いた。

    私がこの話をなぜ好きなのか、適切に言語化できないのが本当に悔しい。ストーリー的には、主人公の不幸が重なるという境遇と、私の息子に年が近いため、子供として見ている点、また主人公の控えめな性格が、とても普通で、日常で、その点がすごく好きだ。奇抜な登場人物もいない。みんな、どこにでもいるような人ばかり。だってそうだよ、それが日常なんだから。主人公は優しさに包まれたり、若干気持ちの下がるような、ネガティブなこと(両親が亡くなる以外で)を抱いたりしているが、「それでも生きていく」というスタンスに、とても好感を抱いた。(脱線するけれど、坂元裕二脚本の、それでも、生きていくってドラマ、好き)
    ホント、幸せになってほしい、と心から願う、そして、これ以上イヤなことが起きないでほしい、とドキドキしている自分がいる。この辺り、本を読み終わったらこの気持ちを抱くことができない。だから、あえて、まだ読み終わっていない段階だけど読書感想文を書こうと至ったモチベーションになったのだと思う。
    多分、明日読み終わる。その時はその時で、また読書感想文を書いてみたい。

  • 7月21日 強くなくても良い、しなやかに生きる

    7月21日 強くなくても良い、しなやかに生きる

    有給休暇を取得した

    今年に入って何回目だろうか、4回目くらいかな。忘れた。まだたっぷりある。
    8時台に起床。午前に長男と次男の、学校の担任との面談に参加。
    どっちもきちんとした人間になっているようで、先生から心配するような声は聞かず。親の背中を見て育つというけれど、私はあんまりきちんと教えたつもりはない、だけどどっちも社会性を持った、どこにでもいる17歳と11歳になったようだ。とりあえずよかった。
    お昼くらいにバイク屋へ。家から30分くらいのところにある、ライコランドというお店。バイカーなら知ってそうなくらい有名なお店。フロントフォークのオーバーホールをしたくて、問い合わせの電話をしたら、バイクを持ってきて欲しいとのこと。超暑かった。暑いを通り越して熱いって感覚。
    バイクは風をあびて気持ち良いと感じるだろう、とバイクに乗らない人は考えるだろう。だけどそんなことはなく、ここまで暑いと熱風を感じるだけ。国道のデカめの道路だとトラックと並走することも多々あり、そうなるとトラックから出る熱でそりゃまた暑い。バイクに乗っていても汗をかく。
    やっとの思いで着いたバイク、店員さんにバイクを見てもらうと、インナーチューブも替えた方が良さそうとのアドバイス。こりゃあ高くつきそうだ、と思いつつ、車体番号から部品とかを検索してもらったんだけど、なぜか車体番号が登録されていない、と。なぜ。ちゃんとナンバーを登録したんだけどな。
    ちょっと時間かかります、とのことで、今日は番号を控えてもらって後日電話が来るとのこと。あまりにも高いようだったら、もしくはバイク屋ででもできないようだったら自分でやる以外の選択肢はない。結構大変そう。工具も買わないといけない感じ。やれやれだぜ。ヤフオクで去年の年明けくらいに買って、ようやく安定して乗れるようになったんだけど、まぁ色々あるなぁって感じ。
    で、帰宅して家族とランチ。しゃぶ葉のランチを。食べすぎた。お腹いっぱい食べられることに幸せを感じられるようになるうちが華だな、と思った。お腹いっぱい肉と野菜とご飯を食べて帰宅。しゃぶ葉を出た後に乗った車が暑かった。
    で、間髪入れず心療内科。この頃は二ヶ月に1回のペースで通っている。今日は混んでいた。なんで混んでる日と、混んでない日があるんだろう。いつも不思議。
    いつも通りの薬を処方してもらって帰宅。近くのホームセンターでホテイ草を買った。

    猫のこと

    毎日譲渡会のことを考えている。猫を飼いたい。癒されたい。そりゃ命を預かるって点では責任が生まれるけれど、それ以上に癒されるメリットの方が大きいだろうって考えている。次の土日はどこであるか、みたいなことを近くのスーパーとかで譲渡会案内のチラシを見てメモをする日々。

    レイソルの開幕戦

    開幕戦は水戸ホーリーホックとの対戦。今日の18時がチケット発売日、時間なので心療内科で診療待ち中に買った。最近のレイソルはプラチナチケット化していて、だから争奪戦になると予想して18時ちょうどにアクセスしたんだけど、難なく買えた。次男とゴール裏。順番待ち(開門前)、順番待ち(開門後)、席取り(開場後)みたいに3回くらいに分けて行かないといけない。苦行だよなこれ。あっついし。バイクで行くか、自転車の方が機動力に優れる(渋滞にハマらない)ので、そっちにするかと思うんだけど、いかんせん暑いよな、って思う。自転車かな。

    強く生きなければ、と考えていた自分に光が見えた話

    今日のタイトルでもあるんだけど、私はここ15年くらい、強い人間にならなければ、と考えていた。それは私の尊敬する上司に対する私の印象でもあるし、私は折れやすいから、強く生きなければ、この世界で生き残っていけない、とずーーーっと考えていた。
    けどそれって自分を否定することに繋がるんだよね。
    Tumblrでたまたま回ってきた言葉が、強い自分じゃなくて、しなやかに、自分らしく生きるべし、みたいなのを読んで、ハッとした。
    確かに、折れずに生きるためには、強くあろうとするよりも、しなやかに生きるって方が自分に合っている気がする。
    生まれたてのバジルのように、風が吹くとゆらゆらするけれど、知らず知らずのうちに大きくなっていくには、強さではなく、しなやかさが必要なんだよな。
    また、強く生きるっていうのは、自分の感受性を無視して、生きていくということになる。ブレない、というか。ブレないためには自分は安定していないといけないし、また、ある種、鈍感な一面を持たないといけないかもしれない。他人の気持ちを慮って生きるには、あまりにもいろんな考え方があるから、場合によっては無視する、っていうと言い過ぎだけど、気にしないという一面があるように感じる。それは自分には合わないな、と。
    ここのブログでも何度も書いている気がするなぁこの話題。この手の話題、好きなのかもな。

  • 7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    人を信じるのは危険だ

    それでも人間は、人を信じる。裏切られたことに懲りず、信じ続ける。

    私は今まで、幾度となく裏切られた。

    裏切るってどういうことなんだろう。主語がないから分からない。ぱっと思いつくのは、期待を裏切るということ。スポーツ選手がオリンピックとかで期待していたはずの色のメダルを手にすることができなかった時。サッカーの大きな大会で、優勝を飾ることができるに敗退してしまった時。

    国民の期待を一身に背負って勝負に臨み、そしてその期待に応えられなかった時に、裏切るという言葉を良く使う気がする。

    脱線したので話を戻す。

    人を信じるということは、期待するということになるのだろうか。

    人を信じすぎるのも良くないよな、とふと気づき、このブログを書こうと思い立ったのだが、最近は他人に期待しない、ということに執着している気がする。

    どうせ期待した結果にならないのであれば、最初から信じることなどせずに、自分の力で物事を切り開いてったら良いのではないか。

    信じないほうが合理的なのでは

    その方が結果的には良いかもしれない。

    例えば仕事。他の人に任せる(=信じる)ことを決めたために、それに縛られてしまい、そして他の人の成果が思わしくなかった場合、「最初っから自分でやっとけばよかった!」と後悔することだってあるだろう。

    他人に仕事を依頼するっていうのは、その結果に対しては自分も責任を持つということだ(異論はありそうな気がするが)。

    人の失敗に責任を持つくらいなら最初から、自分でやった方が気持ちが良いかもしれない。

    信じるって言うのはそもそも私の姿勢なのでは

    分かってる、私の思考が変な方向に進んでいっているのは分かってる。

    この先には、私は誰も信じない、という極端な考えに至るに決まっている。

    そんなことはない。現実世界では私は多くの人を信じているし、それを信じている自分を疑ってはいない。

    お人好しなのかもしれないけれど、私はどちらかと言うと素直な方で、性善説で生きていて、だからベースとして人を信じている。
    信じるっていうのは、私がその人を信じるということを信じるということなのか。
    冒頭にも書いたけれど私の姿勢として、人を信じ、そしてその責任を負う覚悟ができているということな気がする。
    周りくどく書いてしまったけれど、こういうことを私は子供の頃から、両親?からなのだろうか、誰かから教わってきたように思う。学校の先生や、友人からかもしれない。
    その責任を負う覚悟を、私が持つというスタンスはかなり怖くて、だって責任を取る必要があるから。となるときっと、私が信じると決めた人は、私の中での信頼性が高く、この人だったら任せても良い、結果はどうあれ私はその人を信じる、ということになるのだろう。

    信じるリスクと、信じないリスク

    信じるリスクについてはたくさん書いてきたので、ちょっと目線を変えて信じない方のリスクについて考えてみたい。
    信じないというのは、とても寂しい。悲しい。たまーに、「俺は誰のことも信じていない」などと平気で言い放つ人がいる。私はそれを聞いて、悲しいなぁ、と思う。
    信じて、その人に判断や物事の処理を進めることを任せるほどに、人を信じることができなかったと思うから。
    その気持ちを誰かから享受されてこなかったのか。
    また、そんな人を私は、孤高の人だなとも感じる。
    誰も信じていないからこそ、自分で物事を処理していかなければいけない。
    仕事という一面で考えると、仕事って一人でやるのは進みが悪いし、自分一人の観点しか入らないから、多様性という点で劣る。たくさんの人が関わると、そりゃまた進みは悪いけれど、だけどいろんな考え方を取り入れ、結果的には一人で考えたことよりもだいぶ広い気がする。
    どっちが良いということはない。その人が選んできた道で、その人が培ってきたやり方なのだから。

  • 記憶に残らない一日

    記憶に残らない一日

    仕事をしているとあっという間に1日が終わる。
    何も考えなくても、目の前の仕事をこなすだけで、あっという間に時間は過ぎる。
    文字を入力するキーボードや、マウスを触っているだけで1日が終わり。
    あっけない。あっけなさすぎる。
    時折、仕事が猛烈に忙しくなったりすると、仕事のために生活しているような気分に苛まれることがある。
    生活するために、給料を稼ぐ必要があって、だから私を含む一般的な社会人は、人質と同じ扱いで、働かなくてはいけない立場になってしまう。

    これって幸せなことなんだろうか。
    仕事があるだけ、仕事をこなせる頭脳と、体力があるだけ幸せなのかもしれないが、私が考えたいのはそこではない。
    時間と気力体力を奪われているという状態が、幸せなのかどうかという点。
    たぶん、結局のところ、自分が幸せと感じるなら良いだろう、という結論に至る気がするけど、ちょっと考えてみたい。
    時間と気力体力が奪われ、その対価としてお金をもらう。
    お金がないと、生活できない。たまに、お金無しで生活してます!みたいな、山奥に住んでいる家族を観ることがあるけど、そこまで振り切れるのすごいなと思う。
    お金は大事だよ。必要だよ。だから、自分の時間と気力体力を捧げるんだよ、だってそれくらい重要なんだから、と、泣きながら考える。

    では、お金が、必要十分な程度持っていたら、働かないという選択をするのだろうか。
    家族が健やかに過ごすだけのお金。余裕はないけれど、慎ましく暮らすことにフォーカスして、まったりと生きていく、といったような。
    たぶん、私は、仕事を探すと思う。
    お金が欲しい訳ではない。いや、お金も欲しいけど、仕事をこなすことで得る達成感や、誰か、同僚のために貢献して、その同僚を喜ばせたい。
    だいぶ飛躍した気がする。
    お金のために働くと考えていたのに、いつの間にか、「貢献したい」と目的が変わってしまった。
    お金のためだけに働くのって、なんとなく、虚しい気がする。(諸説あり)

    話を戻す。
    時間と気力体力を捧げてまで、誰かのために貢献したいということになるんだなここまでの文章を噛み締めてみると。
    これも諸説ありで、つまり価値観に依存するようなものだから、あくまで私の考えではあるけれど、私は、お金ももちろん大事だけど、誰かのために貢献して骨を折り、仕事をこなすことで「気持ち良く」なるんだと思う。
    生きているなら、仕事するなら、気持ち良く仕事をしたい。
    そのためには、自分の時間や気力体力を捧げることだってやぶさかではない。
    だってその方が気持ち良いんだもん。

    生きるって難しい。人それぞれの考え方があって、もちろん私の考えに反する人もいるに違いないし、その考えを否定するつもりは毛頭ないし、だから、いろんな考えを持った人がいる中で、仕事したり、生活したりするんだもんな。

  • ロディア(Rhodia)の良さに気づき始めています

    ロディア(Rhodia)の良さに気づき始めています

    文房具沼に浸っているうちに、何となく気になっていたロディア(Rhodia)No.11を使ってみた。これが思った以上に良くて、まるで自分と並走してくれるような感覚がある。

    やることはとにかく“書く”だけ。思いついたことをひとまずメモに落とす。
    併用してB6のノートも使っているけれど(ちなみにコクヨのソフトリング。万年筆でも裏抜けしないから好き)、アイデアを書き殴るには、B6って案外大きい。

    その点、ロディアNo.11は一言しか書けない。
    この“制限”がいい。
    余計な装飾が削ぎ落とされて、メモがだんだん洗練されていく感じがする。

    次は、この小さなメモパッドをどう日常のタスク管理に落とし込んでいくかを書いてみたい。

  • 適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    たまに、仕事に没頭すると時間を忘れることがある。特段自分の好きな仕事に集中している時なんかは、気づいたら数時間経っていた!なんてこともしばしば。
    仕事は、基本的には好きなんだと思う。私は仕事=誰か、何かに貢献するということを無意識のうちに、念頭に置いている気がする。だから、誰かの必要となるための仕事だったら喜んで引き受ける。一方、誰のためにもならないもの、何の価値もないような仕事に対しては、とても億劫になる。
    たぶんこれって仕事をする人みんな同じように思っているのではないだろうか。昔どこかで、意味もなく穴を掘り続け、ある程度掘ったら穴に土を入れて元通りにし、そしてまた穴を掘るという循環を続けると、人は壊れてしまうというのを目にしたことがある。そりゃそうだ、と私は思った。意味のない仕事は人間を壊す。同じノリで、無駄なパワハラみたいに、誰かの機嫌を取るためだけの仕事も、きっと同様だろう。

    さて、仕事に没頭する自分に関連した話で、ある程度がーって仕事を進めた後、経っていた時間を見た瞬間とか、仕事をやり遂げた時に、どっと疲れを感じるということがある。たぶんそれは「集中が切れた」ということだ。そんな時に、定期的に休んでいれば良かったなーと考えても後の祭りで、仕事の疲れを癒すには何か食べるとか、風呂、寝るなどの休息を取ることが必要だと考える。
    人間はそもそも、長時間労働に耐えうる身体を持っていないように思う。専門的な勉強をしてこなかったので詳しくは分からないけれど、8時間という、割と一般的に、一日で働くべき時間というのは、理に適っているんだろう。それ以上働くと集中力が落ちるし、腹は減るし。残業した後に電車に乗るのとかすげー辛いもんね。
    そうならないために、例えば、30分タイマーみたいな、ポモドーロテクニックみたいなやつは、きっと人間をいい感じに働かせてくれるんだろうな。やったことないけど。
    例えば、10時から11時までの間に2つの仕事を片付けなきゃいけないとしよう。それぞれ30分くらいあれば終わるような仕事。だとすると、25分頑張って、5分休憩、でまた25分、という風に繰り返せば良いんだろう。
    たったそんなことで良いのか?!と思うけど、これもどっかで読んだんだけど5分休憩は、本当に、きちんと休憩を取る必要があるらしい。そこで、あえて「何もしない」という選択肢を取ることで、「仕事の続きがしたくてたまらない」状態にし、それでモチベーションを上げるのだとか。
    なんだよそれ、ホントかー、なんて思ったけど、ちょっと想像してみると、確かにそうかもなと頷く自分がいたりして。
    私はどちらかというとせっかちなタイプで、Teamsのチャットやメールなど、可能な限り早く返したいタイプなんだけど、きっと私みたいなタイプはその、「何もしない」時間が耐えられない気がする。その5分の間にメールチェックをしたり、Teamsで来てたチャットに返事したり、きっとしてしまうんだろう。
    それだとダメで、厳密にやるのなら、いっそのことデスクから離れる、みたいなことを考える必要があるかもしれないなぁ。

    ちょっと目線を変えて、「休む」ということに目を向けたい。
    アドラー心理学的に言うと、まず働くということは、共同体への貢献、と今の私は理解している。
    で、ChatGPTに意見を聞いてみたんだけど、彼はこう言った。

    休むとは、「自分を社会へ返すための準備」

    へぇ、みたいな、新たな発見だよね。自分を社会へ返すって。そもそも自分は社会から借りていたんだ、みたいなね。
    共同体で生きるという、言わば現代の社会生活において、仕事をするというのは私の身体を使って、その共同体に貢献するということなんだから、仕事=社会貢献という目線で考えるならば、休憩はそれを行うための準備という風に考えることもできるよな。休み自体も貢献してることになるのかー、って感じだな。

  • 考えすぎないという知恵

    考えすぎないという知恵

    ──仕事に追われながら、心が少し救われた話。

    今の仕事になって、もう三ヶ月が経ちました。
    あっという間でした。時間が長く感じたことは一度もなく、それだけ覚えることが多く、仕事を回すのに必死だったということだと思います。そう考えると、たくさんの仕事があるのは、決して悪いことではないのかもしれません。
    なぜなら、余計なことを考えずに済むからです。

    たとえば、「なんのために生きているのか」という問い。
    誰もが一度は考えたことがある、けれど簡単には答えられないテーマです。私はその問いに、まっすぐ答える術をまだ持っていません。
    答えようとするたびに、相手の価値観と自分の価値観の間にあるズレが気になってしまうし、結局「今の自分はきちんと生きているのか」という自己否定のような考えに行き着いてしまうからです。

    けれど、そうした深い問いを考えること自体は、悪いことではありません。
    むしろ、自分に足りない部分を見つけ、成長へつなげるきっかけになることもあります。思索は、行動の芽を育てるものです。

    ただ、考えすぎると、思考が自分を追い詰めてしまう。
    仕事が落ち着いて時間ができると、つい考えすぎてしまって、出口のない迷路に入り込むような感覚になることがあります。
    だからこそ、手を動かし、目の前の仕事に集中している時間は、案外、心を守ってくれているのかもしれません。

    中途半端に考えること。
    それは怠けではなく、むしろ健全なバランス感覚なのだと思います。

  • ランニング 10km

    ランニング 10km

    今日も10km走りました。
    朝起きて体重を測定したところ、大して減っていなかったのでちょっと焦ってます。
    焦ったところで、仮に毎日10km走ったところで、大して体重に影響はないのに、こうやって脚が十分に回復しないまま走り続け、やがて脚を痛めるのではないかと思ったりします。

    そんな感じでぼやいていてもしょうがないのです。
    私は今転職活動中で、仕事がない状態。日々、何もせず過ごすのがどうも許せなく、何か生産的なことをしなければ、とつい考えてしまいます。
    果たして、ランニングが生産的なのかというと、なんとも言えません。
    むしろ、カロリーを消費して、蓄えた脂肪を分解させているという行為は、非生産的な行為だと考えることもできるからです。
    せめてものお慰みで、こうしてブログを書くことは唯一、生産的なことと言っても良いかもしれません。

    ランニング中、沿道の植栽を手入れしている業者さんたちがたくさんいました。
    ちょうどお昼時ということもあり、トラックの陰で昼寝していました。
    肉体を酷使してそれを対価に換える人たちは昼休みの60分のうち、5分で昼食を摂り、残りの55分は昼寝をして過ごすと聞いたことがあります。
    今日は風こそ強いものの、太陽の陽射しは強く、たまに雲に隠れることはありますが、それでも照りつける太陽の光、熱を受け続けて仕事をするのは大変な作業でしょう。
    彼らがいるから、沿道の躑躅は綺麗に咲き誇り、ちょうど学校を終えた、黄色いランドセルカバーをつけた小学校1年生のちびっこたちの未来を、沿道の躑躅が、明るく華やかに彩っているように感じました。
    将来、どんな仕事に就くのか、まだ彼らは知らないでしょう。私も小学校1年生の頃、まさかIT系の仕事に就くなんて考えもしませんでした。
    人生って不思議です。
    みんな、将来のことを夢に描きながら、それを実現できるかどうか分からず、とりあえず自分の思った方向に走り続けています。
    途中、小石に躓きながらも、すぐに立ち上がり、膝についた砂を払い、また、自分の思った方向へと歩みを進めていきます。
    その道が、正解なら、歩いたことの成果を喜ばしいものとして捉えるのでしょうけど、それが果たして正しいのか、それはその時になってみないとわかりません。
    また、正解というのは人それぞれで、マイルストーンにたどり着いた時、それが仮に過去、自分の思っていた正解と違ったとしても、得られた結果を正解とすることだってできるのです。
    そんな未来を、みんな、思い描きながら生きているんですね。
    私の未来は、私の正解はいったい、どんなものなんだろう。

  • # 思考を耕すノートの作り方 倉下忠憲

    # 思考を耕すノートの作り方 倉下忠憲

    ## 人の行動をサポートする役割

    メモやノートは、人が頭を使う時にサポートする役割を果たす。頭の使い方や、考え方をサポートするのだと言います。

    では一体、人間は、頭をどんな時に使っているのでしょうか。

    素人なりに考えてみると、意識的に頭を使う時と、無意識的に使う時があるように思います。

    意識的にというのは、今、私が文章を考えながらキーボードを叩いています。私が意図する文字を入力するために、指を動かしています。私はブラインドタッチが出来ますので、どの場所にどのキーがあるかというのは分かっているので、どの指を動かそう、というところまでは考えていません。おそらくここが、無意識に頭を使う、という点なのかなと思います。

    ## ノートを使うと、なにが良いのか

    冒頭でも述べましたが、

    • – 情報を収集する
    • – 情報を整理する
    • – アウトプットする(行動とか文章を書くとか

    この、「情報を収集する時」と、「情報を整理する時」に活用することができます。

    たまに、頭の中の構造が普通じゃない人は、ノートを使わずに情報収集、整理ができちゃったりしますが、私はそんなことできないので、いちいち書いて考えています。

    この本には、どんな時にノートを使えるの?という問いに対していくつかのパターンを載せてくれているので、ノートを自分の相棒にしていきたい!という人はこの本を読んでみることをオススメします。

    例えば、

    • – 日記
    • – 勉強・仕事ノート
    • – 会議・打ち合わせノート
    • – プロジェクトノート
    • – 発送・アイデアノート
    • – 着想ノート

    こんな感じです。10人いれば10通りの使い方があると思いますので、試行錯誤しながら自分に合ったノートの使い方を考えていくのが良いかなと思います。それ自体、楽しい作業で、あぁでもないこうでもないと自分と対話しながら作っていくのって楽しいですよね。

    ## デジタルとアナログの違い

    私は一時iPad miniとApple pencilでiPadのノートアプリに手書きで入力していたことがありました。しばらくは調子良い感じで書けてたんですが、結局は紙のノートに戻ってしまいました。この本で著者が述べているところで、納得したのが、以下の点です。

    > デジタルでは情報が多くなりすぎてしまうきらいがあります。多くなっても検索して見つけ出せるのだから問題ないとはいえますが、情報を保存するときに取捨選択を行わずポイポイ放り込んでしまうことが起こりやすいという点は気をつけておいたほうが良いでしょう。結果、できあがったそのノートは自分にとっての道具箱ではなくゴミ箱になってしまう可能性があります。(91ページ)

    確かにその通りだな、と思う一方で、紙のノートにしても同様で、ある程度取捨選択をしなければ、結局はゴミ箱のノートを作ることに変わりはないので、何でもかんでも書くのは気をつけようかなと思います。

    ## 私のノート

    このブログでも何度か書いていますが、私が使っているのはダイソーの100円ノートと、万年筆という組み合わせです。

    ダイソーだから安かろう悪かろうではなく、紙が厚く、万年筆の裏写りが全くしないのです!ここにたどり着くまでにいくつのノートを渡り歩いてきたか。。

    今年はほぼ日手帳を使わずに生活していますが、やっぱり、トモエリバーってすごかったんだなぁって思います。あの薄さなのに、モンブランのMで書いても裏写りしないってほんとすごい。日本の優れた技術って感じです。

    さて、私は何を書いているのか。

    だいたいが日記、読書ノート、小説用の着想といったところでしょうか。

    あまりフォーマットを設けておらず、強いて言えばノートの冒頭に数字6桁の日付を書くくらいでしょうか。

    私は上でも述べたようにアウトプットする(行動とか文章を書くとか)ために使うことが多く、何かしらきちんとしたロジックで自分を納得させて、行動に移すという性格なので、その点で、ノートを使う点は役立っているのかなと思います。


    思考を耕すノートのつくり方 自分の知的道具を手に入れる [ 倉下忠憲 ]


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