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  • 三日坊主でも良い、大切なのは

    三日坊主でも良い、大切なのは

    ゆったりした一日

    7時くらいに起床。祝日で仕事は休みだったけれど、起きる時間は変わらず。
    昨日9km走ったせいか、ふくらはぎが筋肉痛。もしくは3日前に乗ったロードバイク40kmと、レイソルのゴール裏応援でジャンプしまくりだったやつがまだ響いているのかもしれない。
    47歳にもなると、回復が遅れるのは当然なことだ。自然の摂理とも言うべきか、いかに栄養に気をつけた食事を摂ったとしても、回復は摂取栄養の内容に関わらず、年齢に相応な回復スピードを辿る。

    人間の体ってわかりやすい。最近お酒の量を減らすようにしていて、飲む日は焼酎100mlか、ウイスキー50mlのみ。最初にそれをコップに入れて、大量の氷、それにソーダストリームで作った炭酸を割りながら、500mlの炭酸を飲み切るまで飲む。最初は酒が強いけれど、だんだん弱くなってくる。その流れが、寝る頃には酔いが覚めていて、睡眠には悪影響を及ぼさないような気がする。
    それにしても最近のソーダストリーム、炭酸の入りが弱くなった気がする。先月くらいに炭酸のボンベは替えたんだけどなぁ。500mlボトルに4秒くらいできちんとした炭酸が入っていたように思うのだけれど、最近は7秒くらい炭酸を入れても強い炭酸にならない。水温?と思って前日夜から冷蔵庫に入れてきちんと冷やしているのだから、何をすれば良いのか分からなくなっている。経年劣化とも言えないだろうしなぁまだ3年目くらいだし。暇な時にでも調べてみるか。最強の炭酸水を作りたいんだよなぁ。

    今日はそんな感じで、体を休める日と決めた。お昼にボロネーゼ。食材が少し足りなかったので近所のスーパーまで買い物。100円ショップが併設されているスーパーで、100円ショップで綾テープを買った。かねてより作りたかったトートバッグの、内側の、端処理に使いたいなと思っていて。トートバッグに限らずこういう端処理のあたりに、丁寧さが宿ると思っている。
    ボロネーゼはリュウジさんの、ワンパンのやつ。これが美味しくて多分10回くらいは作っている。レシピも、最初はYouTubeを見ながら作っていたけれど、今ではもうそれを見なくとも作れるようになっている。そして大体美味しいのだからすごい。(私じゃなく、再現性の高いレシピを作り表現したリュウジさんがね)
    それを食べたせいか、なんだか眠い。14時頃。関係ないけどaikoの二時頃って歌、昔好きだったな。少し昼寝。1.5時間くらい寝てスッキリ。つまり体が休息を求めていたのだなと考えることにする。だから今日は運動はせず。完全な休養日。こういう日があっても良いと思う一方で、「ここで運動習慣が断たれてしまったらどうしよう」という、言いようのない不安が頭をよぎる。明らかな妄想だということは体で理解している。ちょっと前に流行った「反応しない練習」にも、将来の不安は三大煩悩の一つ、妄想に考えられると書いてあった。つまり、そんな不安に反応すること自体がナンセンスで、その妄想に囚われないということが大切なんだと。

    大切なのはそれを、三日坊主だと捉えないということ

    言われてみると簡単なことで、「あー自分の悪い癖、また三日坊主で終わってしまった」と考えるのではないということ。三日坊主で終わること自体は、人間の飽きるという特性に倣ったものだからしょうがない。大切なのは、その、変な妄想を忘れ、「もう一度始めてみよっかな」と考えるのが大切なんだろうな。
    もしかしたら最近のブログにも書いたことかもしれないけれど、私は二週間くらい前から、週3回の運動、というノルマを掲げた。それに該当するのはランニングかロードバイク。必要なグッズや自転車などは揃っているから、今イマでの初期投資はゼロ。(以前は買ったけれどそれはもう数年前で、減価償却できているから割愛する)
    ハードルをいかに低く設定するか、というのは、これまた本の受け売りなんだけど、続ける技術みたいな名前の本を読んで知った。あの本読みやすかったな。今のところ私は週3の運動、それに認められるのはランニングとロードバイクと定義した。これを、続ける技術に従って考えると、ハードルを下げることが必要、ということで、どうしても続けられないようであれば、いったんこの選択肢に「通勤」を加えれば良いのだと思う。続けることにハードルを感じるのではなく、自分が習慣を続けているという感覚を持つことが大切。何よりも大切。始めてから2週間経ち、週3は達成できているどころか、週5くらいの感じで走れている。私はこういうの、熱しやすいタイプだから、常に、「週3習慣で十分」と考えている。距離も、設定していない。設定するとそれがチャレンジングだと考えてしまうから。それよりも必要なのは、習慣づけるということ。

    さて、47歳の私が今、なぜ急にそれに取り組んだのか。いわゆる根本となる背景を未来の自分のために記しておくと、健康な体を維持していきたいから。それだけ。速く走るとか、痩せるとか、そういうことは念頭には置いていない。結果としてそれらが齎されるようなら嬉しいのだけど、それはご褒美的な感覚で考えている。だって一番大切なのは、健康でいられることだから。

  • 8月10日 嫌った世界がこんなに綺麗だったとは

    8月10日 嫌った世界がこんなに綺麗だったとは

    若い人の可能性を狭めることなく、大きな翼を使って羽ばたいて欲しいと願う

    7時に起床。今日は長男がお茶の水まで夏期講習に行くので、まだ行き慣れていない長男に合わせて一緒にお茶の水まで。電車は空いていた。8月10日、明日は祝日、それと絡めてお盆休みに入っている人が多いのかなー、と思った。
    お茶の水。予備校とか大学が多いし、若者が多いなぁという印象。長男を塾の入り口から見送る。背中はまだ小さいかもしれないけれど、その背中を優しく支え、押すことのできるような父親になっているかと自問する。彼には彼の人生がある。彼の、これからの人生が、順風満帆に進んでいったらいいと願う。時には大きな障害とか、乗り越えなきゃいけない課題が出てくると思う。その前に、彼の思い描く第一志望の大学に無事に合格しなければいけないというチャレンジングな状況を、彼は彼なりの力で乗り越えなければならない。
    たくさん勉強したからといって、合格が確約されるわけではない。もしかすると、残念ながら彼の第一志望に合格できないかもしれない。だけど人生は続いていく。合格しないと、それは失敗と思うかもしれない。そこで、失敗を失敗と捉えるのではなく、人生を快活に進めるための一つの材料として捉えてもらえたらいいと思う。
    そこからお昼くらいまでオフィスで働いて、帰宅。18時からランニング。5kmの予定だったけれど思いの外涼しくて、風が心地よく(すでに秋の気配を感じた)、気持ちよかったので9kmまで足を延ばした。最後にダッシュ。その時は何も考えていなかった。音楽をイヤフォンで聴いていたけれど、音が耳で止まり、脳まで届かない感覚。無酸素運動になっちゃうと辛くなるので、残り200mを呼吸の頻度を高め、無事に走り切った。
    ホントは10kmでも良かったんだよな。だけど膝がぼんやりと痛くなりそうな気配だったので9kmでストップ。後悔はしていない。むしろそこでやめて良かったと思う。
    人生は続く。膝を痛めてしばらく走れないことよりも、ギリでやめて、次に臨むことをメインに考えていく。

    若い子だからって何も考えていないワケではいない

    恩田陸の「夜のピクニック」読了。恩田陸は蜜蜂と遠雷以来の2作目。青春小説の金字塔。三浦しをんの風が強く吹いていると同じ印象。若者が体を使うという点で同じ匂いを感じたのかな。
    高校生が、24時間かけて長い距離を歩くという話。異母兄弟の主人公たち。題材としてはそれだけ。今私が書いた30文字くらいのテーマを、恩田陸という変態(褒めてます)が描くとこうなるんだ、という印象。会話多め。
    途中、私の青春時代のことを思い出す。郷愁と呼ばれるやつ。感傷に浸ったりもしたけれど、大円団のエンディングを迎えて、安堵した。
    私は、理想の青春時代を過ごしたのだろうかと考えた。何度も考えた。高校は偏差値57くらいの、私の中では普通と呼ばれるランクの、茨城の県立高校。高2の時点から恋人ができ、その人と高3の最後まで付き合った。いわゆる恋人という感覚ではなく、むしろ友達に近かった。今考えると、いわゆる高校生の性欲に急かされて付き合っていたのではなく、友達の延長線上という感覚で付き合っていたのだなと改めて思い出す。彼女は優しい人で、面白く、色々なことを話したよな、と思う。ほとんど忘れたけれど。だけど彼女と過ごした時に感じた空気とか、冬の寒さとか、そういうところは心に残っている。その引き出しを数十年ぶりに見つけ、開けられたことは、小説を読んでよかったなと思う。
    中学の友達とバンド組んで、ユニコーンとかハイスタとかのコピーバンドをやっていた。バイトはマクドナルドでやっていた。そんな高校時代だから、勉強にはあまり力を入れず、だから大学は地方Fランだった。もっと勉強しておけば良かったかな、と今、勉強を超頑張っている長男を見ると思うけれど、当時にもし戻れるとしても結局は同じ人生を歩んだんだろうなと思う。
    あの頃は楽しかったんだろうか、とか、どんなことを考えて生きていたんだろうか、もしかすると大したこと考えずに暮らしていたのかなとかも思ったけれど、あの頃はあの頃なりに、当時の自分としてたくさん悩んで、学んで、時間を過ごしてきたんだろうなと思う。
    小説を読んでいて、高校生でも悩むところはたくさんあるよな、常に人間って何か考えて生きているんだろうなと思う。それは17歳でも、47歳でも一緒のこと。てかあの頃からもう30年も経っているのか!あっという間だった。あっという間にここまで来て、大好きな家族に囲まれて、好きなことやって生きているよなと思う。後悔しててもしょうがないから、前を向いて、やれることにフォーカスして生きていく。

    嫌っていた世界がこんなに綺麗だったとは

    Laura Day Romanceの、brighter brighterという曲が好きで、先日のブログに自分なりの考察を書いてみた。その続きを考えてみたい。

    誰もが祈るように言えないことを 胸に秘めるけど 時折零れていく危ういことと分かっていながら 閑話休題 ねぇ これから これからの話だけしよう 最期の日まで奪われない そんなものが欲しい

    正しさの暴力で傷ついた心に 優しさが余るほど世界は甘くない 力なく呟く 言葉は 誰かが聞かなきゃ 窓打つ雨音と変わらない 音と変わらない 遠くを見つめている

    心の岸辺で あなたの名前を頻りに呼ぶたび 跳ね返る私と私の姿を 対岸の前の水面に見つける brighter brighter 嫌った世界がこんなに綺麗な場所だとは brighter brighter 嫌った世界がこんなに綺麗ば場所だとは brighter brighter 嫌った世界が こんなに綺麗な場所だとは brighter brighter

    人間って、自分の想像する世界の中で生きている。自分の想像する世界の外に出てみようと、半ば思い立って一人旅をする人もいる。自分探しの旅ってやつ。それは新たな価値観や光景を目にしたときに、自分がどう反応するかを試す場所なんだと思う。
    それは、場合によっては自分の想像をはるかに超えるような世界を目にするかもしれない。時には生死の価値観を揺るがせるような事態を目にすることだってあるだろう。そんな光景を目にして、沈んでしまう自分。そんな、期待していなかった自分の反応が、心地良くなかったとしても、それも自分だから、とある意味納得して、人生を進めていく必要があるんだと思う。
    この歌詞に共感できるところは、そういう、自分の想像する、期待する世界ばかりではないこと。それをきちんと受け止めること。そうやって人生は進んでいくんだから。自分の思い通りにいくばかりが人生ではないから。冒頭に書いた長男の背中を見ても、これから彼なりに大きな課題を抱えていくことだってあるだろう。だけどその場所に飛び込んでみると、想像とは全然違うような、もしかするといい意味で刺激を受けることがあるかもしれない。Laura Day Romanceの人たちは若い。私からするとあんま調べてないけれど多分20歳くらいの差があるんだろうなと思う。今考えてみると私の20年前、その頃は楽しかったんだろうなと郷愁に耽ることだってできるけれど、大半の記憶は薄れていて、良い記憶しか残っていない。だけど当時の自分だっていろんなことに悩んでいただろうし、嫌なことだって少なくなかっただろう。けれど今の自分は、その頃の経験や思考を土台にしてい生きている。今、私が納得した人生を送れているのは、その頃の紆余曲折は必要不可欠だったし、Laura Day Romanceの言うように、嫌っていた世界が実は綺麗だったということだってあったのだと思う。

    人生は続いていく。いろんな経験を糧にして、自分を成長させていくのは自然の摂理だ。これからもきっと私はたくさん悩んで、時には「もうこんな世界イヤだ」と思うことだってあるだろう。だけどそれも人生。いい部分だけではなくそういう部分もひっくるめての自分なんだから、色々な感情や思考を抱きしめて、生きていきたい。

  • 8月6日 あの頃の自分に戻りたいのではなく

    8月6日 あの頃の自分に戻りたいのではなく

    カロリーを控えめにしたから痩せるということではない

    7時くらいに起床。今日は眠気が残った。睡眠ログを見てみると、5時間を切ってる睡眠時間。
    確かにそうだった。昨夜、あまりうまく寝付けず、入眠が遅かった。これは心療内科の薬を飲んでいないということに依るのかもしれない。トレードオフとでも言うべきか。
    ということで在宅勤務に切り替え、二度寝。1.5時間くらい寝たことで、眠気はさっぱりと消えた。

    在宅勤務だと、誘惑が多いということは以前書いた。刺繍とか、iPadとか、手元にそういうものがあるので仕事に集中できない。
    人間っていうのは贅沢な生き物だ。これも最近書いたと思うけれど、私は通勤がとてもストレスだから、作家になって自宅で仕事ができるようにしたいと願っていた。それが叶った今、新たな悩みが生まれたということだ。

    悩みは、自分が成長できるきっかけでもある。悩みで終わらせるのではなく、それを解消するためにどう考え、どう行動していけば良いのかということに繋げれば、その悩みをきっかけとして、前に進むことができる。それはすごいことだ。そんなふうに人間は、死ぬまで成長できる。

    いい感じに仕事をし、お昼に素麺を茹で、19時に仕事終了。まだまだたくさん仕事はあるけれど、けれど今日を終いにするというケジメは、毎日必要な儀式の一つ。

    そこからランニング。今日も5km。期待していないけれど、全く痩せない。
    なんで痩せないの?とAIに聞いたら、彼は、人間はストレスとか睡眠不足、十分なカロリーを摂らないと、サバイバルモードに変わるとのこと。体に溜め込んだ脂肪をなるべく残し、飢餓状態になった時に初めてそれを使う。だから、いい感じにカロリーを摂取して、生きていけば、自然と痩せていくのだと。だからあすけんでは、カロリーが低めだった日に、あまり良い評価が取れないのだなと実感。あのお姉さん、結構厳しめだろと思ったけれど、人間の体を研究していた人のレポートをベースにしているはずだから、あすけんが間違っているということはないのだろう。

    さて、ランニングの話。今日は暑かった。最近は少し涼しい日々が続いていたので、走りやすかったんだけど、今日は暑かった。だからペースは遅め。途中何度か、なんでこんな苦しいと思えるようなことを、ほぼ毎日繰り返しているのだろう、と自分の欲望を訝しんだりした。

    あの頃に戻りたい、じゃなく、今の自分を認めつつ、成長したいという気持ちを持つこと

    あの頃の自分に戻りたい、と願うことは勝手だ。自分の中で、当時を思い返し、充実していたなぁ、と思いを抱く。体は軽いし、走れるし、その頃がよかった、と考える。
    だけどそれは、裏を返すと、今の自分に満足していない、今の自分を否定するということにつながる。
    これはとても悲しいことだ。なぜなら、今の自分が嫌いということになるから。
    それは、快楽と充実という考え方があるそうだ。何それ、と思った。

    快楽と充実について

    ランニングって、なんでこんな辛いのに走るの、この、クッソ暑い真夏。気温30度。なんでなんの得もないのに走るの、と考えた。それをAIにぶちまけたところ、人間には、快楽と充実という考え方があるのだとそう。哲学なのかな?心理学?

    ざっくりいうと、性欲食欲物欲みたいなものは快楽。手に入れた瞬間はとても気持ちが良いけれど、ポイントは、 快楽を追い求めると、満足が逃げるという点。手に入れた瞬間は、めっちゃ嬉しい。だけどそれは際限がない。次を、次を、と考えてしまう。

    一方、充実というのは、例えばランニング。走っている最中とかもめっちゃしんどい。今すぐに歩きたいと考える。しかし、走り終えた後の満足感は、それは体が無意識にもたらしてくれる。苦しいことをやり終えたというハードルもあるのだろう。今日も走れてよかった、と考える。それは体が、快楽だけでは満足しない、ということにつながるそうだ。これが、充実なのだと。

    充実を得る方が、満足度は高い。

    いやけどこの話って難しいよね。今でこそ私、47歳になってそういういわゆる欲みたいなものがなくなってきたから、充実度を向上させるためのマインドセットを醸成することができてきている。だけど若い頃は快楽に溺れたいと考える。人間だもの。それを否定するつもりはない。

    いや、何歳になったって欲に溺れる人はいるだろう。それこそ価値観の問題だから否定するつもりはない。高い酒を飲んで、たくさんの女を抱いて、みたいな典型的な「快楽」を求める人は多い。それはそれで頑張って生きてくれれば良いと思う。

    私は、充実を求める人だ、ということ。

    そして充実を求める人という点で、もう一個メリットがあって、あの頃の自分に戻りたい、ではなく、今の自分を愛し、それを土台にして成長していこうという気持ちを培うことができるということ。
    それはデカい。上述したけれど、今の自分を否定しながら生きていったとしたら、悲しい人生を送ることになる。今の自分を自分で認めていないということは、とても悲しい。今を愛するという点は、自分の成長に大きな武器となるんだな。

  • 7月31日 幸福と豊かさ

    7月31日 幸福と豊かさ

    今日は自宅で仕事

    7時すぎに起床。昨日書いたけど今日はアレルギー対策の薬をもらうために通院しようかなと思い立ち、だから家で仕事した。8時くらいから仕事開始。
    今週は月曜から木曜まで出社してたから、家での仕事に若干戸惑う。家には誘惑が多い。音楽をかけ(これは会社でも普通にイヤフォンで聴いてる)、やりかけの刺繍に目を移し(さすがに仕事中はやらないけど)、そんなこんなでふわふわしてたから仕事のスイッチが入るのに結構な時間がかかった。
    昨日まで結構本気で仕事してきたから、頭が疲れてると言うのもあるかもしれない。今週は結構頭使ったもんなぁ、と考えたり。リラックスして仕事をすることも必要だよな。

    午前中は割とでかいミーティングの画面投影係だったので、それはそれで緊張した。私は一言も喋らないけれど、please go to the next pageの、please gのあたりで次ページへ移動させる、みたいなところで、英語を一字一句聞き逃してはならない、みたいな気疲れもあり。

    昼食べて、午後イチ、病院へ。診察は2分で終わり。いつも通りレボセチリジンを処方してもらって終わり。
    今週から体を動かそう!ブームになったこともあり、病院へはロードバイクで。暑かったけど気持ちよかったなぁー。そっからたくさん走り、45分のロードバイク。近所をぐるぐるした感じ。
    超汗をかいた状態で仕事に戻る。エアコンをガンガンにかけてたら体が汗で冷えてしまって、着替えたりとか。
    そっからも夕方に割と割り込み的な仕事が入ったりして、20時過ぎまで頑張った。今日は頑張ったよ。

    他人から認められたいとか、それが幸せにつながるのかとか

    夕食摂りながら奥さんと、アンハサウェイが叩かれた話を。どの世界にも妬む人っているよねぇ、と。キラキラした人は叩かれるよな。私もそっち側にいるのかもしれないと思ったり。いわゆる氷河期世代ど真ん中だけど、働きがいのある定職には就けているし、子供含め大好きな家族に囲まれているし、だから、ある方面から見たら「幸せそうで何よりだな」とも思われたりする可能性あるよな、と。ここで、ブログとしてこう言うことを書いている時点でこれがきっかけになることはあり得るよな、と。

    認められるってなんだろう。
    他人との関わりたいという思いと、一体どう付き合っていったらいいんだろう。やりすぎは良くないと思っている。30代の頃はSNSをガンガンやっていて、私は他人からの承認欲求に割とこだわっていたような気がする。
    それは悪いことだとは思わない。人って一人で暮らしていくことはできないし、孤独を愛せよ、っていう考えは私は全面的に賛同はするんだけれど、時折、なんとなく、物足りないなー、って思うことがあると思う。
    別に、SNSでバズりたい!を言いたいわけではない。それ至上主義で生きている人を否定するつもりは毛頭ない。それがその人の価値観なんだから。それを否定する権利はない。
    一方、自分からの承認だけで生きていけばいいじゃんという考え方。それは孤独を愛するということと同義かもしれない。それもそれで、否定する権利はないと思っている。価値観だし。くどいね。
    大切なのはきっと、自分の価値観をしっかり持って、その両極端な考え方ではなくて、自分が幸せだー、と感じられるものをしっかり捉えていくことが必要なんだと思う。
    バズったらバズったで、アンハサウェイのように妬みの対象になるかもしれないし、誰からも評価されないっていうのも、考え方によっては寂しいことなのかもしれない。
    ってことをAIに話してみたら、評価されたい対象が1人なのか、数人なのか、大多数なのかって話なのかな、って言われた。確かにね。

    自分の価値観をきっちり持つことが大切、って上述したけれど、そんなものはふわふわ変わるし(ずっと一定の人もいると思う)、だから、その時々で自分がどうなったら幸せか、っていうことを自問し続けて、それに至るために必要なアクションをとっていく事が大切なのかなぁ。

    かく言う私も、日々、こんな感じでのらりくらりと自分の考えをブログとして載せているけれど、考えによっては日記に書けばいいじゃん、とも思うよね。多分私は社会との接点として、私がドメインを持ってるこのブログに、その接点を託しているのだと思う。
    ユニークユーザーなんて月に数人だし、こんな辺鄙な場所に載せているブログなんて興味ある人なんてほぼいないだろうけれど、私にとってはこのくらいが、ちょうど良いのかもなぁ。コメント欄も閉じてるし。

  • 7月28日 故郷を想う

    7月28日 故郷を想う

    茨城で仕事

    私のオフィスは東京だけではなく、茨城のつくば市と、北海道の札幌市でも働くことができる。
    それを恩恵と呼ばず、なんと呼べばいいのか。
    私は子供の頃から、筑波山を見ながら育ってきた。
    実家は筑波山から、そこまで近いわけではないけれど、けれど裏山に行けばいつでも筑波山を見ることができた。
    故郷を想いながら、仕事に励む。
    こんなことが実現できるとは、この会社に入るまで考えたことはなかった。
    いや、嘘だ。
    私はいわゆる田舎の長男坊で、だから大学こそ静岡にある大学で過ごしたけれど、いつかは実家に入らないといけないと感じながら過ごしていた。
    とは言え、気持ちと体は別というか、大学を卒業し静岡に本社がある印刷会社に新卒で内定が取れ、そして東京支店への勤務が決まった。
    そうやって、徐々に実家に近づいていくプランを、当時の私はぼんやりと感じ取っていた。
    意識的に考えていたわけではない。のらりくらりというほどではないが、風に身を任せ、いつから茨城という地に軸足を置いて生きていくんだろうな、とぼんやり考えていた。
    時は経ち、私はそこから25年くらいを生きてきたという計算になるが、いまだに軸足は東京に置いて過ごしている。
    物事は意識的に計画していかないと、人生というものは固まらない。
    先日、バレットジャーナルに集中して取り組もうとして、それ系の本を何冊か借り、読み、そしてバレットジャーナルに対応できそうなA5のノートを買った。Editの320ページのやつ。借りた本を読んでいると、1、2、3、5、10みたいな、自分の中でのマイルストーンを決めて、その数字ごとの未来を描いていこう、みたいなことが書いてあり、私はハッとした。
    風に身を任せて生きていく、というのと、物事は計画的にいくべきだ、という両極端な意見を上述した。
    とはいえ私は前者の方が自分の考えに合っていると感じることが多いから、1年後の自分を想像することができず、ましてや10年後なんて、試しに1ページをそのプランにあてがってみても、10分考えてみても何も浮かんでこなかった。
    何も、浮かんでこなかったのである。
    だって10年後って想像できる?私が今、在籍している会社で働いているかどうかすらもわからないのだから。そんな私が、たとえば3年後ですら、何をしているか分からないのだ。そりゃそうだ。だって生まれてこのかた、自分の将来を真面目に考えてきたことがなかったんだから。

    自分の将来についてじっくり考えてみる機会は必要なのだろうか

    不要なのかもしれないよね、と考える。
    これこそ自分の持つ価値観の話で、自分の生き様を計画していくことで、それに基づいて日々の暮らしを計画していく。物事を計画的に考えて生きていくべき!と考えている人はきっと、こっち側なんだろう。
    ふと、MBTIのことを考える。私は3番目のやつがTなのか、Fなのか良く分からない。Tは計画的、Fはその場の感覚で生きる、みたいに私は捉えている。
    私はFの方に大きく針が振れているんだろう。それを悪いとか良いとかっていう判断材料にはしていないけれど、多分これが、私の計画性の弱さという一面を物語っているように感じる。
    だって自分の将来って。私は今、結婚していて、2人の子供がいるけれど、私の計画通りに家族が生きていくとは限らんもんね。私は自分なりに健康に気を遣ったり、仕事も真面目に取り組んだりしているけれど、妻や、子供たちが私の計画した通りに生きるとは限らないじゃないか。だとすると、私が今ここで、47歳の人間として考えることすら意味がないじゃないか、と考える。
    いや、違うのかもな。何を計画するのか、という考え方にもよるのだけれど、たとえば、家族がどんな生き方をしていたとしても、私は私、私なりに考えた生き方を貫いていきます、ということになるのかもしれんよね。
    たとえば、妻が癌に罹患したとしよう。してほしくないけど。だけど妻が入院したりして、今の生活を継続できなかったとしても、私は仕事をやめないし、できる限り全力で家族を支えていくのだろう。それを計画と呼ぶのかどうか、それこそ個人の価値観による。
    そこには「臨機応変」という言葉がとても良く当てはまる。臨機応変ってすごい。TでもFでも、どっちも当てはまるのだから。
    だから、もしかすると、MBTIとは違う階層に、「自分の価値観」というものが被さっているんだろうな。
    私はF型だから綿密な計画はできないけれど、「それでも生きていく」みたいなマインドで、その場その場で適切な選択肢をたどりながら、なんとか自分の生きたいように生きていくんだから。

  • 7月22日 いずれにしても自分が納得できる人生を

    7月22日 いずれにしても自分が納得できる人生を

    今日の出来事

    8時台に起床。もともと通勤するつもりはなかったので在宅にて仕事。
    子供たちが夏休みに入っていて、だから家の中にある体感時計がゆっくりとしている。
    朝の慌ただしい時間を乗り越えた妻と、そうではない今日みたいな時の彼女の雰囲気は違う。
    アドレナリンという言い方が正しいのか良く分からないが、朝、バタバタと子供たちの準備、長男の弁当などを準備すると、頭も身体もきちんと起き上がるんだろうな。
    私は妻に甘えていて、平日の朝の準備はすべて妻にお任せしているので、私自身のテンションは平日だろうが休日だろうが変わらない。妻は休日は結構寝ていて、多分寝るのが好きなんだと思うんだけど、だから休日の朝の準備は私がすすんで担当している。休日くらいゆっくり寝たいもんね。
    9時くらいから仕事開始。今日もゆったり。てかこの頃ゆったりな仕事量の日が多い。
    在宅なのをいいことにまったり、しつつも自分に課せられた仕事はきちんとこなす。社会人として当たり前のことだけど。
    いくつかミーティングをこなし、昼食。家でリュウジさんのボロネーゼを作って食べた。これまた我が家のルールみたいな感じなんだけど、平日、私が在宅勤務の時、妻が料理を作ってくれることよりも、私が作るほうが多い気がする。妻は専業主婦だけど、朝バタバタした時間を乗り越えたからゆっくりしてもらいたいというのと、昼、私の食べたいものを私の好きな時間に食べるという生活をしているから、私にまかせてくれてるんだと思う。専業主婦なんだから昼食くらい作ってよ、みたいなことは考えていない。滅相もない。私は私だ。私の食べたいものくらい、私の手で作るよ。
    これってバイクとか車のオイル交換を自分でやるか、店に頼むかの違いに近いかもしれない。自分でやる人の大半は、心配で任せられないと考えている人だそうだ。少なくとも素人よりは数多くオイル交換をこなしているだろうから、私は店に頼むで良いと思ってる。自分でやると廃油の処理とか分かんないしね。バイクは自分でやるけど。楽しいから。
    さて午後。いくつかミーティングをこなし、終業。今日は柏で長男の通うかもしれない塾の説明会を受けてきた。高校3年で7月22日まで塾に入っていないって現実から目を背けてきたけど、ここらへんできちんとした塾に通うんだろうなという空気感で我が家は包まれている。
    終わってから長男が次男に、今ここで頑張らないといけないから、遊べないわごめん、って言ってて、まぁ確かにそうなんだけど、実際、いい大学に入れたからと言っていい人生を送れるかというのは、疑問。

    何を優先するかという話

    日本はそこそこの学歴社会だと思う。大企業に入りたいならきちんとした名前の通った大学に行けたほうが、入る確率は上がるんだと思う。任天堂なんかは東大京大ばかりだと聞くし。
    ポイントは生きていく上で何を重要とするかということ。
    このブログでも何度も書いてきたけど私はいわゆるFラン大学卒業で、いろいろあって47歳までやってこれた。マイナスな面で言えば、と思い立って手を止めて、しばし考えてみたけれど、マイナスな面なんてないような気がする。有名な会社に入れなかった、入らなかったという言い方のほうが正しいかな。そもそも大企業ってあんまイメージになかったから、Fランだったけどまぁいいのかな。マイナスな面、なんだろう。生涯の収入っていう点で考えたら最初から良い企業、高給取りな業種、職種に就いていたら、生涯の収入は多かったかもしれない。結局お金か。
    今は家族4人でなんとか暮らしていける感じだし、適当なタイミングで外食したりもしてるし、家族も今の生活を楽しんでいるようだから、別にいいのかな。
    家族との団らん、時間を大切にしたいと私は今優先度を上げて暮らしていて、だから、それって給料じゃないんだよな。価値観がそこじゃないってこと。
    お金を一番に挙げる人を否定はしない。お金があると、だいたいのことは解決するから。心にも余裕が生まれるし。余裕があるってすごく大切だよな。私も現段階ではお金の心配をしていないから、心に余裕が生まれ、結果的に家族を大事にする時間が取れている、ということになるのかもしれない。
    何を優先にしたら良いか分からない人。まず、なくなったらさみしい、悲しいと思うものを挙げてみてほしい。そこから、寂しさや悲しさの度合いを、相対的で良いから、順位付けをしてほしい。そうすると、自分が何を大切にしているか、見えてくると思う。

  • 7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    人を信じるのは危険だ

    それでも人間は、人を信じる。裏切られたことに懲りず、信じ続ける。

    私は今まで、幾度となく裏切られた。

    裏切るってどういうことなんだろう。主語がないから分からない。ぱっと思いつくのは、期待を裏切るということ。スポーツ選手がオリンピックとかで期待していたはずの色のメダルを手にすることができなかった時。サッカーの大きな大会で、優勝を飾ることができるに敗退してしまった時。

    国民の期待を一身に背負って勝負に臨み、そしてその期待に応えられなかった時に、裏切るという言葉を良く使う気がする。

    脱線したので話を戻す。

    人を信じるということは、期待するということになるのだろうか。

    人を信じすぎるのも良くないよな、とふと気づき、このブログを書こうと思い立ったのだが、最近は他人に期待しない、ということに執着している気がする。

    どうせ期待した結果にならないのであれば、最初から信じることなどせずに、自分の力で物事を切り開いてったら良いのではないか。

    信じないほうが合理的なのでは

    その方が結果的には良いかもしれない。

    例えば仕事。他の人に任せる(=信じる)ことを決めたために、それに縛られてしまい、そして他の人の成果が思わしくなかった場合、「最初っから自分でやっとけばよかった!」と後悔することだってあるだろう。

    他人に仕事を依頼するっていうのは、その結果に対しては自分も責任を持つということだ(異論はありそうな気がするが)。

    人の失敗に責任を持つくらいなら最初から、自分でやった方が気持ちが良いかもしれない。

    信じるって言うのはそもそも私の姿勢なのでは

    分かってる、私の思考が変な方向に進んでいっているのは分かってる。

    この先には、私は誰も信じない、という極端な考えに至るに決まっている。

    そんなことはない。現実世界では私は多くの人を信じているし、それを信じている自分を疑ってはいない。

    お人好しなのかもしれないけれど、私はどちらかと言うと素直な方で、性善説で生きていて、だからベースとして人を信じている。
    信じるっていうのは、私がその人を信じるということを信じるということなのか。
    冒頭にも書いたけれど私の姿勢として、人を信じ、そしてその責任を負う覚悟ができているということな気がする。
    周りくどく書いてしまったけれど、こういうことを私は子供の頃から、両親?からなのだろうか、誰かから教わってきたように思う。学校の先生や、友人からかもしれない。
    その責任を負う覚悟を、私が持つというスタンスはかなり怖くて、だって責任を取る必要があるから。となるときっと、私が信じると決めた人は、私の中での信頼性が高く、この人だったら任せても良い、結果はどうあれ私はその人を信じる、ということになるのだろう。

    信じるリスクと、信じないリスク

    信じるリスクについてはたくさん書いてきたので、ちょっと目線を変えて信じない方のリスクについて考えてみたい。
    信じないというのは、とても寂しい。悲しい。たまーに、「俺は誰のことも信じていない」などと平気で言い放つ人がいる。私はそれを聞いて、悲しいなぁ、と思う。
    信じて、その人に判断や物事の処理を進めることを任せるほどに、人を信じることができなかったと思うから。
    その気持ちを誰かから享受されてこなかったのか。
    また、そんな人を私は、孤高の人だなとも感じる。
    誰も信じていないからこそ、自分で物事を処理していかなければいけない。
    仕事という一面で考えると、仕事って一人でやるのは進みが悪いし、自分一人の観点しか入らないから、多様性という点で劣る。たくさんの人が関わると、そりゃまた進みは悪いけれど、だけどいろんな考え方を取り入れ、結果的には一人で考えたことよりもだいぶ広い気がする。
    どっちが良いということはない。その人が選んできた道で、その人が培ってきたやり方なのだから。

  • 記憶に残らない一日

    記憶に残らない一日

    仕事をしているとあっという間に1日が終わる。
    何も考えなくても、目の前の仕事をこなすだけで、あっという間に時間は過ぎる。
    文字を入力するキーボードや、マウスを触っているだけで1日が終わり。
    あっけない。あっけなさすぎる。
    時折、仕事が猛烈に忙しくなったりすると、仕事のために生活しているような気分に苛まれることがある。
    生活するために、給料を稼ぐ必要があって、だから私を含む一般的な社会人は、人質と同じ扱いで、働かなくてはいけない立場になってしまう。

    これって幸せなことなんだろうか。
    仕事があるだけ、仕事をこなせる頭脳と、体力があるだけ幸せなのかもしれないが、私が考えたいのはそこではない。
    時間と気力体力を奪われているという状態が、幸せなのかどうかという点。
    たぶん、結局のところ、自分が幸せと感じるなら良いだろう、という結論に至る気がするけど、ちょっと考えてみたい。
    時間と気力体力が奪われ、その対価としてお金をもらう。
    お金がないと、生活できない。たまに、お金無しで生活してます!みたいな、山奥に住んでいる家族を観ることがあるけど、そこまで振り切れるのすごいなと思う。
    お金は大事だよ。必要だよ。だから、自分の時間と気力体力を捧げるんだよ、だってそれくらい重要なんだから、と、泣きながら考える。

    では、お金が、必要十分な程度持っていたら、働かないという選択をするのだろうか。
    家族が健やかに過ごすだけのお金。余裕はないけれど、慎ましく暮らすことにフォーカスして、まったりと生きていく、といったような。
    たぶん、私は、仕事を探すと思う。
    お金が欲しい訳ではない。いや、お金も欲しいけど、仕事をこなすことで得る達成感や、誰か、同僚のために貢献して、その同僚を喜ばせたい。
    だいぶ飛躍した気がする。
    お金のために働くと考えていたのに、いつの間にか、「貢献したい」と目的が変わってしまった。
    お金のためだけに働くのって、なんとなく、虚しい気がする。(諸説あり)

    話を戻す。
    時間と気力体力を捧げてまで、誰かのために貢献したいということになるんだなここまでの文章を噛み締めてみると。
    これも諸説ありで、つまり価値観に依存するようなものだから、あくまで私の考えではあるけれど、私は、お金ももちろん大事だけど、誰かのために貢献して骨を折り、仕事をこなすことで「気持ち良く」なるんだと思う。
    生きているなら、仕事するなら、気持ち良く仕事をしたい。
    そのためには、自分の時間や気力体力を捧げることだってやぶさかではない。
    だってその方が気持ち良いんだもん。

    生きるって難しい。人それぞれの考え方があって、もちろん私の考えに反する人もいるに違いないし、その考えを否定するつもりは毛頭ないし、だから、いろんな考えを持った人がいる中で、仕事したり、生活したりするんだもんな。

  • 今日がいつもと同じ1日だったとしても

    今日がいつもと同じ1日だったとしても

    さっき風呂に入ってて、ぼんやりと、「今日も何もない、ただの平凡な日だったな」、と思った。それでもまぁ判を押したような生活よりは少しはみ出すような出来事はあったけれども、メガネを外してぼんやりと今日の出来事を俯瞰してみると、まぁ、判を押してるよな、と。

    今日を一日、平凡に過ごしただけの私、これは失敗なのだろうか。
    悲観的に物事を考えていた頃の私だったら、「今日は何も生み出さなかった」と考え、少しの間落ち込むかもしれない。八年くらい前はこんな感じに思考プロセスだったよなきっと。今思い出すと、結構な頻度で毎日のように凹んでいたように思う。
    だけど今は違う。
    今の私は、ちょっと待てよ、というスタンスを取ることができるようになった。成長を感じる。
    そんな私は、風呂を出て、カミソリ負けをして血が滲んでいた顎にクリームを塗りながら、思考の続きを試みた。

    そもそも、人生の大半って今日みたいな、判を押したような生活なんだよな。
    それをドラマチックな日ではなかったからと言って、卑下することはないだろう。
    毎日、キラキラしている人生なんて、ゾッとする。
    キラキラだとか、平凡だとか、そんなのどっちだって良いこと。そもそも、人生に成功か失敗かなんて、ないんだから。

    では、今日はいい1日だったな、って思うのはどういうことなんだろう。少し考えてみる。そこで思いついたのは、身体的、精神的な部分が、昨日と比べて、弱まったりしていないこと、だった。
    つまり今日始まりの時点と、今、寝る前の時点で、自分というもののサイズが小さくならず、いつもの形で今日を終えることなのではないだろうかね。
    それって実は難しくて、ちょっとしたこと凹んだり、つまづいたり転んだりして膝を怪我したり、今日起きた時と比べてマイナスになることが多い。それも、死ぬこと以外はかすり傷という言葉に従えば、決してマイナスということではないんだろうな。

  • 誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
    変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
    だって実際に木が倒れているんだから。
    今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。

    木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
    若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
    その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
    このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
    そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
    倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。

    軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
    だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。

    近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
    木が倒れたという事実。
    それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
    この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
    あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。

    ちょっと視点を変えてみる。

    ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
    間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。

    いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。