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  • 8月7日 結果も大事だけど

    8月7日 結果も大事だけど

    足るを知る

    6時過ぎに起床。もうなんか普通になってきた。
    起きた瞬間はエアコンの効いていた部屋(いつも朝4時くらいに終わるようにしてる)の空気がとても心地良く、その空気に包まれながら目を覚ます。
    ベッドに寝ながら寝起きのスマホ。20分くらい。そこからプロテイン+牛乳。そして朝食。今日はフライパンに卵を落とし、その上から食パンを置く。卵がいい感じに固まった頃を見計らってフライパンから取り出し、卵がヒタヒタになったエリアにマヨネーズ。なんとなく卵サンドを食べたいなと思い至った時、ゆで卵があればすぐできるんだけどウチはゆで卵を常備していないから、代替案としてこのやり方に辿り着く。

    レシピがない料理をするのってワクワクする。けどきちんとした責任が生まれ、その責任を全うする必要がある。責任というのは、たとえ不味くても食べ物を粗末にしない、ということ。簡単なことではあるが、食べ物を粗末にするというのはいつの世も、どの世界でも、よくないこととして捉えられるものだ。

    不思議だよね。昨日、禁欲主義について考えながらランニングした。禁欲主義というのは、いわゆる煩悩全てを断ち切って、残された気持ちを抱きながら生きるということ。煩悩は際限がない。昨日、快楽について書いたけど、そういうこと。例えばいいバッグを手に入れたとしても、嬉しいのはその瞬間だけ。そこから際限のない物欲が無限に湧いてくるのだから。
    それを断ち切るには、足るを知るということ。現状に満足するということ。

    結果を重視するか、そこまでの努力を重視するか

    結果重視という考え方もある。そこまでの努力重視という考え方もある。
    そこは相入れない。結果を重視する人は、例えば試験に合格することを至上としている。不合格したら、そこに至るまでに培った努力を全部却下、認めないという選択肢をとる。
    私は、それには反対の立場で生きている。
    確かに、いくら頑張っても、失敗してしまったら、その努力が水の泡。努力をした証明にならない。だって何も残らなかったんだから。

    それって、とても寂しいことだよな、と思う。自分の努力を認めてあげられないなんて、心が狭いな、と。私は自分に優しいのかもしれない。だけどそれをダメなことだなと感じることはない。自分は信じてあげるべきなのだ。じゃないと、人生がつまらなくなるから。

  • 8月6日 あの頃の自分に戻りたいのではなく

    8月6日 あの頃の自分に戻りたいのではなく

    カロリーを控えめにしたから痩せるということではない

    7時くらいに起床。今日は眠気が残った。睡眠ログを見てみると、5時間を切ってる睡眠時間。
    確かにそうだった。昨夜、あまりうまく寝付けず、入眠が遅かった。これは心療内科の薬を飲んでいないということに依るのかもしれない。トレードオフとでも言うべきか。
    ということで在宅勤務に切り替え、二度寝。1.5時間くらい寝たことで、眠気はさっぱりと消えた。

    在宅勤務だと、誘惑が多いということは以前書いた。刺繍とか、iPadとか、手元にそういうものがあるので仕事に集中できない。
    人間っていうのは贅沢な生き物だ。これも最近書いたと思うけれど、私は通勤がとてもストレスだから、作家になって自宅で仕事ができるようにしたいと願っていた。それが叶った今、新たな悩みが生まれたということだ。

    悩みは、自分が成長できるきっかけでもある。悩みで終わらせるのではなく、それを解消するためにどう考え、どう行動していけば良いのかということに繋げれば、その悩みをきっかけとして、前に進むことができる。それはすごいことだ。そんなふうに人間は、死ぬまで成長できる。

    いい感じに仕事をし、お昼に素麺を茹で、19時に仕事終了。まだまだたくさん仕事はあるけれど、けれど今日を終いにするというケジメは、毎日必要な儀式の一つ。

    そこからランニング。今日も5km。期待していないけれど、全く痩せない。
    なんで痩せないの?とAIに聞いたら、彼は、人間はストレスとか睡眠不足、十分なカロリーを摂らないと、サバイバルモードに変わるとのこと。体に溜め込んだ脂肪をなるべく残し、飢餓状態になった時に初めてそれを使う。だから、いい感じにカロリーを摂取して、生きていけば、自然と痩せていくのだと。だからあすけんでは、カロリーが低めだった日に、あまり良い評価が取れないのだなと実感。あのお姉さん、結構厳しめだろと思ったけれど、人間の体を研究していた人のレポートをベースにしているはずだから、あすけんが間違っているということはないのだろう。

    さて、ランニングの話。今日は暑かった。最近は少し涼しい日々が続いていたので、走りやすかったんだけど、今日は暑かった。だからペースは遅め。途中何度か、なんでこんな苦しいと思えるようなことを、ほぼ毎日繰り返しているのだろう、と自分の欲望を訝しんだりした。

    あの頃に戻りたい、じゃなく、今の自分を認めつつ、成長したいという気持ちを持つこと

    あの頃の自分に戻りたい、と願うことは勝手だ。自分の中で、当時を思い返し、充実していたなぁ、と思いを抱く。体は軽いし、走れるし、その頃がよかった、と考える。
    だけどそれは、裏を返すと、今の自分に満足していない、今の自分を否定するということにつながる。
    これはとても悲しいことだ。なぜなら、今の自分が嫌いということになるから。
    それは、快楽と充実という考え方があるそうだ。何それ、と思った。

    快楽と充実について

    ランニングって、なんでこんな辛いのに走るの、この、クッソ暑い真夏。気温30度。なんでなんの得もないのに走るの、と考えた。それをAIにぶちまけたところ、人間には、快楽と充実という考え方があるのだとそう。哲学なのかな?心理学?

    ざっくりいうと、性欲食欲物欲みたいなものは快楽。手に入れた瞬間はとても気持ちが良いけれど、ポイントは、 快楽を追い求めると、満足が逃げるという点。手に入れた瞬間は、めっちゃ嬉しい。だけどそれは際限がない。次を、次を、と考えてしまう。

    一方、充実というのは、例えばランニング。走っている最中とかもめっちゃしんどい。今すぐに歩きたいと考える。しかし、走り終えた後の満足感は、それは体が無意識にもたらしてくれる。苦しいことをやり終えたというハードルもあるのだろう。今日も走れてよかった、と考える。それは体が、快楽だけでは満足しない、ということにつながるそうだ。これが、充実なのだと。

    充実を得る方が、満足度は高い。

    いやけどこの話って難しいよね。今でこそ私、47歳になってそういういわゆる欲みたいなものがなくなってきたから、充実度を向上させるためのマインドセットを醸成することができてきている。だけど若い頃は快楽に溺れたいと考える。人間だもの。それを否定するつもりはない。

    いや、何歳になったって欲に溺れる人はいるだろう。それこそ価値観の問題だから否定するつもりはない。高い酒を飲んで、たくさんの女を抱いて、みたいな典型的な「快楽」を求める人は多い。それはそれで頑張って生きてくれれば良いと思う。

    私は、充実を求める人だ、ということ。

    そして充実を求める人という点で、もう一個メリットがあって、あの頃の自分に戻りたい、ではなく、今の自分を愛し、それを土台にして成長していこうという気持ちを培うことができるということ。
    それはデカい。上述したけれど、今の自分を否定しながら生きていったとしたら、悲しい人生を送ることになる。今の自分を自分で認めていないということは、とても悲しい。今を愛するという点は、自分の成長に大きな武器となるんだな。

  • 8月5日 善く生きるということ

    8月5日 善く生きるということ

    心療内科からきちんと卒業するということ

    6時くらいに起床。サクッと朝食、出社。この辺り何も考えずに動けるようになってきた。心療内科で処方されている薬を飲まないという選択肢を取っている今、将来的に挫けるようなことがあったらまた心療内科に行けば良いのだろうけど、このままいけば、次回の予約分から行かないということになる。
    心療内科からの脱却。正しくないやり方だと思っている。だって心療内科の先生と何年も付き合っていて、先生から、もう薬いらないと思う、来なくていいよ、って言われていないから。
    何度か減薬の相談をしたこともあったんだけど、一旦様子見で、っていう感じではぐらかされ? 2年近く同じままで続いていた。別に不信感を抱いているということではないのだけれど、このままずーっと薬を飲み続ける生活を送るのではないかと思ったりしてる。

    心療内科からちゃんと「卒業」する人って、通ってる人の中で多数を占めるのだろうか。私はここ 2年くらい、それこそ減薬を相談するくらいに調子が良く、鬱っぽいことを考えたり、そっち方面の気持ちが心に充満したり、ということからだいぶ脱却できてきた。それでも先生の言葉を信じ、通っていたけれど、さすがに 2年くらい減薬の相談をしても、私の願い?期待?通りに処方箋を更新してくれなかったのは、ちょっとどうなの、と思っている。

    だから私は、だいぶチャレンジングだと自認しているけれど、もう心療内科に行かない、という選択肢を取るのだね。そして、処方された薬を自分の意思で飲まない、という選択肢を取るんだね。

    きっと危険なことなんだろう。分かってる。またいつか、そういう系の衝動が急に芽生える可能性は、ゼロではないのだろう。
    私は薬を飲まなくなって、そしたら朝、快適に起きられるようになり、午前は眠くならず、いい感じにランニングしたりして、お酒の量を減らして健康への意識を高めるようになった。

    これってどう見ても、善いことなのではないだろうかね。
    私は、死ぬ時に後悔しない生き方を、というモットーを心に抱いて生きているから、その目的のためにどうしたらいいのか、ということを考えながら生きている。

    それってソクラテスの時代から言われているような、「善く生きる」ってことなのかもしれない。

    小野寺文宣 ひと 読了しました

    巻末の書評で中江有里さんが「実直」という言葉を使っていたけれど、全くその通り、これほどまでに実直な青年に、だいぶ感情移入してしまった。主人公は自分の人生を控えめに生きてきたけれど、だんだん、自分の意思で生きるようになるんだよな。
    そして、実直という言葉の通り、まさに誠実に生きている。両親を亡くし、お金に困窮しても決して挫けず、前を向いて生きているその姿を、善く生きると言わずして、なんと言えば良いのだろうか。

    昨日、まだ途中だけど、って体でその時点での読書感想文を書いた。
    そして今日、読み終わったけれど、この作者の、日常の描き方が本当に好きだ。そして、登場してくる人の温かさに関する描写が、とても適切な言葉で綴られていて、想像しやすい平易な言葉だし、その言葉の選び方がまた良かった。
    一人称、つまり主人公の目線で描かれているから、20歳の男子という目線で書く必要があるんだよね。だから、難しい言葉を使うわけにはいかないし(一般的な20歳の男子が知っている世界での、言葉を使うという意味)、そして行動や思考だってそのスコープに照らして書かないといけない。
    当たり前のことだけれど、これが自然にできないと、この主人公、実は何歳?みたいなことになってしまう。そういうところって自分の経験でできるのかなぁ、みたいなことを考えていたら、私の記憶の深さ、豊かさについて考えるようになった。

    20歳代の記憶が一番エモくて強い

    私は47歳になった今でも、大学時代にバイトしていた焼肉屋での風景や、そこで出会ったお店の人たち、お客さん、みたいなところの夢をよく見る。
    別にトラウマがあったとかではない。焼肉屋を営む家族みんなが優しくて、それこそこの小説に出てきた惣菜屋のみんなみたいな感覚だけど、だからイヤな思い出はほとんどなかった。

    一方、例えば、結婚してからとか、ここ10年くらいの記憶や経験をベースにした夢ってあまり見ない。それって、私の意識的に拾える脳の引き出しに入っていない、もしくは違う引き出しを見ているのかな、と思う。
    ここ10年、例えば妻や子供たちを愛していないとか、そういうことじゃないと信じる。私が家族のみんなが大好きだし、彼らが風邪をひいて熱を出しただけでも心配でしょうがない。家族のために全力で仕事をしているし(このへんも善く生きるに繋がるのかも)、だから、家族と得た経験や思い出は20代の頃のそれと比べても劣ることなんて全然ないと思う。だって家族旅行だってめちゃくちゃ楽しいし、行ってよかったといつも思うし、だから定期的に夢に出てきてほしいな、思い出を振り返りたいな、と思う。だけど残念ながら夢に出てくるのは、20代のあの頃なのだ。

    つまり私の中で、取り出しやすい引き出しにある記憶って20代の頃で、それがとてつもなく強いレベルで保管されているように思う。エモい。眠くなってきたので唐突だけど終わり。何が言いたいのか良くわからなくなってきたけどこのまま投稿して寝る。

  • 8月4日 いろいろな気持ちを抱いた。それも日常の一コマ

    8月4日 いろいろな気持ちを抱いた。それも日常の一コマ

    毎日同じようなことを考えている

    6時台に起床。二度寝はせず。サクッと朝食を摂って会社へ。今日は楽なつくば。
    出勤中は小野寺史宜の「ひと」。チャッピーにおすすめされたもの。
    初めて読む作家さんで、前情報が何もなく、チャッピーからは「お前に合うかもよ」って言われただけなので、正直あまり期待していなかった。
    だけど、これはドはまりの予感しかしない、と感じた。まだ読了していないけれど、後述しようと思う。
    会社に着いて、バレットジャーナルで昨日やり残した仕事を確認する。

    最近のバレットジャーナルの使い方としていいな、と思ったのが、デイリーログを「今日の予定」として入れるのではなく、「今日やった結果(ログ)」として入れる、というやり方。
    メリットは、やったことを確実に残せるということ。あと、仕事に取り掛かる前に、他のタスクのことを考えなくなること。つまり集中できる。これはデカい、と思った。
    私は割とマルチタスク系な人間で、だから他のタスクが気になってしまう。仕事をしていて、同僚からTeamsで問い合わせみたいな相談が来ると、気になってしまう。これは非常に良くない。結局仕事が想定より遅くなってしまったということも多々ある。
    だから、仕事に集中するために、他の仕事には目を触れないということが必要なのではないかと考えるようになった。

    デメリットは、これまた割とインパクトがデカいんだけど、「本来やらなきゃいけないこと」を見逃してしまうという点。これはデカい。大切なタスクを見逃してしまうというリスクがあるから。仕事効率化というカテゴリーで括られる、仕事術として、適切なタスク管理はその中心的存在だ。それを根底から無視してしまう、とも考えられる。これは対策が必要。

    そこで私は考えた。私はA5のバレットジャーナルと共に、A7のメモ帳を肌身離さず持っている。これはアイデアとか、やらなきゃいけないこと、小説のネタに使えそうないい感じの状況などを逃したくないから持っているんだけど、こっちにToDoリストを毎日作って、そっちを日々の予定表扱いにする。
    こうすることで、それぞれの持ち味が発揮される。ToDoリストを肌身離さず持つことで、タスクの取りこぼしがない。ロディア No.11を始めとするA7メモ帳は、ミシン目が入っている。だから、常に最新のToDoリストが、開いた瞬間に登場する。毎日の終わりにはそのミシン目で捨てるから。終わったタスクはToDoリストで斜線等を引いて終わりにしてもいいんだけど、そこでバレットジャーナルで日々を記録する。この組み合わせはなかなか良い気がする。この辺りのアイデアで本を書きたいんだよなぁ。

    小野寺史宜、ひとについて、途中まで読んだところでの読書感想文

    さて、上述した、こちらの本。

    ネタバレを含みます

    若い青年の話。お父さんとお母さんを亡くし、一人で生きていかなければいけないという、辛い境遇。最初にお父さんが亡くなり、それでもお母さんが頑張って私立大学へと進ませてくれたんだけど、そのお母さんが突然死してしまう。絶望。涙が止まらない主人公。そんな彼を応援せずにはいられない。そして、これ以上彼に不幸が訪れないでほしい、と切に願い続けながら読んでいる。

    今、だいたい半分くらい読んだところ。通常、読書感想文というのは、本を読み終わった時に書くものだろう。だけど私はこの途中段階で書こうという気持ちを抱く程度に、この本の魅力に取り憑かれた。まだ全部読んでいないけれど、今年読んだ本の中でトップを取りそうな気さえする。まだ読んでいないけれど。

    私は小説を読む時、作家さんの思考の拡げ方、癖、文末表現などを気にしながら読む。ストーリー展開は奇抜でなければだいたい良くて、ファンタジー要素は苦手で、現実に則した話であればあるほど好きなんだけれど、この辺りの作家さんの匙加減と、物語で取り扱われるテーマの両方が、私の好みにドンピシャだった。もし居酒屋でばったり会ったら私は、生ビールを奢り、普段どんなことを考えているのか聞いてみたい。そんな風にこの作者にも興味を抱いた。

    私がこの話をなぜ好きなのか、適切に言語化できないのが本当に悔しい。ストーリー的には、主人公の不幸が重なるという境遇と、私の息子に年が近いため、子供として見ている点、また主人公の控えめな性格が、とても普通で、日常で、その点がすごく好きだ。奇抜な登場人物もいない。みんな、どこにでもいるような人ばかり。だってそうだよ、それが日常なんだから。主人公は優しさに包まれたり、若干気持ちの下がるような、ネガティブなこと(両親が亡くなる以外で)を抱いたりしているが、「それでも生きていく」というスタンスに、とても好感を抱いた。(脱線するけれど、坂元裕二脚本の、それでも、生きていくってドラマ、好き)
    ホント、幸せになってほしい、と心から願う、そして、これ以上イヤなことが起きないでほしい、とドキドキしている自分がいる。この辺り、本を読み終わったらこの気持ちを抱くことができない。だから、あえて、まだ読み終わっていない段階だけど読書感想文を書こうと至ったモチベーションになったのだと思う。
    多分、明日読み終わる。その時はその時で、また読書感想文を書いてみたい。

  • 8月3日 日々は続く

    8月3日 日々は続く

    前向きでも後ろ向きでもない、淡々と進む

    7時くらいに起床。心療内科の薬を飲まなくなってから、朝、目覚めやすくなった。プロテインと菓子パンで朝食。
    菓子パンってすごいよなぁ。あすけんではお菓子扱いでした。栄養って観点はほぼ考えてないんだろうなぁ。口当たりと、甘さに全振りの味。食べたら幸せな気分になるけれど、それは糖分を摂取しているからなんだろう。

    今日は虎ノ門に出社。出勤中は逃亡くそたわけを読む。昨夜半分くらい読んでいたので、出勤中に読了。

    以下、ネタバレを含みます

    いわゆるロードムービー。精神科に入院してる二人が、病院を抜け出して九州を車で移動するという話。途中、車のエアコンが壊れたりして二人の空気が悪くなったり、事故を起こして当て逃げするとか、順風満帆な旅ではなかった。だけど二人の共通認識として、病院には戻りたくないというのがあり、その現実から逃げるように旅をする。途中万引きや、食い逃げをしたりして、善く生きるをモットーとする私的には、ちょっと嫌なシーンだった。
    私はそういう時、お店側の立場を考えてしまう。盗まれた分、売上が下がるわけだし、それによって苦しい思いをするのだろうから。いくら、それが二人の生活にとっていかに必須なのだとしても、やっていいことと悪いことはあるでしょうよ、と。
    深く心に残ったのは、現実から逃避したのだとしても、やがて現実と向き合うときは来るんだよな、ということ。物語ではその現実のシーンが描かれていなかった。読み手としては、いつか見つかってしまうのかな、とそのシーンがいつ来るのかドキドキしながら読んだけど、そのシーンは訪れなかった。まぁけど、車の中での二人の空気感とか、結構な現実感はあったけれどもね。

    現実と向き合って生きるべし

    なんやかんやあって、同僚が気に入らないとか、上司が認めてくれないとか、そういう他人との関わり合いは避けることはできないよな。逃亡くそたわけでも、二人の関係性とか、自分以外の人と関わることって多々あって、それに一喜一憂することはもはや一般常識だったりする。だけど他人はコントロールすることができない。そして、過去も変えることができない。こんなこと、このブログでも数えきれないほど書いてきた。

    大切なのは、自分の未来に投資すること。そのためには、自分の機嫌を取って生きてくことがとても大切なんだと思う。だって自分が機嫌悪くなって、他人に私の機嫌を取ってもらおうなんて虫が良すぎるだろ。機嫌を自分で良くすると、自分の未来が明るくなるってことだと思う。機嫌が良い方が、生きていて楽しい。
    自分の機嫌を取るには、どんな行動を取ったらいいんだろう。今の私の場合、体を動かすとか、刺繍するとか、私の心が豊かになるものが好き。お酒も機嫌を取ることはできるけれど、飲みすぎると記憶無くすし、二日酔いになるし、最近はお酒に対して、どっちかというとネガティブな印象を抱くようになったので、この選択肢から除外する。あとは好きな歌を聴くとかかなぁ。

    人生は楽なことばかりじゃない。むしろ生きていくためには困難だってある。その都度気持ちが腐ってしまうと、そこから浮上するのってすごく難しい。とはいえ、急にそんな状況に陥ることだってあるだろう。つまり予測不可能ということ。だったら、普段から気持ちが落ちないように心がけ、そしてそれだけじゃなく、落ちた時に浮上するための術を多く持っておく必要があるように思う。人生は長い。ぼんやりしていたら灰になっちまうって昔のロックバンドの人が言っていた。腐ってなんかいられない。楽しいことだけして生きていたい。それなら、そのための心の持ち方というものを、自分なりに考えてみることが大切なのかもしれない。

  • 8月2日 向かい風に向かって走るためには

    8月2日 向かい風に向かって走るためには

    バイクで向かい風はキツい

    今日は日曜日でお休み。7時くらいに起床。今日も暑い。
    今日はロードバイク。40km行こうかと考えていたんだけど、AIに相談したらやめとけ、30kmにしとけって啓示が降りたので、その案に従って30kmロードバイク。
    我孫子の曙橋ってところまでのライド。昨夜、手賀沼での花火大会があったからそのゴミとか落ちてんのかなぁーバイクで踏んだらやだなぁと思いながら向かったけれど、ゴミ的なものはほぼ落ちてなかった。すごいね、この数時間で掃除した人がいるってことだね。もしくは手賀沼まで来てた観客たちの「着いた時より綺麗に」っていうマインド、モラルの賜物か。掃除の人にしても、観客たちにしても、どっちにしても翌朝、花火終了から12時間以内の空間でキレイにしてるってこと、ほんと誇っても良いと思う。

    さて、目的の曙橋まで、行きはほぼ向かい風だった。踏んでも踏んでも進まない。人生って向かい風が吹いている時って大体辛いよな、みたいなことを考えながら走った。これはロードバイクだけじゃなくて、ランニングする時も同じように考えてたよなぁ。人はなぜ、向かい風なのに進もうとするんだろうか。風が止むのを待って、そこから走り始めたら良いのに。
    向かい風だとしても、前に進む理由があるんなら、進むしかないよな。風が止むをの待ってなんかいられないことの方が往々にしてある。自分の信じた道が、たとえ向かい風がバンバン吹いていたとしても、それに向かって進むしかないよな。

    逆に、帰りは追い風だった。そしてそこでも私は考えた。追い風の時って、割と無意識に風を感じていて、「今の私、追い風が吹いてる!」とは、人生の中でも感じることはないように思う。
    私みたいな、どっちかというと慎重な人間は、追い風が吹いてる!と感じた時、それはむしろ悪いことが起きる前触れだったりするから、より一層気を引き締めて暮らしていこう、と改めて考えたりする。いわゆる、足元を掬われるってやつ。ほんとそういう時に滑りやすいよね、人生って。

    30kmを終えて帰宅。尻付近と、尿道付近に痛み。痛いと言ってもどっちも、ヤバいやつではなく、ロードバイクあるあるなやつ。走りながらも痛みを感じていたけれど、そういう時って上半身が前に倒れていて、腕というかハンドル付近に重心が寄っているような気がした。頑張って上半身を起こして走ったら、なんとなく痛くなくなったような気がする。ロードバイク買って7年とか経つけれど、初めて知った事実なんではないだろうか笑

    宗教ってどうやってできたのだろう

    私は一切,哲学とか宗教学を学ぶ機会がなかった。大学は理工学部だし,単科大学だったということもあり,基礎教育としてその辺りを教育できる人を囲っておく予算はなかったのかもしれない。あったとしても、当時の自分は哲学とか宗教にはなんの興味もなかったから、きっと取ってなかっただろうな。

    今日、ぼんやり,ロードバイクに乗りながら宗教の成り立ちを考えていた。
    所詮素人の思いつきだから,事実とは大きく異なるとは思う。興味があったら調べる。

    さて,どうやってできたのか。私の意見はこちら。

    人が増えてくるにつれ,多様な考えが生まれるようになった。
    人々は苦しみ,一時の快楽に溺れ,やがて死んでいくという人生。多くの人はそうだった。そのことに疑いを持たず、人生ってそういうものだから、と先人たちに言われて年をとってきた。
    さて、そんな中で人間は、死んだ魂はどこにいくのだろう、と考えるようになった。
    物理的には、死んだら魂なんてものはどこにも行かず、血液が脳に流れなくなった時点で終わり。いわば宗教的な、輪廻転生とか、そういうものは一切あり得ない。私もそう思っている。
    脱線した。多くの人は、死んだ魂はどうなってしまうのか。とても気になった。

    そして、「天国」が生まれた。皆が、自分の理想とする世界が天国。自分の理想って様々。多分私のと、このブログを読んでくださっているあなたの描く天国は違う。

    そこで、人は考えた。共通の天国を作れば、分かりやすく、多くの人にその天国というものの大切さを伝えることができるのではないだろうか、と。
    今、苦しんでいる人は、死の淵を彷徨っていて怖がっている人に、その天国のことを教えれば、その人は怖がらずに死を迎えられるのではないだろうか、と。
    それが果たして、住民にとって良いことなのかはわからない。しかし、現在の生活がうまくいっていない人に、死なずに、生き続けるには希望が必要だ。現世でやり直すのは難しい。このままどんなに頑張ってみても、生活は苦しいままで、そんならもうこの世からいなくなってもいいよね、どうせ私がいなくても、誰も困らないし、と自暴自棄になってしまう。

    それを防ぐことが必要だ。気持ちがアウトローになっていても、生きていくためのモチベーションを与えなければいけない。そして、そこに必要なのは天国という存在。
    今は地獄かもしれない。けれど死んだ後は天国に行けますよ、という教えが誕生する。

    必要ない人だってたくさんいる。だけど、今の生活に躓きを感じる人は、「ちょっと信じてみようかな」って軽い気持ちで考え、やがてその宗教に入る。
    入ったところで生活が改善されるのを保証されるわけではない。もしかするともっと苦しくなってしまうかもしれない。だけどその、拠り所があるだけで、「また明日も生きてみようかな」と思えるようになるのではないだろうか。
    素人考えだから、これが当たっているかどうかはわからない。だけど、宗教の成り立ちと、宗教に没頭する信者の考え方を整理してみると、面白い結果になったりするのかもなぁ。

  • 8月1日 休日だけどタスクをこなす

    8月1日 休日だけどタスクをこなす

    午前が長い

    昨夜は1時過ぎまで眠れずにゴロゴロしていたところで、多分眠りに就いた頃は1時30分とかだったような。明日は早く起きられないだろうなぁ、と思いながら寝たので期待していなかったんだけど、まさかの6時台に起床。しかも、どろーんとした目覚めではなく、すっきりとしたもの。起きて何をするかちょっと考えたけれど運動一択だよね。朝は調子が微妙なのがここ数年のデフォなんだけど、実は今週、心療内科から処方されている薬を飲んでいない。理由は、気持ち的に調子良いから。躁状態ということではない。落ち着いて、日々、いろいろな物事に取り組めているなと感じているから。

    ということでランニング。5km。ペースは限りなく7分に近い6分台。5分20くらいで走ってた頃が懐かしい。焦らずにゆっくり戻す。暑いし。
    近所に公園があって、そっち行ってみたんだけど朝ランしてる人がとても多かった。知り合いはおらず。元々、ほとんどいないけど。なんとなく、同じ方向で走ってる人のペースに引っ張られそうな気がしてイヤだったので、ルートを変える。古くからある神社の方へ。そこからは近所をぐるぐる。今日は信号によく引っかかった気がする。考えすぎかな。考えすぎだろうな。

    オープンしてからしばらく経つ駐車場が、いまだに「オープンセール」ってやっていた。もう半年くらい経つんじゃないかな。これこのまま料金体系が定着していく未来が見えたわ。
    5kmを終え帰宅。からのシャワーを経てプロテイン+牛乳。
    そして図書館。Copilotからおすすめされたものを借りる。絲山秋子の逃亡くそたわけ、小野寺史宣のひと、そして恩田陸の夜のピクニック。3人とも初めて読む。あ、恩田陸は何か読んだ気がするか。蜜蜂と遠雷読んだな。楽しみ。

    バレットジャーナルにタスクを書いてこなす日々。ランニング、車の修理、図書館など。あとは刺繍と手芸くらいだな。

    Brighter, Brighter

    最近はLaura Day Romanceというバンドがちょっと好きで、そしてBrighter, Brighterっていう歌がとても気に入っている。
    穏やかなBPM、現実はうまくいかない、みたいなテーマの歌。最初は女性ボーカルの女性がいいな、って思いながら聞いていたんだけど、最近は歌詞が気になるようになってきた。

    https://s.awa.fm/track/b4a6b30c19b19f868432

    冒頭、少し引用してみる。

    間違いのないように 君は言葉を詰まらせているけど 時折騙すように 嘘笑をやってみせるのね そんな姿は決して 見たくない 見たくないけど グラグラの立場で お互い大変だよね 甘い思いを募らせ やり過ごすだけで 生活は精一杯 理由もなく流れる涙は 誰かの目に留まらなきゃ 天国へ行けない 天国へ行けない

    私はこういう、男性女性のカップル(と勝手に考えている)がうまくいかなくて、とてもゆっくり、だけど確実に別れに向かうっていう話が本当に好きで。
    「グラグラの立場でお互い大変だよね」って言うのが、どういうシチュエーション?って聴く方に委ねてるのがいいよな、って思う。その不明瞭なところを埋めるために聴く方は想像力を最大限に発揮して、具体的なシチュエーションを想像する。
    天国へ行けない、というのは。天国ってなんだろう。若干形而上学的なニュアンスも含まれているけど、それが「誰にとっても幸福な場所」と前提するならば、この恋人たちは、甘い思いを日々抱きながらもそれによって得られる天国へは容易に到達することができないくて、足元を見ると日々、生きるという営みを過ごすだけで精一杯。余裕がないんだね。二人の未来を悲観(というと言い過ぎかな)して、自然と頬を濡らすけれど、誰もいない部屋で、一人で泣いていても、何も進展しねーぞ、ということなんだろうか。

    涙は女の武器って言われたりする。この時代に男女の、この手の特性みたいな話をするのもアレなんだけど、涙を誰かに、ここで言ってるのは相手なのかな、に見られたら、彼らの考える天国に行けるのか。正直、個人的には「泣いても解決しねーぞ」派なので、涙が全てを解決するかというとそれは場合によるだろ、とは思う。だけど、涙に縋りたくなるほどに男女の関係は冷え切っていて、彼は嘘笑をしたりして本心を隠すし、もうどうしたらいいか分からないみたいな状態って、実はそんなに珍しいことではないよな。そして、「あーこのまま終わっちゃうのかなぁ」ってぼんやり考えるの、結構堪えるよね。私は割と早く結果を出したいタイプなので、時間に身を任せて解決するのか、崩壊するのかを委ねてしまうとか、そういう他責で自分の未来を自分で切り拓かない感じのやつ、苦手なんだよな。時には、もうどうでもいいから時間に解決してもらおうみたいに思ってしまうことはあれど。

  • SRV250 ルネッサ インテークマニホールドを交換しました

    前回の記事で、アイドリングが恐ろしく不調、信号待ちでエンストしてしまうと書きました。その後、致命的と名高いインテークマニホールド(インマニ)が案の定ヒビが入っており、ここを交換したらよくなるのでは?!と思い立ち、楽天で非正規品を買って交換しました。

    数年後にまた交換する羽目になるんでしょうけど、とりあえずその時のための備忘録を記録しておきます。

    • シートを外す
    • タンクを外す、この時ガソリンがダダ漏れするのでクランプか、工具を差し込んでおく
    • ガソリンコックを外す
    • ポンプを外す、ガソリンコック含め、ホースがどこからどこへ向かってるのかちゃんと確認しておく
    • インテークマニホールドを外す、必要なのは六角レンチとプラスのドライバー
    • インテークマニホールドはフロントとリアで形が違うので、インテークマニホールド本体に書いてあるFとRで区別する

    写真など。何かの参考になれば幸いです。私はタンクを外す時にガソリンがたくさん出てしまうのでここうまくやれるようになりたいなぁ。クランプをきちんとすれば大丈夫なんだろうなぁ。

    ちなみに、1月頃Y○Pに持ってった時にこれ指摘されて、修理、相当かかりますよって言われてびびったんですがこれ、1時間くらいで交換できたし、特別な工具いらないし、何より楽しいのでこのくらいだったら自分でやれちゃうなぁと思いました。

    試運転してきちんと走れたからとにかく嬉しいです。一生乗るからなと改めて思いました。

    新旧比較
    フロント側。中は大丈夫そうに見えるんだけどなぁ
    リア側。こちらも中は穴が空いてなさそうでしたが、ホースを挿すところがちょっと傷が付いているように見えなくもない。
    交換したお古のほう。見事にヒビが入ってますね
  • 8月30日 そういう日もある

    8月30日 そういう日もある

    そういう日もある。
    自分に何かを諦めさせようとするこの言葉。
    この言葉は不思議な魔力を持っていて、それは言霊とも言えるのかもしれないけれど、そういう日もある、と自分に言い聞かせることで、私が今日やってきたことであまり上手くいかなかったことがあったとしても、それを水に流してしまおうという魂胆なのだ。

    私は常日頃から考えていることがある。それは、自分の中で障害となっている物事に立ち向かう必要がある場合、ある程度のパワーを必要とするが、それに打ち克つには大量のパワーが必要だということ。そのパワーを充電する余地がある際、何日もの日々をやり過ごし、パワーがみなぎるのを待つ。その際、私は気が弱いところがあり、待ちきれずにその障害のことを案じて不安になり、パワーがみなぎる前にそれを諦めてしまったりすることがある。
    気が熟す、と昔から言われている言葉を信じ、それを待つということも自分の仕事(仕事というのは給料をもらうための仕事ではなく、人生を賭けた仕事のほうの意味)なのだろう。だけどそれを待つことができない。もしかすると私はせっかちなのかもしれない。そういう時にこそ、「そういう日もある」と自分に言い聞かせることが肝要なのではないだろうか。
    また、障害に真っ向から向かうのではなくどこかを迂回して進むなどの戦略を考えることも必要だったりする。ただ真っ向から勝負し成功するのは、よほど自分に自信がある時のみだけだろう。その、対症療法ともいえる戦略を駆使し、障害を少しずつ削っていくことで、だんだんと小さくなっていき、気づいたらひょいっと乗り越えることだってできるかもしれないのだ。
    そう考えると、戦略というのは非常に重要で、特に今の自分の実力では到底敵わないような物事に対して綿密な戦略を考え、それを粛々と実行し、やがて打ち克つことができるだろう。

    戦略と聞くと、例えば国同士が戦うレベルでの戦争や、スポーツの世界で良く言われることのように思うが、実は自分が挑もうとする課題に対しても有効なのだ。こんなに身近に、戦略を立てることの重要さがあるとは。この投稿を執筆する中で気付けて良かった。

  • 8月29日 失敗から学ぶこと

    8月29日 失敗から学ぶこと

    ベランダでタバコを吸っていると、急に猛烈な雨が降ってきた。
    それはまるでお盆をひっくり返したかのような勢いで、私は驚き、ただ呆然と空を眺めることしかできなかった。
    自然の脅威。言葉で表すといかにも安っぽい印象のあるそれは、今まで幾度となく人間を恐怖のどん底に陥れてきた。今、日本で暮らしている人の大半の脳裏に焼き付いているのはやはり、宮城県沖で起きた2011年の大地震だろう。あの頃を思い出すと、日本はこの先どうなってしまうのかという不安に苛まれていた日々を送っていたように覚えている。私は仕事先のオフィスから自宅まで数時間かけ、徒歩で帰宅した。
    途中、大きな橋を渡る時、先が見通せる角度のところを垣間見ることができたのだが、まるで亡霊が三途の川を渡るように、皆一様に、前をぼんやりと眺めながら歩みを進めていた。
    あれは地獄だったと言っても過言ではないかもしれない。事実、私よりも震災被害の多かった地域の人の中では、自分以外の家族がみんな行方不明になってしまい、途方にくれた人もいたであろう。家族と、さよならも言えずに永遠に引き裂かれる思い。その人の心境になって少し思いを巡らせてみようとしたけれど、今の私が、私の家族と離れ離れ、一生会えないということを考えただけで胸が苦しくなった。
    そうやって考えることすらも地獄の一つなのかもしれない。
    逆に、今ここに家族と一緒に過ごせていることが一つの奇跡で、幸せを体現しているようなものだから、それをきちんと噛み締めて生きていくべきであろう。
    そういう私ではあるが数年前、自ら命を殺めてしまいたいと思うことがあった。あれはどのような経緯でそう思い至ったのか、あまり詳しく覚えていないし、もしかすると思い出したくはない出来事なのかもしれないけれど、今考えると、その、一時の衝動みたいなもので自分の命を殺めることなくやり過ごせて良かったと思う。今の、私の家族を含めた、私を取り巻く環境がものすごく幸せで、それを噛み締めることができなかっただろうから。
    と、今ではそう思うのだけれど、あの頃の自分のことを思うと、それが最善だったのかもな。それくらい私は追い詰められていて、大好きな家族に気を回すことなんてできていなかったかもしれないな。
    そう考えると、人間が抱く気持ちにも天災のような出来事が意図せずやってくるのかもしれない。こっちは全くもって準備なんてしていないのだから、そいつがやってきたことで自分の気持ちをうまく整理、コントロールすることができず爆発し、自分の意識では取り返しのつかないような事態を招いてしまうのかもしれない。
    それは、その時点で見てみると、決して良いことではないように思う。だけど人間はその出来事を生かし、成長していくではないか。
    それが糧となり、同じような事態がやってきた時に、ものすごく高い防波堤を作ることで、その波を抑えることができるのではないだろうか。
    なんでもかんでも物事をポジティブに捉えるのは個人的にはいただけないのだけれど、そうやって考えると、津波から学び、次からは失敗しないようにすることができるはずだ。人間だもの。