タグ: 生き方

  • 8月3日 日々は続く

    8月3日 日々は続く

    前向きでも後ろ向きでもない、淡々と進む

    7時くらいに起床。心療内科の薬を飲まなくなってから、朝、目覚めやすくなった。プロテインと菓子パンで朝食。
    菓子パンってすごいよなぁ。あすけんではお菓子扱いでした。栄養って観点はほぼ考えてないんだろうなぁ。口当たりと、甘さに全振りの味。食べたら幸せな気分になるけれど、それは糖分を摂取しているからなんだろう。

    今日は虎ノ門に出社。出勤中は逃亡くそたわけを読む。昨夜半分くらい読んでいたので、出勤中に読了。

    以下、ネタバレを含みます

    いわゆるロードムービー。精神科に入院してる二人が、病院を抜け出して九州を車で移動するという話。途中、車のエアコンが壊れたりして二人の空気が悪くなったり、事故を起こして当て逃げするとか、順風満帆な旅ではなかった。だけど二人の共通認識として、病院には戻りたくないというのがあり、その現実から逃げるように旅をする。途中万引きや、食い逃げをしたりして、善く生きるをモットーとする私的には、ちょっと嫌なシーンだった。
    私はそういう時、お店側の立場を考えてしまう。盗まれた分、売上が下がるわけだし、それによって苦しい思いをするのだろうから。いくら、それが二人の生活にとっていかに必須なのだとしても、やっていいことと悪いことはあるでしょうよ、と。
    深く心に残ったのは、現実から逃避したのだとしても、やがて現実と向き合うときは来るんだよな、ということ。物語ではその現実のシーンが描かれていなかった。読み手としては、いつか見つかってしまうのかな、とそのシーンがいつ来るのかドキドキしながら読んだけど、そのシーンは訪れなかった。まぁけど、車の中での二人の空気感とか、結構な現実感はあったけれどもね。

    現実と向き合って生きるべし

    なんやかんやあって、同僚が気に入らないとか、上司が認めてくれないとか、そういう他人との関わり合いは避けることはできないよな。逃亡くそたわけでも、二人の関係性とか、自分以外の人と関わることって多々あって、それに一喜一憂することはもはや一般常識だったりする。だけど他人はコントロールすることができない。そして、過去も変えることができない。こんなこと、このブログでも数えきれないほど書いてきた。

    大切なのは、自分の未来に投資すること。そのためには、自分の機嫌を取って生きてくことがとても大切なんだと思う。だって自分が機嫌悪くなって、他人に私の機嫌を取ってもらおうなんて虫が良すぎるだろ。機嫌を自分で良くすると、自分の未来が明るくなるってことだと思う。機嫌が良い方が、生きていて楽しい。
    自分の機嫌を取るには、どんな行動を取ったらいいんだろう。今の私の場合、体を動かすとか、刺繍するとか、私の心が豊かになるものが好き。お酒も機嫌を取ることはできるけれど、飲みすぎると記憶無くすし、二日酔いになるし、最近はお酒に対して、どっちかというとネガティブな印象を抱くようになったので、この選択肢から除外する。あとは好きな歌を聴くとかかなぁ。

    人生は楽なことばかりじゃない。むしろ生きていくためには困難だってある。その都度気持ちが腐ってしまうと、そこから浮上するのってすごく難しい。とはいえ、急にそんな状況に陥ることだってあるだろう。つまり予測不可能ということ。だったら、普段から気持ちが落ちないように心がけ、そしてそれだけじゃなく、落ちた時に浮上するための術を多く持っておく必要があるように思う。人生は長い。ぼんやりしていたら灰になっちまうって昔のロックバンドの人が言っていた。腐ってなんかいられない。楽しいことだけして生きていたい。それなら、そのための心の持ち方というものを、自分なりに考えてみることが大切なのかもしれない。

  • 7月21日 強くなくても良い、しなやかに生きる

    7月21日 強くなくても良い、しなやかに生きる

    有給休暇を取得した

    今年に入って何回目だろうか、4回目くらいかな。忘れた。まだたっぷりある。
    8時台に起床。午前に長男と次男の、学校の担任との面談に参加。
    どっちもきちんとした人間になっているようで、先生から心配するような声は聞かず。親の背中を見て育つというけれど、私はあんまりきちんと教えたつもりはない、だけどどっちも社会性を持った、どこにでもいる17歳と11歳になったようだ。とりあえずよかった。
    お昼くらいにバイク屋へ。家から30分くらいのところにある、ライコランドというお店。バイカーなら知ってそうなくらい有名なお店。フロントフォークのオーバーホールをしたくて、問い合わせの電話をしたら、バイクを持ってきて欲しいとのこと。超暑かった。暑いを通り越して熱いって感覚。
    バイクは風をあびて気持ち良いと感じるだろう、とバイクに乗らない人は考えるだろう。だけどそんなことはなく、ここまで暑いと熱風を感じるだけ。国道のデカめの道路だとトラックと並走することも多々あり、そうなるとトラックから出る熱でそりゃまた暑い。バイクに乗っていても汗をかく。
    やっとの思いで着いたバイク、店員さんにバイクを見てもらうと、インナーチューブも替えた方が良さそうとのアドバイス。こりゃあ高くつきそうだ、と思いつつ、車体番号から部品とかを検索してもらったんだけど、なぜか車体番号が登録されていない、と。なぜ。ちゃんとナンバーを登録したんだけどな。
    ちょっと時間かかります、とのことで、今日は番号を控えてもらって後日電話が来るとのこと。あまりにも高いようだったら、もしくはバイク屋ででもできないようだったら自分でやる以外の選択肢はない。結構大変そう。工具も買わないといけない感じ。やれやれだぜ。ヤフオクで去年の年明けくらいに買って、ようやく安定して乗れるようになったんだけど、まぁ色々あるなぁって感じ。
    で、帰宅して家族とランチ。しゃぶ葉のランチを。食べすぎた。お腹いっぱい食べられることに幸せを感じられるようになるうちが華だな、と思った。お腹いっぱい肉と野菜とご飯を食べて帰宅。しゃぶ葉を出た後に乗った車が暑かった。
    で、間髪入れず心療内科。この頃は二ヶ月に1回のペースで通っている。今日は混んでいた。なんで混んでる日と、混んでない日があるんだろう。いつも不思議。
    いつも通りの薬を処方してもらって帰宅。近くのホームセンターでホテイ草を買った。

    猫のこと

    毎日譲渡会のことを考えている。猫を飼いたい。癒されたい。そりゃ命を預かるって点では責任が生まれるけれど、それ以上に癒されるメリットの方が大きいだろうって考えている。次の土日はどこであるか、みたいなことを近くのスーパーとかで譲渡会案内のチラシを見てメモをする日々。

    レイソルの開幕戦

    開幕戦は水戸ホーリーホックとの対戦。今日の18時がチケット発売日、時間なので心療内科で診療待ち中に買った。最近のレイソルはプラチナチケット化していて、だから争奪戦になると予想して18時ちょうどにアクセスしたんだけど、難なく買えた。次男とゴール裏。順番待ち(開門前)、順番待ち(開門後)、席取り(開場後)みたいに3回くらいに分けて行かないといけない。苦行だよなこれ。あっついし。バイクで行くか、自転車の方が機動力に優れる(渋滞にハマらない)ので、そっちにするかと思うんだけど、いかんせん暑いよな、って思う。自転車かな。

    強く生きなければ、と考えていた自分に光が見えた話

    今日のタイトルでもあるんだけど、私はここ15年くらい、強い人間にならなければ、と考えていた。それは私の尊敬する上司に対する私の印象でもあるし、私は折れやすいから、強く生きなければ、この世界で生き残っていけない、とずーーーっと考えていた。
    けどそれって自分を否定することに繋がるんだよね。
    Tumblrでたまたま回ってきた言葉が、強い自分じゃなくて、しなやかに、自分らしく生きるべし、みたいなのを読んで、ハッとした。
    確かに、折れずに生きるためには、強くあろうとするよりも、しなやかに生きるって方が自分に合っている気がする。
    生まれたてのバジルのように、風が吹くとゆらゆらするけれど、知らず知らずのうちに大きくなっていくには、強さではなく、しなやかさが必要なんだよな。
    また、強く生きるっていうのは、自分の感受性を無視して、生きていくということになる。ブレない、というか。ブレないためには自分は安定していないといけないし、また、ある種、鈍感な一面を持たないといけないかもしれない。他人の気持ちを慮って生きるには、あまりにもいろんな考え方があるから、場合によっては無視する、っていうと言い過ぎだけど、気にしないという一面があるように感じる。それは自分には合わないな、と。
    ここのブログでも何度も書いている気がするなぁこの話題。この手の話題、好きなのかもな。

  • # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    過去と他人は変えられない。
    今まで何人もの人がつぶやいてきたことを心の中の分かりやすい引き出しに入れておくと、多くの場合の理不尽なことなどで、腹を立てないようになってきたなと感じる。
    心の成長とでもいうべきか。心が広い、という意味と近しい感じもするけれど、心が広い、というのは成長に伴って大きくなっていくというよりは、生まれ持った感覚というものに大きく依存している気がする。
    ものすごく軽やかに生きることができる。他人に期待しないだけで。同時に、物事は自分でなんとかしていかなければいけないという責任が生まれた気もする。
    そして自分の機嫌は自分で取っていかないといけないから、その責任を心地良い程度で抑えつつ、時には自分の考えを柔軟に曲げながら、生きていく必要がある。

    他人に期待すること自体は決して、悪いことではない。
    だけど自分の想像する範囲での「期待」に対して、他人がそのようにすることってのは実は少なくて、だから自分の考えを曲げて、なんとか納得する着地点を探す。
    自分の考えを曲げてという点は、たぶん、まだ他人に期待しているという点が含まれている。
    世の中は一人では暮らしていけないから、少しでも他人に寄りかかって生きていかないといけない。家族がいるんなら猶更、いや、家族に関してはより一層気を使って生きていく必要があるんだろう。だって自分の人生において多くの部分を一緒に過ごす仲間だから。

    人生ってうまくいかない。ニーチェも言ってたけど、うまくいかないことを何度も何度も繰り返して、それでもやっぱり失敗して、だけどもう一度挑戦する、っていうマインドは捨てたくないなと思う。
    石橋を叩いて渡る人生の方が穏やかで、大きな波が立たず、緩やかに死ぬまでのエネルギー的な曲線を描いていくんだろう。
    一方、刺激的な人生とは。エネルギー的な曲線は常に上限を振り切っている気がする。ずーっと元気な人ってたまにいるよね。見境なく、考えるより先にやってしまおう的なスタンスの人。
    彼らってすごいなと思う。
    人生は一度きりだし、死ぬまでで今、この瞬間が一番若いんだから、やりたいことをやれよ!という考えも分かる。
    だけどそこは性格だから。私はそこまで(ディスってません)行動ファーストにはなれないから。私は私のペースで生きていくんだから。
    それにしてもまた、いろんな物差しで自分の考え方を測ってるよなぁ。
    行動ファーストの他人がいたとして、彼らに同調する必要なんて1ミリもないのに、私はつい、「私もそっち側にならなきゃ!」みたいな考えが頭をよぎるんだもんな。

  • 記憶に残らない一日

    記憶に残らない一日

    仕事をしているとあっという間に1日が終わる。
    何も考えなくても、目の前の仕事をこなすだけで、あっという間に時間は過ぎる。
    文字を入力するキーボードや、マウスを触っているだけで1日が終わり。
    あっけない。あっけなさすぎる。
    時折、仕事が猛烈に忙しくなったりすると、仕事のために生活しているような気分に苛まれることがある。
    生活するために、給料を稼ぐ必要があって、だから私を含む一般的な社会人は、人質と同じ扱いで、働かなくてはいけない立場になってしまう。

    これって幸せなことなんだろうか。
    仕事があるだけ、仕事をこなせる頭脳と、体力があるだけ幸せなのかもしれないが、私が考えたいのはそこではない。
    時間と気力体力を奪われているという状態が、幸せなのかどうかという点。
    たぶん、結局のところ、自分が幸せと感じるなら良いだろう、という結論に至る気がするけど、ちょっと考えてみたい。
    時間と気力体力が奪われ、その対価としてお金をもらう。
    お金がないと、生活できない。たまに、お金無しで生活してます!みたいな、山奥に住んでいる家族を観ることがあるけど、そこまで振り切れるのすごいなと思う。
    お金は大事だよ。必要だよ。だから、自分の時間と気力体力を捧げるんだよ、だってそれくらい重要なんだから、と、泣きながら考える。

    では、お金が、必要十分な程度持っていたら、働かないという選択をするのだろうか。
    家族が健やかに過ごすだけのお金。余裕はないけれど、慎ましく暮らすことにフォーカスして、まったりと生きていく、といったような。
    たぶん、私は、仕事を探すと思う。
    お金が欲しい訳ではない。いや、お金も欲しいけど、仕事をこなすことで得る達成感や、誰か、同僚のために貢献して、その同僚を喜ばせたい。
    だいぶ飛躍した気がする。
    お金のために働くと考えていたのに、いつの間にか、「貢献したい」と目的が変わってしまった。
    お金のためだけに働くのって、なんとなく、虚しい気がする。(諸説あり)

    話を戻す。
    時間と気力体力を捧げてまで、誰かのために貢献したいということになるんだなここまでの文章を噛み締めてみると。
    これも諸説ありで、つまり価値観に依存するようなものだから、あくまで私の考えではあるけれど、私は、お金ももちろん大事だけど、誰かのために貢献して骨を折り、仕事をこなすことで「気持ち良く」なるんだと思う。
    生きているなら、仕事するなら、気持ち良く仕事をしたい。
    そのためには、自分の時間や気力体力を捧げることだってやぶさかではない。
    だってその方が気持ち良いんだもん。

    生きるって難しい。人それぞれの考え方があって、もちろん私の考えに反する人もいるに違いないし、その考えを否定するつもりは毛頭ないし、だから、いろんな考えを持った人がいる中で、仕事したり、生活したりするんだもんな。

  • 生きがいなんてなくたって生きていられる

    生きがいなんてなくたって生きていられる

    子供の頃から、「夢を持て」とか、「生きがいを持て」みたいなことをたくさん言われて育ってきた。それはそれで間違っていない。夢を持つことで,自分の可能性を狭めることなく,むしろ広げるように成長していくから。生きがいを持つと,生きる自信に繋がるから。おそらく,世界中の子供たちは皆,大人からそんなことを言われて育っているように思う。
    私が子供の頃,記憶にあるのは,小学校6年生の授業で,自分の夢というテーマで作文をしたことだ。それは授業参観で発表する形となっており,先生としては「子供が何を考えているか」を発表させ,そして親がそのことを受けてどうのこうのみたいなことを狙っていたのだろう。
    そこで私は,「サラリーマンになる」という夢を発表した。それは夢と言えるのか?と疑問を呈することもやぶさかではない発表だった。私はおそらく,夢というものを見ず、自分の延長線上に何があるかというのを現実的な目線で考え、そして発表したのだろう。

    そして46歳になった今、その夢は叶えられ、私はサラリーマンとして20年以上働き続けている。その時、同じように夢を発表した人たちの中で、その夢とやらを叶えることができた人はいったい何割いるだろうか。残念ながら私は誰の夢も覚えていないし、それよりも前に小学校時代の友人とはここ10年くらい連絡を取っておらず、だからその夢を検証することもできないのだけれど。
    私は夢を見ていたのだろうか、こんな生活をする夢を?と思ってしまう。サラリーマンなんて今の日本では大多数を占めるだろう。そんな、謂わば誰でもなれるような職業を夢に据えるなんて、当時の私、自分の可能性をきちんと理解していたか、もしくは、夢というものを誤解していたのではないだろうか。

    そもそも、タイトルにも据えたけれど、夢とか生きがいがなくたって、人間はちゃんと生きていけるのだ。私はここ数年の中で、何度、夢とか生きがいのことを考えただろうか。たまに、ぼんやり、生きがいというテーマで物事を考えると、家族、特に子供達が成長するまではきちんと見守る、そういった意味で生きがいなのかもなぁ、なんて鼻をほじりながら考えたりもしたものだ。だけどそれは見方を変えると、生きがいではなく、単純に、親としての義務というだけだ。それを生きがいなんてカッコ良い言葉に置き換えたところで、話は美化されないし、子供たちは勝手に成長していくし、だから生きがいなんて必要ないんじゃ、と思うのだ。
    夢とか生きがいとか、そういうものがないと,ちょっと焦ったりもする。私はこのままぼんやりと生き続けていいんだろうかと立ち止まって考えてしまったりもする。だけどその時点で改めて,夢とか生きがいを考えたって,自分の生活はいつも通り進んでいくし,私は目の前にある家事や仕事をこなしていかなければならないから,意味がないんだと思う。

    夢とか生きがいっていうのは,もしかすると幻想だったのか。それを抱かなくなるとジョージオーウェルの1984年みたいな、曇った世界、希望がない世界のようになってしまうような気もする。あの世界は私には強烈すぎた。現在の、かの国のように言論が統制され、至る所で監視されているような生活を送っている人にとっては、それこそ夢とか持ったら政府に殺されてしまう、みたいになってしまうのかもしれない。
    だけどもしかすると、夢とか生きがいを強制的に考えさせられるような現代日本の義務教育は、ちょっと考えものなのかもしれない。
    いや、私は、そういうものを持っちゃダメだ、とは言わない。そうではない。けれど、夢とか生きがいとかなくても、ちゃんと生きていけるし、無理やり見つけるようなものではないから、意識的に見つけるんじゃなくて、自然と身についてくるような気がしてしまうのだ。

  • 入れ替わりながら、生きている

    入れ替わりながら、生きている

    生きるって、どういうことだろう。
    生きる、って言っちゃうとどうも重たく感じてしまう気がする。
    なので、生きてるな、って思った瞬間のことを書こうかなと思う。
    未来の自分はそういうことを考えていた過去の自分を思い返し、改めてどんなふうに考えるのだろう。

    今日も一昨日に引き続き、10km走ろうと思っていたものの、気持ちが前に向かず走ることができなかった。
    言い訳を考えたらキリがない。寒いとか、家でのんびりしたいとか、今日は祝日で昼間は暖かかったはずなのにそれをスルーし、あっという間に夕方。
    近所のスーパーまで買い物に出かけたら完全にやる気がなくなってしまった。
    帰宅してお酒。
    けれど今日は焼酎のお湯割り1杯で終わりにした。走らなかったことからくる罪悪感を抱いたためだろう。
    その後、すべてのやる気がなくなり、決断するのがめんどくさい状態に陥った。
    仕方なくその場をやり過ごそうとする。タバコ。外は寒い。
    羽田空港から飛び立つ飛行機を4つくらい見送っているうちにタバコ終了。
    管制塔にいる人ってすごいよな、と考えた。

    数日前にも書いたけれど、人生って毎日がポジティブ、すべてのことに自信を持ってやり遂げることができます!というシーンは少ない。
    歳を取ると尚更、というのが最近抱いていること。
    こんな感じで、走ろう!と思ったのに走れなかった自分を認めないと、気分がより一層滅入ってくるのは知ってる。
    そういうのも引っくるめて自分を愛する必要があるんでしょ、と不貞腐れた気分でそれを受け止める。

    いつ、どんな時でも自分を肯定しないといけないんだろうか。
    自分を否定することは本当に悪いことなんだろうか。
    叱咤するというスタンスなのであれば、例えば今の自分に対しては、「明日走る!」というモチベーションにつなげることができるかもしれない。
    だけど明日は仕事が忙しそうで、帰宅時間が遅くなりそうだから厳しいよな、と諦める自分もいる。

    いったい、どの自分が本当の自分なんだろうと思う。
    自分の中に、100人くらいの人格がいるような気がする。
    それぞれの役割、例えば父親、夫、社会人、のようにいろんな帽子を被った自分がいるけれど、根本的には自分は一人なはず。
    走ろうと思ったけれど走れなかった自分、控えようぜと思ってるのにお酒を飲んでしまう自分、タバコを吸ってしまう自分、どの自分を信じ、背中を押せばいいんだろう。

    そんなことを考え、思いの丈をChatGPTにぶつけてみたら、バラの花びらを包んでくれるように優しく、自分を救ってくれた。
    ニーチェは、人間を一つの意志を持った存在としては見ていなかったらしい。
    いくつもの衝動がせめぎ合い、その時いちばん強かったものが前に出るだけだ、と。

    そう考えると、今日は「走らなかった私」が勝っただけで、「走りたい私」が消えたわけではない。
    明日、あるいはまた別の日に、そっちが前に出てくるかもしれない。

    生きるって、たぶんそういう入れ替わりの連続なんだろう。明日からまた仕事だ。

  • # 日記らしい日記

    # 日記らしい日記

    土日と連続して雨っぽい、湿った空気の下で過ごし、月曜になってようやく晴れた。

    こんな日は花粉がビュンビュン飛びまくるから必要最低限の外出しか出来ず、つまりそれは家で地味に過ごすだけしかないのだけれど、家では読書か、ゼルダか、家事くらいのもので、なんとも鬱憤が溜まる感じですなぁ、という状況。

    会社でリストラにあい、10年、業務委託として入り込んだ時期を含めると13年、良く働いた会社とのあっけない幕切れが訪れた。

    正直、心の整理はついたのかと言われるとなんとも言えず、そもそも心を整理するってどういうことなんだろうというのを考えつつも、積読してる本たちや、5月に申し込んだTOEICの過去問集や、書きかけの小説や、やりかけのゼルダや、ちょっと緑色になってきた水槽を目の当たりにすると、クヨクヨしてもいられず、それらを全部やり遂げるために時間を使うのが先決なのだろうと思う。

    ## 時間は有限、だけど無限

    次の仕事先を探してはいるけれど、まぁまぁ働き口が見つかりそうな今、慌てて仕事を探す必要もなく。

    まずは自分を高めるための学習とか、身の回りの整理とか、そういうことに注力していこうぜ、と思うんだけど、思い立ったが吉日、とは言えなかなか思い立たない、腰が上がらないのも事実で、私はカレンダーとかにある程度おおまかな予定を立てながら生きていくのが好きなんだな、ということに気づいた。

    8時起床、午前読書2時間、ゼルダ1時間、午後小説書き2時間、とか、そんなざっくりした感じでいいんだけど。

    そうでもしないと時間はどんどん流れていって、私の手元に何も残らなくなってしまう。そういう、一見無駄とも言える過ごし方も、まぁありっちゃありなんでしょうけど。

    心身を休めるという目的に適うのはそんな過ごし方で、休日は休日然とすべきだし、無理やり予定を入れてあっという間に過ごしてしまうのも、考えようかなぁ。価値観の違いでしょうけども。

    時間は有限と書いたのはそういうこと。使い方は無限の選択肢。何に使おうと私の自由なんだから。家族に相談とか、最低限話を通す必要のある人はいるけど、とは言え、この機会にやっつけちゃいたいものはばーっとやっつけてしまいたい。

    一応、5月末とか6月末くらいまでお休みして、充電しようと思っているんだけど、そこから逆算して、やりたいことをきちんと考えないといけないなと思っていて。

    例えば6月末までお休みということであれば、ちょっと計算すると、今日を含めて105日ということに。

    えっ、あと100日しかないの?!と思っちゃったりします。

    105日の間に、私は何を成し遂げるべきだろうか。

    このあたりはマスト

    • 小説を3つ書き上げる
    • 読書を欠かさない
    • TOEICの勉強を続ける(試験は5月18日)

    できたらいいなリスト

    • スコットランドへの旅
    • 小説をさらに2つ仕上げる

    これを具体的なチャートに落としていくとすると、とか考えてるうちに休みが終わってしまいそうな気がする。だめだ。動こう。

  • # 今、ここに存在するものが、未来に存在し続けるとは限らない

    # 今、ここに存在するものが、未来に存在し続けるとは限らない

    ちょっと時間が経ってしまいました。

    引き続きマルクス・アウレリウスの自省録から気に入ったものを。

    しかしこれ、何度も書いてますが、数千年前に書かれたものとは到底思えないですね。

    今、この、2025年という日において、十分役に立つ言葉が載せられているということの、マルクス・アウレリウスの先見の明がいかに偉大か。マルクス・アウレリウスは自分のために書いた、とどこかで読みましたが、それだとしても、他の人に見られることをまるで想定しているかのような書き方をしていることにも驚きます。

    未来の私に伝えたい言葉

    これはおそらく未来の自分に向けて、彼は書いたんだろうと思います。

    日記なんかでもそうですよね、未来の自分へ書く手紙だ、と言われることもあったりします。

    未来の私に、伝えていきたい言葉を、今、頭の中で整理して書いてみるという行為は、自分の身体(というかメンタル)にとってとても大切です。未来の自分に向けて書くという点で考えると、マルクス・アウレリウスの自省録もそうですが、自分が「善く生きる」ために必要なことを書いているワケです。時々、日記に今日の愚痴を書く、書きなぐる、という人もいるようですが、それは結局建設的に、明日は今日よりも善く生きようというのに繋がらないから、そればっかりだとダメなような気がします。

    愚痴を書いて、それを反面教師として、明日の自分への糧にする。この考え方であれば、どんな愚痴でも十分に自分を成長させるための材料なのだと思います。

    > ものごとはすべて変化によって生じることを、絶えず観察すること。自然がもっとも愛するのは、いま存在するものを変化させ、それに似せてあらたなものをつくりだすことにある。

    > いま存在するものはすべて、これから生じようとしているものの種子だ。だが君は、大地や胎内にまかれるものだけを種子だと考えている。じつに浅い考えではないか。もっと深く考えることだ。

    自然の中で、絶えず変わっていくもの

    毎日毎日、同じような生活をしていて、変化がないように思う日々とか。

    同じ仕事をしていると、あれ、今日水曜日?!火曜日はどこいった?!俺の火曜日、なんも生み出してない!というような思いに駆られることがあります。

    日にちって難しいですよね。きちんと意識していないと、すぐ、今日は何月何日なのかを忘れてしまいます。

    海軍が金曜日にカレーを作って食べるのは、曜日感覚のない生活を過ごしているから、カレーを食べれば金曜日、という風に状況を作り出すことで、曜日感覚を忘れないようにしているのです。

    マルクス・アウレリウスは言います。「自然がもっとも愛するのは、いま存在するものを変化させ、それに似せてあらたなものをつくりだすことにある」のだと。

    自然っていったい何なんでしょう。ベランダから見える外?それだけではないはずです。

    私が思うに、自分という存在 を含めた、全体的な自然なのではないでしょうか。

    つまり自分も、自分の周りを取り巻く自然というものの一部なのだと。

    自然とうまく付き合っていくことが、自分が善く生きるコツなんです。

  • 痩せるために食生活を見直すと、世界が色褪せて見える

    痩せるために食生活を見直すと、世界が色褪せて見える

    なんだか常に口の中が酸っぱいなぁ、歯磨きした直後なので歯垢とかの問題ではないぞ、と思っており。

    その原因が、先日の健康診断で発覚しました。

    食道裂孔ヘルニア

    これは何かというと、胃が食道の方に出ちゃってる病気のようです。

    https://www.onaka-kenko.com/various-illnesses/esophagus/esophagus_07.html

    こうなると、呑酸と言って、胃酸が逆流しやすいんだとか。

    だから、私の口の中は常になんとなく酸っぱい感じになっているんです。

    で、これを治すには、痩せることが必要だと。

    私、ついさっき測った時は75.3kg、体脂肪21.7%という数値。BMI24.7という、ギリ普通体重と言えるけど、適正体重からは8kg程度痩せないといけないという状況。

    この状況。これですよこれ、私の人生をつまらなくしているのは。

    何がつまらないのか

    好きなものを、好きな時に、好きなだけ食べるって、人生の醍醐味じゃないですか。

    私、割と食べる方で、だからここまで体重が増加してしまったんですが、腹八分目で食事を終えると、なんとなく物足りないのです。もうちょっと食べたい、と思ってしまう。そういう時に、緑茶とかで我慢したりして、お茶を飲んでるうちにどうでも良くなってきて、結局食べないという、私としては涙の出るような努力をしているんです。

    ま、おっさんになってきているから当たり前なことなのでしょうけど。

    同居してる子どもたちは、食べたいものを食べたい時に、食べたいだけ食べていて、羨ましいなぁと感じるわけですよ。

    あぁー俺も回鍋肉でご飯お代わりしてぇ、とかね。食べながら感じるわけです。

    で、追い打ちをかけるような仕打ちが、あすけんに従って適正カロリーから200とか300kcalくらい少ない状態で1日をゴールしているのに、全くと言っていいほど体重には反映されないのです。

    これがものすごくつまらないのです。

    せっかく頑張っているのだから、結果で見せてほしいのだよ!俺の身体!と思ってしまうのです。

    ついさっきもそう。私は起きてすぐトイレに行き、その直後で体重を測るようにしており、昨日は2389kcalの目標に対し1954kcalという実績(435kcalのマイナス)でゴールしたのだから、さすがに痩せるだろ!と思って、そこには「俺だって少なからず頑張ってるんだから、少しくらい期待してもいいだろ!そして結果で見せてくれよ!俺の身体!」という思いが、私の頭のてっぺんから足の爪先までぱんぱんに詰まった状態なのです。

    ところが、結果は、昨日と変わらず75.3kg。

    もうさぁー俺の努力とかさ、マジ、全部無駄じゃん、とか思うわけですよ。

    せめて数百グラムでいいからさ、結果を見せてくれよ!俺の身体!と思ってしまうのです。

    まぁ、口が酸っぱいうちは続けますけどね。多少はさ、結果で見せてほしいですよほんと。

  • インプットが足りてないのかな

    インプットが足りてないのかな

    ここ数日、割と毎日ブログを書いていたものの、今日になってから急に筆が進まなくなりました。
    おそらく、インプットが足りてないからかな、なんて思います。
    私はインプットとして図書館から借りた本とか、Kindleで過去に購入した本などを読み返したりしますが、今日はどんなに過去の資料を読み漁ってもピンとくるものがなく。
    そういう時は、おそらく、インプットが足りてないんだと思います。

    インプットすると、何が良いのか

    インプットインプットと言っていますが、これは「情報を取り入りれる」ということになります。
    かといって適当にインターネットを漁ってみても、そういう、これだ!というものに辿り着かず、時間だけを浪費していて、結局私の身になったかというと、決してそんなことはないんですね。
    いわゆる、心の琴線と言いますか、そういう、私のアンテナに引っかかったものがないと、なかなかそのインプットからアウトプットに持っていくのは難しいように思います。
    そういう時、どうしたらいいか。
    アンテナを低くして、普段の感度よりもいろんなものを吸収しやすくしてみると、良いのかもしれませんけど、そういう時はノイズも入りやすいように感じます。
    そのノイズを、勘違いして「これこそが私の求めていたものだ!」と紐解いてみると、実はそんなことなくて、もともと知っていた知識の二番煎じだったり、そもそも私が吸収すべきものではなかったりと、結果的に時間の無駄で自分の求めていたものではなかったりします。

    ではどうしたらいいのか

    なかなか難しいんですが、私が今まで暮らしてきた中で、ちょっと感じるのは、自分が引っかかりやすい言葉をあらかじめ覚えておくと良いのかもしれません。
    私で言えば、生き方、とか、価値観、とか、事実や解釈、みたいなものは引っかかりやすいです。
    また、趣味で言うと、ランニング、メダカ、盆栽、などと言う感じで、趣味があればあるほど、引っかかりやすいように思います。
    それら全てが引っかかったサイトを全部見にいくのもまた難しいことですので、あらかじめ、そう言うものが投稿されやすいサイトを巡回するようにすると、良いように思います。
    1990年代の頃は、自分のお気に入りサイトをインターネットブラウザのお気に入り登録をして、それを巡回したものです。

    は、結局あの頃と今と、何も変わっていないと言うことなんですかねこれ。
    私は私の生きたいように、生きているだけなんだけど、これはつまり、あのころとそう変わらないということなのではないでしょうか?!