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  • 7月26日 暑い、暑い

    7月26日 暑い、暑い

    今日の出来事

    7時台に起床。早い。昨夜はあまりよく眠れなかった。気温はグッと下がったんだけど、睡魔がやってくるのに時間がかかった。体感的には30分くらいは眠れなかったのではないだろうか、と。
    昨夜、思い立って、薬を飲むのをやめてみた。私の場合、一日二日程度飲み忘れても、急激なダウンっていうことはないので、時折そうしている。なぜ飲むのをやめたのかというと、翌日、つまり今朝、早く起きる必要があったから。
    現在飲んでいる薬のセットは、午前にものすごい眠気を引きずる。だから仕事とかも午前は気持ちが入っていかないことが多い。困っている。先生に言っても、普段の生活で慣れて行けば眠気がなくなるはずと背中を押されているんだけど、もう何年も治りませんよ。そのせいで朝ランもやめた。朝活全般ができていない。最初は仕方ないかな、体調が良くなることを優先するよね、と思っているけれど、もう7年とかになるかな、心療内科で処方されている薬を飲み続けていて、全くもって改善が見られないので、正直なところ、もう嫌気がさしている。
    このブログを読んで、私も心療内科でもらってる薬、飲むのやめようかなと思った方、くれぐれも自己責任でお願いします。
    ってか、心療内科でもらった薬を飲み続ける生活を7年も続けている、って上述したけどさ、ゴールってなんなん?どうなったら薬を飲まなくてもやっていけるわけ?
    全然分からない。
    夜、きちんと眠ることができるんなら良いとか、定量的な指標を作らないと、こりゃ死ぬまで飲み続けるしかないんじゃん、って思ったりしてしまう。
    そんなことないよね、知らんけど。
    これ、まだ試していないのだけど、薬を飲む以前の、朝起きちゃってランニングとかしてた時代に戻りたいと思っていて。薬をやめることで被るリスクは十分に取った状態で、だけど生きていけます、みたいなスタンスで生活を営むことができたら良いんだよなぁ。できるかどうかは分からない。薬を飲むことをやめて、体(というかメンタル)にどう影響するか、試してみないと。っていうか、病院の先生に相談すべきなのでは。いや、減薬は何度も相談してるじゃん、だけどはぐらかされる(っていうのとはまた違う感じだけど)ばかりで、先に進まないじゃん。ってか、飲まなくてもやっていけるのでは?というのは今年入ってから考えるようになっていて、仕事先が変わったため?なのかは分からないけれど、気持ち的に安定しているからか、そう考えるようになったんだよな。行動に移すか。しばらく薬を飲まないで生活してみようか。
    話が脱線した。この頃の私の日記は脱線ばかりだ。
    今日も子供達はイベントづくし。そして私は今日は長男に付き添って、一緒にお出かけ。
    そして今、長男と別行動をし、その間私はここでブログを書いている。
    森がたくさんある場所でのイベントで、私は欅と台湾ふうの子供をゲットした。帰宅したら盆栽に仕立てるつもり。

    新しいノートの話

    ここ数ヶ月、私はAmazonベーシックの、黒い表紙のノートを使っていた。スリムなA5って感じのサイズ感で、紙は割とザラザラしていた。EFの万年筆を使うとガリガリいう感じ。
    私はどちらかというとペンの滑りを優先するタイプなので、このガリガリ系はちょっと苦手だった。ずっとガリガリ。質の悪い紙と言ってしまうとそういうことになるのかもしれないが、手帳用紙には敵わないよなぁと思いながら240ページのノートとともに数ヶ月の人生を旅した。
    そして今度は、EditのA5ノート。いったん、私のホームであるほぼ日領域に戻ろうかと、A5のほぼ日ノートを買おうとしたんだけど、Amazonからおすすめされてちょっと気になったので買ってみた。ページは320ページと、ほぼ日ノートよりも多いボリューム。値段もまぁ、A5で320ページの割に1500円台ってなかなか安いでしょ、という値頃感で、ポチってみた。帰宅することには家に届いてそうな気がする。書いてみての印象はまた改めて書こう。楽しみだ。
    気づいたらだいぶどっぷりと文房具の沼にハマっている気がする。万年筆は、気づけば4本持っている。ノートの質、ペンの滑りにはこだわりたい。手元に手書きできるペンとノートを常に持ち歩きたい。文房具の雑誌をKindle Unlimitedで見つけたら、没頭するように読んでしまう。お金があったらシステム手帳を手に入れてみたい。好きなサイズはバイブル、A5、A6、A7。A6とA7を組み合わせたアイデアをまとめる方法をKindleで出版したい。お店を出すなら文房具屋をやりたい。
    ざっとこんなところか。最初の万年筆を買ったあたりからハマり出している気がする。2018年頃か。もう7年以上も経っているのか。早い。人生はあっという間。

  • 誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
    変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
    だって実際に木が倒れているんだから。
    今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。

    木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
    若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
    その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
    このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
    そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
    倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。

    軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
    だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。

    近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
    木が倒れたという事実。
    それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
    この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
    あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。

    ちょっと視点を変えてみる。

    ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
    間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。

    いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。

  • ブログを毎日続けることの難しさ

    ブログを毎日続けることの難しさ

    今まで何度か、「ブログを毎日書こう」と思っても続かないことがありました。
    何かを始める時、心機一転!と心を入れ替えて始めるのは必ず失敗するので、生活の一部にブログを書くことを明確にしておくべきだなと思います。
    今日みたいな休日はだいたい書けるんですよね。
    難しいのが平日。しかも会社に出社する日。
    会社ではブログを書くことなんてできないし、通勤中は本を読むか映画を見ているので、そんなガチガチに縛られた生活を送っている中で、ブログを書くことをどこかに潜り込ませるなんて至難の業。
    たぶん、私に必要なのは、時間の使い方を考え直すことなのかもしれません。
    てか、その前に、なぜブログを書く必要があるのだろう?ということを考える必要があるのかも。

    なぜ、ブログを毎日書きたいのか

    これたぶん何百回とここのブログでも書いていることなんですが、毎日が慌ただしく過ぎていく中で、忘れてしまいそうなことをきちんと拾って、どこかに残しておきたいというのが、ブログを書きたい理由です。
    そんなん、日記をつけてったらいいじゃん、って話でもあるんですが。
    そうだよな、日記を書いたらいいんだよな。
    ブログに載せる必要なんてあるものか。

    日記を何に書くか

    私は2011年からほぼ日手帳を使っていて、それに日々感じたことなどを書いていたのですが、今年は2011年以来で初めて、ほぼ日手帳を使わない日々を送っています。
    買わなかった理由は、特になくて、使わなかったらどうなるかというのを試したかったからなのかも知れません。
    書いてもあまり見返さないし、それなら100円ショップのノートでも良いんじゃん、と思ったりもしています。

    書くとか書かないとか、そういうのってどうでも良いんですよね。
    書きたい時に書けばいいんだし。書きたくないんだったら、それはそれで、と。

    大切なのは、自分の心をヘルシーな状態に保つこと

    ブログも日記も、自分が考えていることを表面化させる作業です。
    それは、心が「何か書きたい」と思っているからで、私の場合は大抵、自分の中でモヤモヤしていることがあるとか、一日が一瞬で過ぎてしまって、自分の気持ちを置き去りにしているからとか、そんなもんです。
    モヤモヤしていることは書き出せば良くて、それはブログでも日記でも良いんですけど、モヤモヤしていることを書いたとて、気持ちが整理されるかということはまた別の問題な気がします。
    書くことで、自分の考えを目で読み、再認識するという行為が、気持ちを整理するにはとても大切だとなにかの本で読みました。

  • 過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過ぎてしまったことをいつまでもクヨクヨするのって思考プロセスのバグなんですかね。
    「過去と他人は変えられないんだよ、だから自分の中で変えられる未来にだけフォーカスしよう」という言葉と出会ってからは、過去、やってしまった過ちをいつまでも掘り起こしてウダウダしそうになったら、そこで思考をストップして、違うことを考えるようになりました。

    性格というか自分の考え方のクセってなかなか変わらない

    性格ってなかなか変わらないよな、と思う一方、こういう思考プロセスってクセみたいなものなので、訓練でどうにでもなるんですね。そういうのに気づくまでに、数十年もかかってしまいました。つい、最近気づいたと言っても過言ではないような。反応しない練習とか、禅的思考みたいなものを読んでいるうちに気づいたというか。思考なんてものはほとんど無意識の段階で動かしているものだから、「自分がそう思い込んでいること」に対して気付けないのが普通なのかなと思います。普通なんだけど、例えば、自分がクヨクヨしてしまいがちな性格の人は、他人から言われたことに対して「それを真正面から受け止め」、「適正な受け取り方を超えて過剰に反応して」しまい、そしてクヨクヨしてしまう。真正面から受け止めるところを、少し斜に構えた状態で受け止めるとか、そういう考え方を変えてみるってのが重要なんだよな、と思いました。

    最近あったこと

    最近、私の心を揺さぶるような事件(と書いてしまうと大袈裟で、そこまでデカい話ではない)が起き、それは私の仕事上起こった失敗のようなものなんですが、自分でなんとかできたかもしれないけれど、結果的に失敗してしまった、と。それが起こった時から、引きずっています。最近、仕事で失敗ってしなかったから、久しぶりの状況に動揺している感じで。大切なのってその後のリカバリーだから、早いとこ忘れて(根っこだけは覚えておく感覚)、次に向けて頑張ろう!と自分に気合いを入れるべきなんでしょうけど。まだもうちょっとクヨクヨしたい感じで、それがなぜかは分からず、そんなのに引きずってもなんの意味もなく、気持ちを切り替えて前に進めていくべきなのにな、という状態で。浸りたい、と言うのは果たしてなんの目的があって、そうしたいと思っているのか。誰がどう考えても、切り替えて前に進むべき、それは間違いのないことなんだと思います。
    そうだよな。書きながら、考えを変えました。つまらぬものにクヨクヨしていてもしょうがないだろ、と。

  • 6月26日 嗅ぎタバコ VELOのサンプルをいただきました

    6月26日 嗅ぎタバコ VELOのサンプルをいただきました

    先日、自分宛に届いたメールをぼーっと見ていたら、普段愛用しているgloを販売しているBATから、嗅ぎタバコについての新しい提案が届いていました。
    一瞬迷ったんですが、ものは試しと、サンプル配布プロジェクトに応募してみました。
    そこから3日くらいでサンプルが届きました。

    ワクワクしながら開けたのがこれ。

    VELO サンプル

    簡単な紹介パンフレットと、本体が入ったものが届きました。
    紙タバコから加熱式タバコに移行した時も割とドキドキだったんですが、これもまた同じような、期待と不安の籠った気分を抱きながら、中身を開けてみるとこんな感じでした。

    VELOサンプルの中身

    なんだか怪しい粉のような雰囲気。
    もちろんちゃんとしたやつなので、恐る恐る下唇と歯茎の間に挟んでみると、最初結構強めなピリピリが下顎を襲いましたが数分経ったあたりで収まり、唾液の味がだんだんこの味になってくるのがわかりました。
    慣れれば、これを口に入れたまま喋ることも難しくないように感じます。
    これでタバコ吸ってる感覚になるのかなぁと思いつつ、今、それを口に含んだままこのブログを書いています。

    なんだか飴みたいな感覚ですね。
    ニコチンが体を駆け巡っているかは良くわかりません。
    私は加熱式タバコを1日に4本くらい吸う程度のユーザーなので、あまり、強くニコチンを求める人間ではないというのも関係しているのかもしれません。
    これを買い続けるか?については、うーん、今のところあまりそっち側には気持ちが傾かないような気がします。
    私には、タバコは煙を出してナンボ、みたいなところがあるのかもしれません。

    また、この嗅ぎタバコというジャンルの健康被害について。
    これは他の一般的な紙タバコや加熱式タバコを吸っている人にとってみたら、これも大差ないように感じます。
    パンフレットには有害物質を99%削減!と書いてあり、それは確か加熱式タバコも同じくらいだったと記憶しているので、そう考えたら大差ないのかな、と。

    とりあえずこの15個を全部使ってみて、気が向いたらその時点での気持ちみたいなものをまたここで投稿してみたいと思います。

  • 2月26日 筋トレはじめました

    2月26日 筋トレはじめました

    ここ2年くらいで10kgくらい太ってしまい、去年受けた健康診断ではメタボ判定を受けてしまいました。ぼちぼちランニングとかしてるんですけど、それだけじゃ全く痩せなくて、困っていました。このままでは健康にも良くないし、自信もなくなる一方で。

    もともと65kgくらいで、自分の中では理想の体型をしてたんですけどね。スリムな方が好きみたいです。だけどそこから10kgくらいの増量。原因は簡単で、暴飲暴食+運動不足。ちょうど心療内科に通い出した頃なんすよね。精神的な部分もあって、食べることや飲むことで自分を慰めていたのかもしれません。

    会社の同僚(彼は筋トレマニア)とそんなことを話していると、彼は開口一番、それは私の基礎代謝量が少ないから(=筋肉が足りてないから)だと言うのです。私は驚きました。だってランニングとかだって10kmとか15kmくらいなら走れるし、十分に筋力が足りてるんじゃないかと。だけどそう言うことじゃないみたいです。彼の言う通り、ただ単に運動するだけではなく、筋力をつけることが重要なのかもしれません。

    彼はむしろ有酸素をほとんどやらないようで、それでもいい感じの体脂肪率をキープできているのだとか。そりゃすげぇ!ということで、ここ2週間くらい、筋トレに目覚めました。まだ全然筋肉が増強されている印象はないのですけれど、3ヶ月くらいやっていくと何となくそんなふうに見えてくるというので、やってみようと思います。何か目標を持たなきゃね、ということで、とりあえず体脂肪率17%を目標に頑張ってみようと思います。これからは食事の改善や、定期的なトレーニングを続けて、健康的な体型を目指していきたいと思います。これからの日々が楽しみです。

    Photo by Gelgas Airlangga on Pexels.com

    筋トレを始めてみると、徐々に身体が変化していく喜びを感じます。最初は少し辛いかもしれませんが、続けるうちに新たな自分に出会えるでしょう。また、他のトレーニングと組み合わせることで効果を高めることもできます。自分の成長を実感できることが、モチベーションの維持にもつながります。体脂肪率の目標達成や健康的な生活習慣の確立に向けて、筋トレを取り入れることは大きな一歩です。自分の目標を明確にし、継続的な努力を続けていきましょう。きっと素晴らしい結果が待っているはずです。

  • 12月26日 役割の話

    12月26日 役割の話

    電車の中で、今日起きたことを思い返す。内省というほど立派なものではないが、事実として起こったことに対して私がどう考えたかを、ゆっくりと思い返すようになったのはいつからだっただろう。

    2023年が終わっていく。すでに多くの人が休みに入っている中、私は誰とも話す予定がないのに出社する。この、出社というものはコロナ禍によって考え方が大きく変わった。自宅で働くことを覚えてしまった人間は、出社することの意味が分からなくなってしまったのだ。私もその「多数」から溢れることなく、出社の頻度を増やすようになってからもその意味を思い出すことができない。

    コロナ以前は、出社することが当たり前だったのだ。その、「当たり前」という感覚を忘れてしまった人はいったいどうやって思い出すことができるんだろう。

    違う例で考えてみる。自転車に乗ること。感覚で覚えてしまったから、手足のバランスとか、どのタイミングで足に力を入れるとか、言葉で説明するのが難しい。だけど、自転車は乗れる。

    出社はそれと同じことなのかもしれない。こうして通勤している時間があれば、自宅で仕事ができるのではないか、と言ったような思いを拭う術を思いつくことができないのだ。

    その根底にはきっと、「出社するなんて無意味だ」という思いがある。一方、私たち「多数」を雇う経営者側には、「出社してコミュニケーションを活性化し、仕事の生産性を上げたい」という思いがあるはずだ。その両者が持つ思いが一体化しない限り、この乖離を埋めることなんてできないだろう。

    いくつかの大きな川を越える。その、それぞれの縁には見知らぬ家がいくつも建っていて、私の知らないところで生活を営んでいる人間がいる。

    その、見知らぬ人間の生活を思いながら、私は自宅へと帰路を進める。

    そこで、ふっと、あることに気づく。

    自宅へ向かう帰路の最中、私の心の中には帰宅して「会社の中の人間」から「自宅で過ごす人間」と役割を変えていく心の準備を行なっているのではないか。

    「会社の中の人間」のまま、「自宅で過ごす人間」の役を演じることは難しい。一人称だって「私」から「俺」、もしくは「お父さん」になるのだから、他者は混乱してしまうだろう。

    その、彼らを混乱させないように私は、心の準備を、通勤という時間の中で行なっているのではないだろうか。

  • 9月26日 悪い思い出のこと

    9月26日 悪い思い出のこと

    自分の言葉で今日を振り返るのは、とても良い効果が得られると思う。
    まず、自分の記憶力を向上させることができる。
    今日、何があったかなー、どんなことしたっけか、と振り返ることで、自分の記憶の引き出しにしまわれたそれを取り出すことになるから。

    記憶は、人間にとって有用なものだろう。
    悪い記憶は時として、自分を攻撃することになるのだけれど、そこから何かを学ぶことは自分を成長させる大きな力となるだろう。
    そう考えると、悪い記憶、悪い思い出も一概に悪者だとは言えないような気がする。

    私は今までどのくらい、悪い思い出を積んできたのだろうか。
    なんかこういう系の日記を最近書いた気がする。
    過去と和解するための哲学と言う本を読んだことがあるんだけど、
    それって過去を赦すことにつながるのではないだろうか。

  • 7月26日 恋愛小説はもう描けない

    7月26日 恋愛小説はもう描けない

    自分にはもう、恋愛ものの小説は描けないと思う。なんというか、自分自身にそっち側の気持ちが湧いてこない感覚があって。図書館でそれ系の本を、いわゆるロマンス系?を借りようという気持ちも、全然湧いてこない。抗うつ剤を飲み始めてからかな?だいたいそのくらいから。

    とは言えエンタメ的にはその方面が好まれるのは分かっていて、受けを狙うのであれば書くべきなんだろうけれど、そっち側のことを考えようとしても全然頭が働かなくて。ある程度テーマを絞って描きやすく環境を整えても、筆の進みが悪い。というか進まない。

    これが40代男性における性欲の減退だと言うならば、ほんと人間の本能に対して素直すぎるだろ、と思ってしまう。

    では、私はどんなテーマで描きたいのだろうと、しばし考えてみる。すると、私は人間の生死や、出会いと別れ(恋愛とは関係のないもの)を描きたいのだと、思い至る。

    本当に描きたいものを考えているとき、私は幸せだと感じる。もくもくと頭の中から白い雲が頭上に湧き出て、その中には私が産んだキャラクターが、初めはぼんやりとしているのだけれど、時間が経つにつれて輪郭が強調されてくるのをイメージする。

    彼らに囲まれている時、幸せなんだなぁと思う。そして普通に仕事している時に、描きたいものが浮かんでくると仕事の手を止め、しばし彼らと戯れる。

  • 6月26日 自分が期待すること=自分が不幸であること

    6月26日 自分が期待すること=自分が不幸であること

    今日は仕事終わりに10kmラン。
    昨日も書いた、自分の親友になってみるというコンセプトを考えながら走った。
    暑くて、途中何度か歩きかけたけど、目標としてた10kmを走ることができてよかった。

    自分をポジティブマインドでいっぱいにすると、自分に優しくなれる気がする。
    全部を肯定する。私が生きていることは、恵まれていることなんだって思えるようになってくる。
    今まで、自分は生きててもつまらない、みたいな路線で考えることが多かったけれど、それはつまらない理由をわざわざ見つけて、不幸に染まる人生を楽しんでいたのかもしれない。
    自分が期待すること=自分が不幸であること、というのは生きていく上で不要だったのだろう。
    だけど、一方で、そういうネガティブな気持ちを否定するのもちょっと抵抗がある。
    私が産んだ感情は、全てを受け入れるべきというならば、そういうネガティブな感情も全て受け入れるべきだから、と考える。
    別に不幸になりたいわけじゃないんだけどね。それを卑屈と呼ぶならば、私はその卑屈とも友達になるべきなんじゃないかって思う。

    たぶん、まだ、ポジティブマインドで染めるには発展途上なんだろう。
    そうやってネガティブマインドにも優しくすべきと思っている時点で、私は幸せになる資格なんてないのかもしれない。という感じで、迷っている。