サトは大きく息を吐いた。そうすると、自動的に空気が身体に取り込まれるのが面白くて、何度か同じ動作を繰り返した。
届かない恋というのは面白いもので、そのおかげで人生が豊かになったような気がした。豊かというのは、サトの感覚で言うといろいろな感情が生まれるということ。好きな人がいるんだけど、彼に惹かれていじらしい想いをしたこと。恋に焦がれるというやつだ。舌でそっと上顎を撫でる。ざらざら、ごつごつした上顎は、今までいくつの食物が通り抜けていったんだろう。
北脇くんという、3つ隣のクラスにいる彼とは、ちょっと前に学校の購買前で見かけた。陽キャとは正反対の、重たい前髪、分厚く、地味なメガネを装った彼は、誰にも見つからないようにそっとパンを買いに来たのか、というほどに存在感がなかった。
彼の何に惹かれたのだろう。具体的には分からないのだけれど、一つ言えるのは、サトも北脇くんと同じようなメガネをかけて、そして陽キャとは正反対の人種ということだ。共通点が多い、とサトは考えたのかもしれない。上履きの中に小石が入っているのに気づいたサトは、誰も見ていないことが明らかな2時間目の休み時間に、そっと音を立てずに上履きを脱ぎ、履いている方を反対にして小石と思われるものを落とす。少し振ると、黒っぽい、小さな物体が下に落ちるのが見えた、ような気がした。
こんな小さなことでも、北脇くんだったら聞いてくれそうな気がするとサトは考える。休み時間は何をしているんだろう。3つ隣の、3年5組にいると知った時は嬉しかった。まるで宝物の場所を見つけた時のような気分だった。そこから数日しか経っていないんだけれど、北脇くんのことをもっと知りたい、と思うようになった。
こういう時って行動に移したほうが良いんだろうか、とサトは考えた。サトにはこれが初恋とも言えるようなほどの、心を揺さぶられるイベントであった。だから、残念というべきか、サトには経験がないからどうやってアプローチしたら良いのか、全く分からなかった。最初に思い浮かんだのはラブレターだった。この、スマホを一人一台持つ時代に、あえての手紙。そんな演出はただただ気持ち悪いだけだ、とサトはそのアイデアを切り捨てた。それ以外のアイデアが思いつかないサトは、3時間目へと入った。
こういう時に、相談に乗ってくれる友達とかいたらなー、と空想みたいなことをサトは考えた。これもまた残念なのだけれど、サトにはそういうことを気軽に喋ることのできる友達がいないのだった。一緒にお弁当を食べてくれる太田さんという人はいるのだけれど、彼女もサトと同様に、恋というイベントに対して経験は少なそうな感じがしたのだ。だから相談するだけ無駄かな、ごめんね太田さん、とサキは考えた。そんなことを考えていたら先生に指され、サトは話を聞いていなかったことが露呈し恥をかいた。
何事も進展がなく、一週間が過ぎた。これが恋愛小説だったらつまらないだろうな、私だったらここで読むのを止めるな、とサトは考えた。そこでアイデアが天から舞い降りてくるのを、サトは感じた。そうだ、図書館に行ってそういう本を借りたらいいんじゃないか、とサトは思いついたのだ。図書館なんて小学校の時にやった読書感想文の本を借りた時以来だ、まず図書館のカードがどこにあるかを探さなければいけないな、とサトは考えた。そして、いや待てよ、とサト。借りなくても、図書館で読めばいいんじゃん、と思いつく。週末の予定が決まった。私の恋愛小説を読んでくれている読者のためにも、私のこの初恋を先に進めなければいけない、と誰も読んでいないことを想定していないサトは、訳のわからない自意識の下、週末に図書館へと挑む。
ここで北脇くんも図書館に来ていたら、恋愛小説としては急展開なんだけどな、とサトは考えたが、そもそも北脇くんが私と同じ市内に住んでいるかどうかわからないんだった。私の高校は4つくらいの市から生徒が通っているから、北脇くんはきっと違う市に住んでいるのだろう、とサトは勝手に解釈した。
そもそも本を読まないサトは、この膨大な本の中でどんな風にお目当ての本を見つければ良いか全く分からなかった。恋愛のお手本?それは小説なのだろうか、それとも自己啓発みたいなタイプの本なのだろうか、それすらも分からなかった。恋愛小説の女王みたいな触れ込みの小説家とかいたよなー、誰だっけ、といつだかやっていた王様のブランチみたいな番組の内容を思い出そうとしていたが、残念ながらそれ以上の情報がサトの脳内には存在せず、すぐさま空中に飛び散った。
ところが、ところがである。図書館に北脇くんと良く似た人がいるではないか。何やら分厚い本を脇の下に抱え、自習できそうなエリアへと向かっている姿が見えた。あれは本当に北脇くんだろうか、横顔、それもほぼ後ろに違い角度でしか顔を見ることがなかったから、あまり自分の目が信用できないサトは、北脇くんにはバレずに、顔を確認することができる場所を探すことにした。
これでは何をしに来たのか分からないではないか、と読者は考えるだろうな、とサトはぼんやり考えた。読者のことなんて忘れてしまえ、と私は思わずにいられない。こうなったらサトのことを応援するしかなかろう、と読者は考えるに違いない、とサトは考え、自分勝手だな私って、ふふ、と一人でニヤついていたら、北脇くんみたいな人が大きなテーブルにある椅子を引き、そこに座った。
驚く事に、北脇くんの隣には同い年くらいの女性が座っているではないか。北脇くんが見つけてきた本を二人で眺めながら、何か小さな声で喋っているのが窺い知れた。
終わったな。まだ、始まってもいない私の初恋は、ここで散ってしまうのか、そう考えたサトは、本来の目的である恋愛にまつわる本を探すことなく、図書館を後にした。そういえば私が小学校だった頃に来た図書館って入り口で靴を脱いで、自分で持ってきた上履きを履いたような、とぼんやり考えたサトは、ついでに、その上履きにも、小さな小石が入っててすごく気持ち悪いことを思い出したのだった。
カテゴリー: 小説
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10月4日 (小説)サトの初恋
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8月7日 パパ活と、囚人のジレンマ
隣の席にいる二人の会話は続く。
「信じられる?同じチームのタトさん、パパ活してるんだってさー。そんなことを堂々と言っちゃうあたりがもう信じられない。まぁ、元々信用してなかったんだけど」
「タトさんかー。パパになってるってことでしょ?それ言っちゃってるんだ?うわぁ。デリカシーがないというべきか。それ、結局アレなんでしょー、俺は女ひとりを囲っておけるほどの経済力を持っているんだ、っていうのと、性欲をそこで満たしていますっていうアピール?みたいなのを周りにひけらかしてるんでしょ?キモいわー」
「そうそう、そういうとこなんだよね。元々信用してなかったっていうのはその通りなんだけど、ノリさんが本当にパパ活してるなら、それはそれで経済力があるってことだし、本当に女性を囲ってるんだったら、人間的魅力もあるってことなんじゃない?ただ、それを堂々と言うことこそが問題なんだよ。人に言うってことは、どこかで自己満足の一部で、自分を高めるために他人を利用しているんじゃないの?それって、信用できる行為だと思えないんだよね」
「あー、それは確かにそうだよね。自分の行為を正当化するために他人を利用するって、なんかえぐいよね。それって、逆に信用を失う原因にもなるんじゃない?」
「そう、それがノリさんの大きな問題だよ。自分の行為を肯定するために他人を利用するなんて、そんなの長くは続かないよ。それに、そういう人には信用がないんだよね」
「分かる。なんかさ、そのノリさんの話、何だかあの有名なゲーム理論、囚人のジレンマを思い出させるんだよね」
「囚人のジレンマ?」
「簡単に言うと、それぞれが自分の利益を最大化しようとがんばった結果、全体として利益を損なう、みたいな。ノリさんのパパ活公言もそんな感じに思えるんだよね。彼は自分のステータスを示すためにそれを公言してるけど、結局その結果として俺たちからの信用を失ってる。それって、ちょっと囚人のジレンマに似てると思わない?」
「なるほど。面白い。確かにノリさんの行動は、自分だけの利益を追求する結果として、結局は全体の評価を下げてしまってるかもしれない。その観点から見れば、囚人のジレンマに似てると言えるかもね。だとしてもさ、なんで俺らがそういう風に、彼への評価を下げちゃうんだぜ、って考えつかないんだろうね。不思議だわ」 -

5月2日 キーホルダー
階段を昇っていくと、ちょうど電車が停車しているのが見えた。
乗れるのなら乗りたい、と思ったがたまたま、私の前に歩いていた人のリュックについていたキーホルダーが目に入り、そして私は階段でつまづいた。
電車は行ってしまった。
周りに見られているような気がするのがとても気恥ずかしく、私は「こんなこと、へっちゃらですよ、日常茶飯事ですよ」という、なんてことない素振りをし、気を取り直して残りの階段を昇る。「運動不足なんだよお前。なんか運動とかしてんの?」
お昼に、職場のけいちゃん先輩に、朝かっこ悪いことしちゃいました、と打ち明けたら、そんなことを言われた。運動って。どこまでが運動という範囲なのか分からないけれど、週末はサッカーチームを応援している、くらいかな。めっちゃジャンプして。大声出して。
それ、結構な運動になると思うんすよねー、と語尾を伸ばして同意を求める。
けいちゃん先輩は、意味わかんね、と私の意見をすぱっと切った。私の意見が、宙を舞うのが分かる。その日を境に、けいちゃん先輩は会社に来なくなった。
というか、無断で欠勤しているという噂がまことしやかに流れ、一番仲良かったの誰だっけ?と課長からの問いかけに、みんななんとなく私の方を見て、それを察した課長が、最後の日に一緒にお昼ご飯を食べたということでサキ、お前、連絡先とか知ってるのか、ちょっと会社の金使ってでもいいから丸山(けいちゃんは丸山という苗字だった)に会ってきてくれないか、と言われた。
私からの問いかけに、けいちゃん先輩が応えてくれるかどうか分からないので、まずLINE打ってみてからにさせてください、と線を引いた。
正直めんどくさかったから、返事なんて来ないほうが嬉しいと思っていたのだけれど、けいちゃん先輩に打ったメッセージはすぐに既読マークがついた。このまま返事来なくても良いんだけどな、と思っている矢先、
なんだよお前、急にどうした?
と返事が来た。
私は、課長に返事が来たことを報告しなかった。
既読にもならないですねー、と語尾を少し伸ばしつつ、あ、ちょっとトイレに、と言って席を立った。
どうしたじゃないですよー!3日も会社を無断で休むなんて!逆にどうしたんですか?!
と、私にしては珍しくびっくりマークを多発させたメッセージを送信した。この間わずか22秒。その後、私は腹痛を訴え、仕事を早めに上がらせてもらった。
「家のドアの開け方がわからなくなってさ」というけいちゃん先輩からの返事に、ただならぬ空気を感じたから。家がどの辺かは分からないけれど、最寄り駅なら分かる。まずそこまで行って、慶ちゃん先輩の様子を(会社に知らせる前に)きちんと把握しておきたかったから。
私はただの、仕事の後輩であり、恋人関係にあるとか、そういう類のものではない、けれど、課長に指名されたってのも、あの日一緒にお昼を食べたってのもあって、変な使命感に突き動かされているような、死ぬためにセリヌンティウスの元に走るメロスのような感覚を持っていた。
「ゆめみどう」という、広告。夢見堂なのか、夢御堂なのか、とぼんやり考えているうちに、けいちゃん先輩の住む街の駅に着く。ドアが開く。改札に向かう階段を昇り始めようとした時、私の前を歩いていた人のキーホルダーが目について、私はまたころ、びそうになるのをギリギリのところで回避した。けいちゃん先輩に、今度は転びませんでしたよ、と報告しよう、と心のノートに書き留めた。 -

昔から変わってない
学級委員に選ばれるような人間だった自分、
なぜそんな風に見られていたのかと考えてみたのだけれど
多分、落ち着いて見えるからなのだと思う。
Pixabay at Pexels 落ち着いているのではない。
自分の中でたくさんの葛藤が生まれていたし、みんなと同じように喜怒哀楽、様々な感情を抱いていた。条件反射的に動くことがあまり得意ではなかった当時、それができるような人間、例えば体育がめっちゃ得意な人、給食をめっちゃ早く食べられる人、彼らを羨んでいた。
それらが、私にはできなかったから。そうだ、私にはできないことがたくさんあったんだ。
できる、できないというのが「人より優れている、優れていない」という観点で見ていたので、自分をだいぶ蔑んで見ていたように思う。人よりできるものなんて、今だってそうだけど、何一つない。
目立たない私。どこにでもいるような、静かな、人間。あ、けど、人の話を聞くという点では、もしかしたら人より優れていたかもしれない。
当時の、クラスメイトよりも。
まぁ、人の話を聞いたからって、その人が持つ悩みを解決できたのかというと、そこは疑問ですけどね。そういう問題ではないだろ。私が学級委員に選ばれていたのは、その、人の話を聞くという点だったのかもしれない。
そして私を推してくれた人たちは、私のそういうところを評価していたのかもしれない。こういう根本にあるようなものってさ、年月を経ても変わることないよなぁ。
35年前から何ひとつ変わっていない気がする、私のコアにあるものたちは。 -

親愛なる隣人
すぐに身体を求めてくるその思考。
男って本当にどうしようもない生き物だ。
一度、それを断ったらあからさまに態度を変えた男がいた。名前なんてすぐに忘れたけど。私の身体は汚れているのかもしれない。
私は、何かに縋りながら生きていかねばならぬと気付き、それが、私を求めてくる男という存在だと気づいたのに、そう長く時間はかからなかった。
承認欲求。私で果て、そんな人間の腕に絡まりながら、自然と意識を混濁させていく時に、私は絶頂することが多かった。そんな私の生理反応に気づき、驚く男が何人もいた。人は生まれながらに罪を背負う、と語った昔の神は、なぜか人間の形をしていたという。
人間は、神になり得るのか。神は、精霊ではないのか。
天井を見ながらそんなことを考えていたら、右手の指先が猛烈な熱さを感じ、タバコを吸っていたことを忘れた。灰をなるべく落とさずに、静かに静かに灰皿へと移動させ、結局灰皿の直前でそのミッションは失敗した。自分の体液が付着するティッシュでそれを拭き取る。ティッシュはこの世のものとは思えないような、濃淡の鮮やかなグレースケールを身に纏い、すぐにゴミ箱へと捨てられた。起きたら男はいなかった。私の部屋へ男を呼んでしまうことに躊躇がなくなったのは、なにかを捨てたからだろうか。警戒心かな、羞恥心かな、一瞬考えたが私の気持ちをカテゴライズすることになんの喜びを見出すこともできなかったから、その問いも一緒に、グレースケールのティッシュに包んで捨てるフリをした。飲みかけのストロングチューハイを一口飲んだ。
スマホを見たらマホトからのLINE。マホト、誰だっけ、と思ったけど昨夜ここに泊まった男ではないことは確かだ。
「会いたいんだけど」それだけ。どうせこいつも、私の身体が目的なんだろう。
私はそれを無視した。もうそんなヤツ忘れた。私はバイトに行かなければいけない。完全に寝坊している。シャワーをキャンセルすることでなんとか間に合う時間だ。ユニットバスの中にある洗面台へと向かう。そうだ私、昨夜男と一緒にシャワーを浴びたんだった。忘れていた。記憶なんて、快活に生きるための足枷にしかならないのだから、覚えていたって無駄なのだ。だけどシャワーを浴びたという事実は、シャワーカーテンに残る水滴によって思い起こされた。昨夜の男は、私の身体を触りたがった。バスタブの端に、チューハイが2本。どちらも中途半端に残っていた。私はその残りをバスタブに流す。はぁ、とため息を吐く。鏡を見る。メイクが中途半端に残っていた。それを落とし、最低限のラインを取り戻す。髪を適当に濡らし、乾かし、セットする。とりあえず外に出られる状態になった。首筋にキスマークが残っていた。舌打ちをしながら絆創膏を貼る。今日こそは普通に帰宅して、明日に備えよう。
軽やかに生きる10のヒントという本が本棚に立てかけてあり、バイト中、ちらっと表紙だけを見た。前書きに書いてあった文章が、やけに印象的だった。バイト仲間の太田に、夜なにしてんの?と聞くと、太田は「主にゲーム」と応えた。
今日のコンビニは暇だった。太田と二人、品出しを終え、夕方の盛況に備える準備を終え、二人でレジに立っている時に聞いたのだった。
太田は、きっと彼女とかいたこと無いのだろう。実家暮らし、と以前聞いたことがあった。
こういう人間と付き合えば、普通に帰宅して、明日に備えよう、という人生を過ごすことができるのだろうか。
主にゲーム、って、さ、生きてて楽しいの?と素直に聞くと、
そうすねー、と前置きしたあとで、エミさんとは感覚が違うだろうから分からないですけど、僕は僕なりに楽しいと思ってますけどね、と太田。
そりゃそうだ、私は太田じゃないんだから。ていうか、なんでエミって名前で呼ぶんだコイツは。どうでもいいけど。だけど、しかし、太田の返答はやんわりと私の心へと浸透していった。
私は、私が楽しいと思ってやってきたことの積み重ねで今が在るはずで、それが今の荒んだ生活を生んでいるのだとすれば、そしてそれが「あまり良くないもの」と私自身が認識すればなお、改善する余地があるのだろう。
フリーター、バイト終わりにいったん帰宅、からの数軒を重ねる居酒屋、そして適当に声をかけてきた男と寝る。起きたら昼。またバイト。
これはこれで楽しいのだ、楽しいと思っていたのだ。何か、罪悪感が?私に?そんな気持ちは今日、バイト前に例のティッシュに包んで捨ててきたではないか。忘れよう。そんなことは忘れよう。日々、快活に生きるための邪魔でしかない。
コンビニは午後のピークを越え、20時になりバイトが終わった。
太田と同じ時間に終わる。彼はいつもどおり、そそくさと退勤処理、着替えを終え帰ろうとする。
ねぇ太田、一緒に飲みに行こうよ。
彼は一瞬だけ驚いた顔を浮かべ、いや、遠慮しときます、ゲームがあるので、と応えた。 -

ほろ苦いビールの味
大好きだった彼と別れた。
突然のことで、未だに頭が混乱したままだ。
ただ、他に好きな人ができたという言葉だけを残して、彼はいなくなってしまった。私が彼を繋ぎ止めておけるようなものは何も残っていなかった。
いつも私が追いかけてばかりで、「付き合っていた」という事実は、
実は、私が勝手に思い描いていた解釈で、本当は、
私がずっと片思いをしていただけなのかもしれない。
遊ばれていた?
と友人は今だからこそそう言うけど、私にとっては
そんなことはどうだって良かった。
もうお前とは会わない、と言われた時点で、
遊ばれていたとか、本気だったとか、そういう次元の話は
本当に、どうだって良くなってしまったのだ。彼は早足で歩く人で、私はいつも後ろ姿を追いかけていた。
いくつもの季節を一緒に通り過ぎ、最後まで早足のまま、
見えなくなってしまった。彼は、ビールをとてもおいしそうに飲む人だった。
一度彼の家で食事をした時、
途中のコンビニでビールを買い、彼の家で食事をした時、
苦いお酒は苦手、というと私の分まで飲んでくれた。
私は一緒に買っておいた、アルコール度数の低いチューハイを飲んだ。
それでも私は顔が真っ赤になり、とても恥ずかしかった。「大丈夫、女はすぐ忘れちゃうのよ、この泡みたいに」
涙でぐしゃぐしゃになった私を、ビールを飲みながら友人は慰めてくれた。
そうかなぁ、と私もビールを飲んだら、その苦さに彼を思い出し、
顔が涙でぐしゃぐしゃになり、 また友人を困らせてしまった。
友人には何度この相談をしたのだろう。
付き合っている時にも、幾度となく「遊ばれているのかもしれない」と言った類の相談をしていたのを、今では痛々しく感じてしまう。
私、本当は、遊ばれていたの、分かってたんだね、と言うと、
彼女は、ふっと笑い、私のビールを奪い、一気に飲み干した。
喉が、ゴクッ、ゴクッ、とビールを胃に落としていくのがありありと見えた。彼と歩く散歩道の空気、足音、公園のブランコ、都電が走る音。
みんな大好きだった。そして、彼のことも。
ほろ苦い味がする思い出は、ビールの泡みたいに消えてなくなるだろうけれど、きっと、それで良かったのだ。
彼のことをだんだん忘れていかないと、私は新たな恋への一歩を踏み出す事ができないはずだから。 -

雨が好きな人だっている
毎年、決まった時期に桜が咲くのだと思っていた。
だいたいいつも、入学式が行われる頃。
だけど今年は、それよりも早い、卒業式が行われる頃に、満開を迎えた。死んだ母は、この季節が大好きだった。
風に舞う桜吹雪を見ていると、なんだか嬉しくなるの、と口癖のように言っていた母は、土砂降りの中、横断歩道を渡っている時、母に気づかなかった車に轢かれた。
当時のことはすっぽりと記憶から抜けていて、私はその頃、どういう心持ちで過ごしたのか、まったく思い出せない。
母の代わりに家庭を保全してくれた叔母が、母と似ていたので、彼女のことを見る度に涙ぐんでしまい、非常に困らせたと、後になって聞いた。そのことがあってから私は、雨が嫌いだった。
いや、もともと、着ていた洋服が濡れるから、私は嫌いだったのだ。
長靴がなかなか脱げないところも、脱いだ足が湿っていて、とても不快になったところだって、全部嫌いだったのだ。
やがて大人になり、営業として外回りをすることが主な仕事になってからも、やはり今までと同様に数少ないスーツが濡れるから、という理由で雨が好きになれなかった。雨なんて。誰のことも幸せにできない。
これは私の信念だった。
母の大好きな桜を散らすのだって、いつも雨のせいなんだから。母は、雨のことが嫌いだっただろうか。
母はあの日、傘を忘れて塾に行った私の弟がかわいそうだからと言って、弟の傘を持って家から出たのだった。
母はいつもそうやって、自分の身を犠牲にして、家族や周りの人を助けてきたのだった。
優しい人だったんだ。
それに比べて私は、雨ごときでこんなにイライラしてしまう、心の小さな女になってしまった。
せめて母のような優しさを、私も持てれば良かったのに。
私が、母の代わりに弟を迎えに行けば、もしかしたら私が母の代わりに。
天から降ってくる雨は、私が涙を流すよりも早く、そして強く、雨足を強めた。母はこんな私を見て、いったいどう感じるのだろう。
こんなわがままで、周りのことを気遣うことのできない娘を、きっとがっかりした目で見るのだろうな。帰宅途中、最寄駅に着いてからも、相変わらず雨はザーザーと強く降っていた。
傘を忘れた私は、もうどんなに濡れたってかまわない、という心境で、駅舎から自宅に向かって歩き出した。
シャツも、スーツも、ストッキングもパンプスも、ぜーんぶびしょびしょだ。
私の心だって、それらと同じように濡れていた。
ぷ、っと膨れ面を浮かべながら、青が点滅した横断歩道を待っていると、道路の向こうに母が見えた。
傘を差して、手元にはもう一本の傘を持ち、待っていた。
そんな訳ない。この世に、母は、もういないのだから。
私は彼女の元に少しでも早く近寄りたくて、歩行者用信号が青になるのを待った。
待ちくたびれるほど待った。いつもはスマホを見ながら、青になるのをぼんやり待っていたこの信号だったが、スマホを見ている間に母がいなくならないように、少しでも母の姿を見続けられるように、雨の中、傘を差さずに母の事を見つめた。青になる少し前、トラックが通り過ぎ、母はトラックに吸い込まれるようにいなくなってしまった。青になったら一目散に駆け出し、母の胸元に飛び込みたかったのに。
私は、母に抱かれたかった。最後、母の持っていた傘を受け取りたかった。
しかし、さっきまで私が見ていたのはきっと思い出で、妄想で、だから母の持っていた傘を受け取ることはできなかったのだ。だけど一瞬だけ、奇跡が起きた。
ぶわっと強い横風が吹き、横断歩道の横にずらーっと植えてあった桜の花びらが、一斉に舞った。無数の花びらが舞う横断歩道。
私は思わず空を仰いだ。
母が、「雨と一緒に舞う桜も、実は悪くないのよ」と言った気がした。 -

傘をしまうビニール袋が気になってしまう男の話
カフェは混んでいた。
雨だし、こんな駅前のカフェはお昼時こそ、混むべきなのだろう。
いつもはフロアスタッフが2人で回しているが、今日は3人で回している。
1人分の人件費を賄えるほど、十分な利益が出ると見越したのだろう。
確かに、周りを見渡すと多種多様な客でほぼ満席となっていた。
Photo by Keira Burton on Pexels.com 私はセットについてきたサラダを食べ終えた。
今日のパスタセットのパスタはホウレンソウのペペロンチーノだった。
ニンニクの入っている料理はだいたい好物だ。
早く出てきて欲しい、と思う反面、この客の入りだと、もしかしたら時間がかかるかもしれない、とコップに残っていた水を飲み干しながら、少しだけ覚悟を決めた。カラン、とグラスに入っている氷がぶつかったのかと思った。
が、よく見ると私の器には氷が入っていなかった。
少しだけ周りを見渡すと、隣に座っている男性の二人組のうち、1人が、私と同じタイミングで水を飲み干し、そこに残っていた氷が音を奏でたのだった。
私は一瞥したが、ジロジロ見るほどの興味は無かったので、パスタが出てくるであろう厨房のほうをぼんやりと眺めた。ホールの3人が視界の端っこに映る。皆、せわしなくは働いているのが感じられた。ほどなくして、氷を鳴らさなかったほうの男が、暇を持て余すかのように話し始めた。
何気なく聞くともなく自然と耳に入ってきたのだが、彼の声が心地良く通るので、つい聴いてしまった。「スーパーにさ、あ、良く、雨が降ると、このビニールをお使いください、ってさ、ビニール袋、出るとこあんじゃん」
「あぁ、え、あるけどいきなりなんだよ」
「あぁ、この間かなでさんと休憩中にめっちゃ盛り上がった話なんだけど」
「かなでさんってあれだっけ、めっちゃおっぱいの大きな先輩」
「そ、もう俺そこにしか目が行かないから、一緒のシフト、辞めて欲しいって言ったんだよ。そしたらかなでさん、なんて言ったと思う?」
「俺さ、かなでさん、見たことないんだから全然わかんねえって。え、なんだ、触ってもいいよとか言ったの?」
「お、さすがだな。私を楽しませてくれるんなら、考えてあげてもいいなーだって」
「なんだよその上から目線!無理だわ俺ー。もっと癒されたいもん」
「お前はそうだよなー。俺、かなでさんと寝れるんならどうやって楽しませられるか、めっちゃ考えるわ」
「てかさ、スーパーのビニール袋が、どうしたの」
「あー、かなでさんがさ、あれ、傘をしまう時、めっちゃアレな感覚になるって言ってて。はぁ?なにそれ、って思ってたの」
そこで私のパスタが到着した。
ここで話が盛り上がるような気がしてきた。私はパスタよりも男の話が気になって仕方がなかった。
男の結末は。かなでさんと男は夜を共にできたのだろうか。
私は必至にパスタをくるくるさせながら、少しずつ口に含ませた。「アレってなんすか?って聞いたのよ。全然意味わかんなかったし」
「え、いやー、それってさ、、」
「え?!お前、もしかして、、」
「あれだろ?ゴムを付ける時のやつに似てるんじゃねーの?なんか、装着してる感、あるもんね」
「うーそーだーろー!!お前もそう思ってたのかよ!なんだよ、知らなかったのは俺だけか!87初恋の吾郎さんみたいじゃねーか!」
「いやでもさ、結局、それで分からない、ってなって、どうなったの?かなでさんとはその後やれたりした?」
「いやーそれがさー、分からないっす、って答えたら童貞だろお前、って言われてさー」
「あ、それはショックだ。お前が童貞かどうかはさておいて、なんかプライドが傷つけられたんだよね」
「確かにそうだな。87初恋の吾郎さんみたいだな」
彼らはやけに北の国から、87初恋を例えに出すような気がした。
なぜ、今。「そしたらかなでさん、私、童貞、嫌いじゃないのよね、って誘うからさー。嘘だろ、これなんてAVだよ、って思って、怖くなって、いや、俺、童貞じゃないす、って応えてしまった」
「お前そこは童貞です、ごちそうさまです!だろー。なんでそこで見栄張ってんだよー。童貞じゃなかったとしてもそこは童貞でいかないと。そこ頑張ったらかなでさんのおっぱいだぞ」
私はがっかりした。私は童貞だったからだ。そして、かなでさんという存在がとても気になり、彼らがどこで働いているか知りたくなり、パスタの味が全く分からなくなった。
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私だって
私の声が届かない。そもそも、私の声はそんなに大きくないんだった。
この世界は、私の声なんて必要ないのだった。私が何を考えて、何を発言しようが、季節は移り変わっていくのだった。そんなことは4歳の頃から知っていた。
真夜中、1人で散歩していると、ある人のことを思い出す。
少し好きだったような、けど別に恋人になるほどでは、、と躊躇してしまう人だった。
もしかしたらあれが「男女間に芽生えた友情」なのかもしれない。分からない。男女間に友情なんて芽生えないはずなのだ。
そこに友情が芽生えてしまったとしたら、人間は、人間はいずれ淘汰されていってしまうじゃないか。私の足音だけが聞こえる。真夜中の散歩。雨が少し降っているから、余計に周りの音が聞こえにくくなる。車が車道を走る度に、水を切るシャーっという音を立てる。
桜の季節は、まだあまり虫の声は聞こえない。
ジー、っと一瞬だけ聞こえたが、あれはもしかしたら私の脳内で流れた雑音で、いや、雑音ではなく夏にやった花火の時に、最後に花火を水に入れた時の音だったかもしれない。
もしかしたら、あれは、花火が放つ最期の声だったのではないだろうか。
私の脳にこびりついて離れない、あの、一瞬だけ放つ、ジュッ、という音。また頭の中に男女間の友情が出てくる。
信号が赤になった。青になるのを待つ。
そこに友情が芽生えたら、子孫を残すという本能を否定することになるだろう。
そうしたら、もしその考えが主流になってきたら、人間は子孫を残すことよりも、友情を分かち合う方に興味を持つようになっていくのではないだろうか。
私は男女間に友情は無い、必ずどっちかが友情よりも大きな好意を持つに決まっている、と考えている。そしてその相手は、その好意を利用して、自分が機嫌良く生きるための手段としてその関係を保っているのではないだろうか。もしかしたら私は、彼に対して好意を抱いていたのかもしれないのだけれど、
それだと彼は私を利用していたということになる。言い換えると私は彼に利用されていた。身体の関係には発展しなかったから良かったのかもしれないけど、その基準がまずおかしいだろう。そして何よりも、利用されていたという、「下に見られていた」ことに対して、私は納得できないし、それについては否定したい。考えすぎだろうか。考えすぎだろう。
信号が青に変わった。私は横断歩道を歩く。
パーカーが少しずつ雨に濡れていく。気づかないうちに、雨は少し強くなっていた。
コンビニで350mlの缶ビールを買って帰ろうか、少し悩む。