タグ: 承認欲求

  • 7月31日 幸福と豊かさ

    7月31日 幸福と豊かさ

    今日は自宅で仕事

    7時すぎに起床。昨日書いたけど今日はアレルギー対策の薬をもらうために通院しようかなと思い立ち、だから家で仕事した。8時くらいから仕事開始。
    今週は月曜から木曜まで出社してたから、家での仕事に若干戸惑う。家には誘惑が多い。音楽をかけ(これは会社でも普通にイヤフォンで聴いてる)、やりかけの刺繍に目を移し(さすがに仕事中はやらないけど)、そんなこんなでふわふわしてたから仕事のスイッチが入るのに結構な時間がかかった。
    昨日まで結構本気で仕事してきたから、頭が疲れてると言うのもあるかもしれない。今週は結構頭使ったもんなぁ、と考えたり。リラックスして仕事をすることも必要だよな。

    午前中は割とでかいミーティングの画面投影係だったので、それはそれで緊張した。私は一言も喋らないけれど、please go to the next pageの、please gのあたりで次ページへ移動させる、みたいなところで、英語を一字一句聞き逃してはならない、みたいな気疲れもあり。

    昼食べて、午後イチ、病院へ。診察は2分で終わり。いつも通りレボセチリジンを処方してもらって終わり。
    今週から体を動かそう!ブームになったこともあり、病院へはロードバイクで。暑かったけど気持ちよかったなぁー。そっからたくさん走り、45分のロードバイク。近所をぐるぐるした感じ。
    超汗をかいた状態で仕事に戻る。エアコンをガンガンにかけてたら体が汗で冷えてしまって、着替えたりとか。
    そっからも夕方に割と割り込み的な仕事が入ったりして、20時過ぎまで頑張った。今日は頑張ったよ。

    他人から認められたいとか、それが幸せにつながるのかとか

    夕食摂りながら奥さんと、アンハサウェイが叩かれた話を。どの世界にも妬む人っているよねぇ、と。キラキラした人は叩かれるよな。私もそっち側にいるのかもしれないと思ったり。いわゆる氷河期世代ど真ん中だけど、働きがいのある定職には就けているし、子供含め大好きな家族に囲まれているし、だから、ある方面から見たら「幸せそうで何よりだな」とも思われたりする可能性あるよな、と。ここで、ブログとしてこう言うことを書いている時点でこれがきっかけになることはあり得るよな、と。

    認められるってなんだろう。
    他人との関わりたいという思いと、一体どう付き合っていったらいいんだろう。やりすぎは良くないと思っている。30代の頃はSNSをガンガンやっていて、私は他人からの承認欲求に割とこだわっていたような気がする。
    それは悪いことだとは思わない。人って一人で暮らしていくことはできないし、孤独を愛せよ、っていう考えは私は全面的に賛同はするんだけれど、時折、なんとなく、物足りないなー、って思うことがあると思う。
    別に、SNSでバズりたい!を言いたいわけではない。それ至上主義で生きている人を否定するつもりは毛頭ない。それがその人の価値観なんだから。それを否定する権利はない。
    一方、自分からの承認だけで生きていけばいいじゃんという考え方。それは孤独を愛するということと同義かもしれない。それもそれで、否定する権利はないと思っている。価値観だし。くどいね。
    大切なのはきっと、自分の価値観をしっかり持って、その両極端な考え方ではなくて、自分が幸せだー、と感じられるものをしっかり捉えていくことが必要なんだと思う。
    バズったらバズったで、アンハサウェイのように妬みの対象になるかもしれないし、誰からも評価されないっていうのも、考え方によっては寂しいことなのかもしれない。
    ってことをAIに話してみたら、評価されたい対象が1人なのか、数人なのか、大多数なのかって話なのかな、って言われた。確かにね。

    自分の価値観をきっちり持つことが大切、って上述したけれど、そんなものはふわふわ変わるし(ずっと一定の人もいると思う)、だから、その時々で自分がどうなったら幸せか、っていうことを自問し続けて、それに至るために必要なアクションをとっていく事が大切なのかなぁ。

    かく言う私も、日々、こんな感じでのらりくらりと自分の考えをブログとして載せているけれど、考えによっては日記に書けばいいじゃん、とも思うよね。多分私は社会との接点として、私がドメインを持ってるこのブログに、その接点を託しているのだと思う。
    ユニークユーザーなんて月に数人だし、こんな辺鄙な場所に載せているブログなんて興味ある人なんてほぼいないだろうけれど、私にとってはこのくらいが、ちょうど良いのかもなぁ。コメント欄も閉じてるし。

  • 6月14日 人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、

    6月14日 人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、

    雨が、降ったりやんだりを繰り返している。
    近くの道路を走る車の音。果たして今日は、どんな思いを抱くだろうか。

    今日は偉い人とのミーティングで、私が主役になり説明する機会があった。
    こういう時になるといつも緊張してしまう。

    緊張とは。

    何度かこのブログでも書いているけれど、緊張は「いつもとは違う自分、ちゃんとしてるところを見せたいという思い」から生まれるのだそう。
    私にはそういう思いが強いということなのだろうか。
    もうちょっと考えてみると、私は、他人からの承認欲が強いということなのかもしれない。
    承認欲求を他人に求めるというのは、終わりのないスパイラルで、たとえばSNSでいいことを言おうみたいなのもその一つ。
    いいねをもらうために努力するのは、自分を磨くという点では良いのかもしれないけれど、そのために自分の気持ちを蔑ろにしてしまったり、無理をしちゃったりするので、いったん深呼吸をしてみて自分の気持ちに寄り添ってみたりすると良いのだろう。

    それは仕事だけではなく、日常生活のすべてにおいて言えること。

    どちらかと言えば悪く言われることの多い他人からの承認欲、考えるべきは自分からの承認欲を強くもつこと。
    昨日の自分よりも成長することで、自分で自分を承認してあげること。
    泡沫の夢のように、キラキラした自分を見せることも良いことではあるのだけれど、それよりも自分で自分の味方になってあげて、応援する姿勢を持つことが良いだろう。

    って、言うのは簡単なんだけどね。
    他人と触れ合う前提で成り立っているこの社会で、私はどっちを向いて生きていけば良いのだろうか。
    少し立ち止まって、そんなことを考える。人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、曇った時にこそ自分で自分の味方になってあげるべきだ。

  • 生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    誰かに認められるために生きているわけではないのだ。そういう意味では、自分に認めてもらいたいという気持ちはあるのかもしれないけれど。自分以外、家族を含めた他人から認めてもらうことは、生きることにおいて全く必要ではない。

    認めてもらうって。
    だいたいその言い方。
    自分が下にいるということではないか。

    抗え。そんな気持ちに抗うことで、自分は誰にも認めてもらう必要がなく、等身大で生きることができる。自分の力を全部使って、認めてもらいたいという思いをかき消すのだ。
    そうやって、自分を応援しないとやってられない。酒を飲んでも、気分が紛れるだけで、それがきちんと晴れることはない。

    子供は、そういうことを考えずに、一心不乱に自分のやりたいことをやる。だんだん思春期になっていくにつれ、学力や体力など、他の同級生と差が見えてきてしまいそれが発端となり自分のランクが分かる。そこで、だんだん、卑屈になっていく。私はそういう人間だった。強い人間に靡く、ただの、ちっぽけな人間。人間と呼んでも良いのだろうか、塵みたいな存在だから、よく分からない。

    生きる権利とは。
    自分はいったい、この世に対してなにか貢献しているのだろうか。

  • タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    他人への承認欲求が強いと、疲弊する。
    他人が自分の織りなす行動や言動に賛成や同意をしてくれないと、満たされないからだ。
    そしてそれは他人が考えることで、自分でコントロールできないことなのだから、それを期待して行動するようでは、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

    そのことをじっくりと考え、少しだけ生まれ変わったような気がする。
    と書くとだいぶ大それたことのように聞こえるが、なんてことはない、少しだけ価値観を変えだだけだ。

    一番わかりやすいところでいうと、私に関わる全員に優しくしたい、という思いが、「別に全員じゃなくてもいっか」というところまで弱まった点だ。
    小学校から学級委員に選ばれるような自分は、いつしかそういうスタンスで生きることが私の中の正義になり、誰にとっても優しく、頼りのある人間でなければいけないと感じるようになっていた。
    だけど多くのことを学び、育ち、折り合いをつけなければ自分がくたびれてしまうと感じた時に、それまで自分の正義としていたそれは、自分にとっては悪魔なのではないか、と懐疑的な目で見るようになった。

    今まで信じていたものが、嘘だったなんて。
    私が信じてやってきたものの正体は一体、なんだったんだろうか。自問した。
    そして得られた結果は、私自身が信じて止まなかった行動は、全て他人への承認欲求が根源にあるものだ、ということだった。
    冒頭に書いた通りそれは、コントロールすることができない他人に依存するものなのだから、それを追い求めていては、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

  • 自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    私は、私のことをなんでも知っていると思う。
    そりゃ、もう42年も一緒に暮らしているのだから、私に関するほとんどのことは知っているはずだ。
    例えば、自分がどんなことに喜びや悲しみを感じるか。
    どんな事実に反応するか。もしくは興味がないか。
    それらを記録して統計として残しておくことで、たぶん、「私ってこんな人です」という自己紹介の文章が出来るだろう。

    だけど、本当の自分は、それだけではない。
    他人が私のことをどう見ているか。どう、評価しているかという点、これは実際に、私を知っている知人に対してヒアリングし、具体的な感想を聞くしかないだろう。
    知人は、本当は私のことを良く思っていない部分があるけれど、それを私に伝えることで、私は気分を悪くしてしまい、その知人との縁を遠いものに虐げてしまうことだってありうるから、ともし知人がそこまで気遣いをするような人だとしたら、本当のことは言わないだろう。
    本当は、私のことをめちゃくちゃめんどくさい人だと思っていて、もうほんとは関わりたくないんです、ということを。

    Andrea Piacquadio at Pexels

    たぶんそれは、深く考えてもしょうがないこと

    他人からの評価が気になる人は、基本的に考えすぎなのだ。
    上記のように、実際にインタビューしたとしても、自分のことをどう思っているか、知ることはできないのだ。もし知人がとても正直な人で、どんなふうに私を評価しているかを適切な言葉で表現したとしても、その言葉に対する解釈が違う場合、私が正しく理解することだってできないはずなのだから。

    唐揚げだって、嫌う人がいるのに、というツイートを拝見したことがある。唐揚げは大好きだ。日本に住む全員が好きなはずだと信じて止まなかった自分だが、そのツイートを見てからは、100%好かれる人なんていないに決まっている、ということに気づいた。
    私は誰からも好かれようとして生きてきた。おそらく42年過ごしたうちの39年くらいはそんな感じだったと思う。
    今だって、もしかしたらそういうところがあるかもしれない。全部抜けました、とは断言できない自分がいるということは、つまりそういうことだろう。
    嫌われたっていいのだ。どうせ嫌う人はいるのだから。
    大事なのは、そういう人に気遣う時間を作るよりも、自分を良く思ってくれている人に対しての時間を確保することなのだ。

  • 過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    Tumberってあっという間に時間が溶けてくよね。

    めっちゃ分かる。

    お前との付き合いももう25年とかになるのか。え、25年?!

    もうこれは死ぬまで付き合い続けるやつだな…どっちが先に死ぬのか。。。

    あの頃を懐かしむ気持ち

    自分にとって忘れられないような、良い思い出は、自分を肯定するために必要なことなのかもしれません。
    私にもいくつか、「あの頃は良かった…」と思える時代があります。
    自分を肯定するという部分は、少しニュアンスは違いますが、「生きてて良かった」と思えることに近いのではないかなと思います。常日頃からそんな思いを思い出すというのはやり過ぎですけど、人生に少し疲れてしまった時や、自分を見失いそうになった時などにその事を思い出すと、少しだけほっとします。

    実際は、決して良い思い出ではなかったはずです。
    辛い思い出だってたくさんあったでしょう。
    だけどそれは、暖かい思い出を度々思い出し、そこから気持ちを暖かくするという思考を何度も繰り返しているから、結果的に暖かい思い出だけが記憶から取り出されるのだと思います。

    Pixabay at Pexels

    過去を懐かしがってはいけない。現実が嫉妬するから。

    ある哲学の本に、過去ばかり見ていたり、未来ばかり見ていると、現実が嫉妬するという一文が描かれていました。
    それを読んだ当時は「今を一生懸命に生きる」論に大賛成だったので、確かにそうだ!と大きく頷きました。
    それ自体、言わんとしていることは分かりますし、大切な未来を作っていくのは今、ここで考えていることなのですから、おっしゃる通り今を大事に生きるべき、とは思います。
    ですが、過去を懐かしがること自体は、否定してはいけないと思います。
    自分を勇気づけてくれた言葉や、暖かい気持ちを教えてくれた他人からの態度など、それらは何十年も経ってから自分の思いに響いてくるからです。
    そういう思い出を蔑ろにしていると、そこから作られるであろう未来は荒廃したものになっていくのではないでしょうか。

    ただ、いつまでも過去を引きずるのとは違います。
    あの頃は良かった、あの頃に戻りたいという思いは、その思いを持つことには否定しませんが、あの頃に戻りたいというのは、私には希望には聞こえてきません。
    それは今が楽しくない、良い思いをしていないからで、それを改善しようと努力しない限り、これも荒廃した未来しか待っていないように思います。

    未来を明るくしたいのであれば、荒廃するような思いを抱かないことです。
    荒廃するような思いとはどのようなものがあるでしょう。
    私はそれを、「めんどくさい」という気持ちだと思います。
    めんどくさいは、全ての行動を否定します。
    怠惰に、ゴロンと寝っ転がり、今を過ごしていくだけ。
    決して、無理に動け、ということではありません。
    闇雲に、何か行動を起こそうとするのは違います。
    余計疲れてしまう場合があります。
    そういうことではなく、自分のできる範囲で、自分の機嫌が良くなるような活動をしていくことが、明るい未来を作っていくのではないでしょうか。

  • なんの役にも立っていない

    なんの役にも立っていない

    なるべく客観的に、今自分の置かれている環境を見渡してみて、それに対して今の自分が、その環境に対して何か役に立つようなことを担っているのだろうかと考えた時に、その答えが、何一つとして浮かんでこなかった。

    つまりそれは自分が今、この地球という環境に対してなんの役にも立っていないということを意味する。むしろ空気を吸い何かを食べ、つまり地球のリソースを無駄に消費するだけの生き物ということになるのであろう。

    私はいなくなった方が良いのだろうか。
    生き物は食物連鎖などで、この地球という環境に対して役に立っている。みんなそれぞれ、何らかの役割を担っている。
    それに比べて私は。私は、無駄に、この地球がもたらすリソースを食い荒らすだけの生き物なのではないだろうか。

    ここでもし私がなんらかの宗教に対して敬虔な信者だったとしたら、これを神様に懺悔することで、心が救われるのかもしれない。
    だが、残念ながら私は明確な信心を持っていない。
    だから、そのやり方で救われることは、おそらくないのであろう。

    だけど私は、まだ死ぬわけにはいかない気がしている。
    地球に悪影響を及ぼす存在なのかもしれない。
    上述したように地球がもたらす貴重なリソースを食い荒らすだけの生き物なのだから。
    そんな私でも、生を全うするという役割を担っているのだ。
    それが地球に対してどんな貢献をするのか、全く分かっていない、けれども、生きる。

  • 愛に飢えていると

    愛に飢えていると

    私はいくつかの時代で、このようにブログを始めてはやめるを繰り返してきた。なんとなく気が変わって、急にやめることが多く、今回もそんな感じで突然やめるような気がしている。熱しにくく、冷めやすいと考えている。

    書いていることはあまり変わりなく、いくつかのブログを移り変わっていても、ずっと承認欲求だとか、価値観について考えてばかりだった。たぶん、その方面を考えるのが好きなのだろう。何が好きなのかというと、私自身の確固たる信念がなく、他人から受けた刺激によって常に変動するところだと思う。私自身の確固たる信念がないことは、歓迎すべきなところだろうか。賛否両論あるだろうけど、私はそれを気に入っている。私が何者にでもなれるからだ。

    さて、そんなブログだが、以前、私のブログは愛に飢えていると感想をもらったことがあった。それはいったいどういう点だろうか。私にはそれが未だに分かっていない。

    もしかしたら私が承認欲求について、自分の意見を書いているところを見たのかもしれない。そこには、まるで私が誰かからの承認を欲しているように見えたのかもしれない。人の意見だから、私はとやかく言える立場にないのだ。他人だから。他人には他人なりの考えがあり、私はそれを肯定や否定をせず、ただ、聞き流すだけ。

    私の、このブログを書く目的は、自分の意見を可視化することであり、誰かから承認されたいという思いは一切ないのだ。ここには嘘偽りなく、私のためにこれを書いていると断言できる。

    それなら自分の日記にでも書けば良い、という、私の中から沸き起こる意見に対して、私は何度も考えた。だけどこうしてウェブ上に流している。理由は簡単で、人に見られる体裁を保つためだから。

    これからしばらく、相変わらず書いていくだろう。他人からの承認も必要としていない。私自身に承認されることで、喜びを得るような人間だから。

  • 絶対に嫌われる

    絶対に嫌われる

    SNSを通して人と触れ合うことが当たり前になっている。
    私も、リアルな人と話すのは家族以外では皆無に近く、SNSを通して会話している方が多数派となっている。
    そしてこのように、自分の考えを綴る場所を持っている。

    この場所は、自分のために作っている。
    が、他人に共有することで、ある程度形の整った文章を作らなければいけないという制約が生まれる。
    この制約自体は自分で作り上げたものだが、何の制約もないところで書いているよりはむしろ、これくらいのほうが緊張感が持てるから良いと感じている。

    さて、この考えを共有していて、ふと感じるのが、絶対に誰かからは良く思われないだろう、ということ。
    100人がこのサイトを見たとして、全員が良いと感じるというのはあり得ない。
    どんな世界にも、アンチは存在する。

    そのアンチという存在、本当はいないほうが嬉しいはずである。
    しかし、存在する。
    そこで、自分の承認欲求と照らし合わせてみると、承認欲求から来るものは、「見た人全員に褒められたい」はず。
    なのに、その欲求に反する形で、公開すればするほど嫌われていくのである。

    その、承認欲求を満たすべく活動しているはずなのに、続けることで嫌われていくという矛盾。
    その矛盾を避けることは難しい。
    それならばどうすべきか。
    活動を止める。
    それしかない。
    ブロックなどをしていたらそれこそアンチの思う壺で、アンチは反応されることに大きな喜びを見出すから、それにより更に嫌っていくだろう。
    だから、嫌われたくなければ、活動を止めるしかない。

    そもそも、ここで表現するという世界だけではなく、日常生活においても同様のアンチが生まれてきても不思議ではない。
    だから、あなたが普通に生活しているだけで、あなたを無性に嫌っていく人だっている可能性があるのだ。

    誰からも嫌われずに一生を過ごすには、どうしたら良いのだろう。
    無人島で暮らすか、この世での生活を終わりにするか。
    無人島で暮らすか。
    人と関わる時点で、例え親子関係であったとしても、嫌い合う可能性があるのだから。

  • サディストとマゾヒストはどっちが強いのか

    サディストとマゾヒストはどっちが強いのか

    ある哲学書で、主人と奴隷の関係性について描かれていた。

    主人は奴隷の労働によって成り立っているから、主人は依存している。
    一方奴隷はというと、自分自身の労働によって主人を助け、労働という制約はあるものの、それを含めた全体の生活での自由を見つけ、それを確立していく。
    つまり助け合っているということだ。
    言葉尻だけを受け取ってしまうと主人のほうが偉そうに見えるが、それはあくまで言葉の上だけで、ある視点で見れば主人よりも奴隷のほうが自由だし、人間らしいと感じられる。

    その辺を読んでいた時に、それを現代で置き換えるとSとMの関係性になるのかな、と一瞬考えたので、その小さな芽を少しずつ大きくしてみたい。

    きっかけは飲み屋での話。以前(そっち系の話に強い)同僚が、SとMでは、Mがいないと成り立たないから、SよりMのほうが強いんです、って話をしていた。
    私はそれが、私の価値観を揺るがすほどの話だったので、数年前に聞いたのに未だに鮮明に残っている。

    私はSでもMでもない(ような気がする)から、どっちの気持ちも分かるような、分からないような感覚で、冗長な言い方になるがどちらも共感できるし、信じられない部分もある。
    例えば痛めつけるのが前提という点。
    相手の痛がる顔なんて見たくないし、わざわざ痛い思いをしてまで、と。
    どちらも信じられない。

    ただ、自由という点において、SはMの痛がる反応を感じ取らないと、自分の欲求は満たされない。
    だとすると、Sには不自由さが残る。
    痛むように痛めつけないとMは喜ばないから、うまくやらないといけない。

    一方、Mは、自分の欲求、痛めつけられたいという思いが叶えられるから嬉しい。
    自分の反応でSを喜ばせることができるという承認欲を満たせるという点でも嬉しい。

    だから、Mのほうが強いのではないのだろうか。

    もちろんこれは一方的な見方しかしていないので、もっと時間をかけて多角的な視点から見ると、いろいろな観点があるだろう。
    さらに私は前述の通りどちらのタイプでもない(と思う)から、私はどっちなんだろうと考えてみるのも、考えが拡がって良いのかもしれない。