自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

私は、私のことをなんでも知っていると思う。
そりゃ、もう42年も一緒に暮らしているのだから、私に関するほとんどのことは知っているはずだ。
例えば、自分がどんなことに喜びや悲しみを感じるか。
どんな事実に反応するか。もしくは興味がないか。
それらを記録して統計として残しておくことで、たぶん、「私ってこんな人です」という自己紹介の文章が出来るだろう。

だけど、本当の自分は、それだけではない。
他人が私のことをどう見ているか。どう、評価しているかという点、これは実際に、私を知っている知人に対してヒアリングし、具体的な感想を聞くしかないだろう。
知人は、本当は私のことを良く思っていない部分があるけれど、それを私に伝えることで、私は気分を悪くしてしまい、その知人との縁を遠いものに虐げてしまうことだってありうるから、ともし知人がそこまで気遣いをするような人だとしたら、本当のことは言わないだろう。
本当は、私のことをめちゃくちゃめんどくさい人だと思っていて、もうほんとは関わりたくないんです、ということを。

Andrea Piacquadio at Pexels

たぶんそれは、深く考えてもしょうがないこと

他人からの評価が気になる人は、基本的に考えすぎなのだ。
上記のように、実際にインタビューしたとしても、自分のことをどう思っているか、知ることはできないのだ。もし知人がとても正直な人で、どんなふうに私を評価しているかを適切な言葉で表現したとしても、その言葉に対する解釈が違う場合、私が正しく理解することだってできないはずなのだから。

唐揚げだって、嫌う人がいるのに、というツイートを拝見したことがある。唐揚げは大好きだ。日本に住む全員が好きなはずだと信じて止まなかった自分だが、そのツイートを見てからは、100%好かれる人なんていないに決まっている、ということに気づいた。
私は誰からも好かれようとして生きてきた。おそらく42年過ごしたうちの39年くらいはそんな感じだったと思う。
今だって、もしかしたらそういうところがあるかもしれない。全部抜けました、とは断言できない自分がいるということは、つまりそういうことだろう。
嫌われたっていいのだ。どうせ嫌う人はいるのだから。
大事なのは、そういう人に気遣う時間を作るよりも、自分を良く思ってくれている人に対しての時間を確保することなのだ。