カテゴリー: 魂を綴る

  • 過去は振り返らない、未来には期待しない

    過去は振り返らない、未来には期待しない

    相変わらず機嫌良く暮らしていくにはどうしたら良いかと言うのを考えています。

    ホント、ものすごい時間を使って考え続けているような気がします。
    それだけ時間を使っているのに、思いつくのは、新たなアイデアではなく、哲学書や心理学の本で書かれていることばかりなんですよね。

    多分、私には新しいアイデアを思いつく才能がないのかもしれません。
    それよりは、過去の人が築き上げた知識をかみ砕き、自分の中で浸透させるほうが好きなのだと思います。

    Ike louie Natividad at Pexels

    そう考えると、今の自分は過去の人が作り上げてきた礎を眺めながら生きてきたのだろうなぁ。
    そして私からは、残念ながら何も生むことはできない。

    過去を振り返ると、自分のできなかったところばっかりが浮き彫りになり、
    未来に期待してしまうと、今の自分がとても小さな存在に見えてしまうのです。

    それって、自分が機嫌良く生きたいというマインドセットに対して、真っ向から対抗しようとしてるよなぁ、と感じます。
    今の自分に満足するだけで、もしかしたら、未来って明るくなのかなぁ、とか、

  • 突発的な行動力はものすごく魅力的だが、慎重な人を否定するのもおかしい

    突発的な行動力はものすごく魅力的だが、慎重な人を否定するのもおかしい

    お前、週末どこ行ってたの?!急にいなくなるからびっくりしたわ。

    あぁ、、、急にワインが飲みたくなってさ、甲府まで行ってた。日帰りで。弾丸。ずっと飲んでずっと酔っぱらってた。

    急に思い立ってそんなすぐに行動できるのかお前!マジか。すげーな。交通費高いな、とかせめて一泊したいな、とか、そもそももっとちゃんと計画したいな、とかなかったのか…

    そういうのめんどくせーんだよね。ワイン飲みたかったし、それで十分じゃん、と。あ

    世の中には用意周到に計画を練る人と、考えるよりまず行動!という人、2種類がいるように感じます。
    論じる前に、まず、これは価値観の問題だから、どっちがいいか、ということではないです。私自身も、両面の良さを理解しているし、どっちにもなりたいと思っているからこそ、それぞれの考え方を理解できる気がするので、それぞれの思いを考えてみたいな、と思います。

    Photo by Rodolfo Clix on Pexels.com

    とりあえず行ってみようぜ、な人

    イギリスから、アメリカに渡った人と、オーストラリアに渡った人、みたいな比喩を見たことがありました。
    前者は、考えるよりもまず行動派。
    後者は、誰かの指示を待ち、思慮深く考えているうちに周りに巻き込まれてしまった派。

    どっちがいいという話ではありません。
    たぶん、世界は、両方の人がいるからこそ、成り立っているはずなのだから。

    前者、考えるよりもまず行動、という人には、野心が見えます。
    自分の欲望をストレートに満たそう、というスタンスの持ち主。
    早死にしたとしても、「まぁ、私のやりたいことをやり遂げたからいいかな」と、満足感が高い気がするんすよね。

    もし、時期尚早で、行動だけ先走った場合、どうなるのだろう。
    行動から得られる満足感のせいで、もしかしたら後悔はしないのかもしれません。
    もしかしたら、こっち側の人は、たくさん失敗を重ねているかもしれないです。
    けど、それによって「次から控えよう…」ではなく、次も相変わらず突っ走ってって
    結果失敗してしまう、みたいなことになるので、学習はしないけど満足した、ってなるのかもしれません。

    しれません、と書いているのは、私はそっち側ではないから、あくまで想像で書いているからです。

    私はそっち側の人をうらやましいと思っていて、なぜなら、人生は機嫌良く生きた人の勝ち、という価値で考えた時に、そっち側のほうが機嫌良く生きられるような気がしているからです。

    慎重に生きることだって、決して悪くはないのよね

    別に、私たちのマインドセットをフォローするために書いているのではありません。

    けど、特筆したいのは、慎重に生きる人と、先に行動する人の、人生における優先度の違い、それをちゃんと言及しないと、このブログは終われないな、と思っています。

    慎重に生きる人は、自分にとっていかに「嫌なことが起きないか」です。つまり、何も起きないことが前提。
    一方、先に行動する人は、いかに「自分にとって楽しいことが起きるか」です。だから、苦難はあっても楽しんだ者勝ちなんですよね。

    つまり、相容れないんですよ。だから、比べるのがおかしい。
    プラマイゼロがいいのか、プラスに延びるのがいいのか。

  • 手帳にはむしろ、ふと気づいたことをたくさん書き入れておくべき。それが思い出帳になっていくから

    手帳にはむしろ、ふと気づいたことをたくさん書き入れておくべき。それが思い出帳になっていくから

    相変わらずバレットジャーナル的な手帳生活をしています。
    ToDoは平日、仕事のタスクに対して付けていることが大半なので、休日はあまり手帳に触れなくなりました。
    休日こそ、留めておくことが沢山あるように思うのですけどね。

    これとか。一生覚えておきたい瞬間でした。

    https://twitter.com/hmgrbean/status/1373107035835797508?s=20

    慌てて書き留める必要があるほどに、多くのことを忘れていってしまう

    とても愛らしい思いを忘れないうちにメモっておくのがとても難しいのです。
    ↑に載せたツイートは、私が運転している時に感じたことなのでそのタイミングで書き留めるのが難しく、家族には言いませんでしたが心の中で40回くらい思い出を反芻しました。
    そのおかげでなんとか忘れずに、数十分後にはツイートすることができました。

    ホント、忘れてしまうことが多くて困ります。
    忘れたくないと思えるようなことほど、すぐに忘れてしまうのに。

    人間はそもそも、どんどん忘れていく人間なのです。
    忘れていくというか、常に新しい考えがドバドバと湧いてくるから、古い記憶っていうのは上書きされていってしまうんですよね。
    バージョンがあって、例えば24時間前の自分に戻りたいと考えたとしても、そんなことは簡単にはできません。当然ですけど。
    だから、その瞬間に私が感じたことを、忘れないうちに、書き留めておく必要があるのではないかな、と思うんですよね。

    思い出を残すのって、ただの自己満足でしょ

    私がロマンチストなのかもしれません。
    現実に満足していない、という側面があるのかもしれません。
    実際にはだいたいのことに満足していて、ただ、過去の記憶をちょっとだけ取り出してそれを眺め、また戻すっていう思考が好きなだけなのだと思います。

    良い思い出はたくさん思い出すことで、忘れないように長期記憶のほうに書き込まれるものです。
    悪い思い出も、残念ながら何度も思い出してしまうので、忘れないんですよね。
    それらの、強弱の振れ幅が大きい思い出たちはきっと、私が意識していなくても忘れることがないはずなので、私はそれ以外の、本当に些末な思い出たちを手帳とかに書き留めて、忘れないようにしたいんだよなぁ。自己満足ですけどね。

  • 悩みすぎると疲れてしまうのは、優柔不断という性格のせいだろうか

    悩みすぎると疲れてしまうのは、優柔不断という性格のせいだろうか

    人生は選択肢が多い…どっちを進んでも正解なはずなのだけど…

    「悩む」と「考える」は違う、という投稿を前に書いたことがあります。
    悩むことは妄想で、~したらどうしよう、みたいな観点で、選択肢を迷う時に、良く「悩む」ことをするような気がします。

    答えは決まっている

    どっちを選んでも正解なのです。
    自分が選んだ道だから、と覚悟を決めることができないから、悩み続けるのではないでしょうか。そんな簡単な話ではないですよね。そりゃそうだ。
    食後のデザートはみかんか、りんごか、という小さな選択肢から、転職すべきか、ここに留まるべきか、という人生を変えるような選択肢まで、様々なシーンで悩むことがあります。

    人生はパラレルワールドではないのですから、自分の選んだ道を信じて進むことが、唯一の正解です。
    だから、どっちを選ぶかということについては、正解はないのです。言い換えればどっちを選んでも正解、ということです。

    David Bartus at Pexels

    どっちのほうが得か

    ここから先は駄文です。

    とは言え、選択肢があるような場合だと、どちらのほうが自分にとって得なのだろう、という観点で考えることもあるでしょう。

    例えば仕事。

    • 給料はめちゃくちゃ安いけど、自分のやりたかった仕事
    • 給料はめちゃくちゃ高いけど、自分のやりたかった仕事ではない仕事

    答えは簡単で、自分がどっちに重きを置くか、です。
    お金が欲しいのか、満足した仕事がしたいのか。
    両方を取ることのできるような選択肢があるのが一番良いのですが、人生ってそんなものですよね。

  • 少しはみ出すと人生が楽しくなる、って話は本当だろうか

    少しはみ出すと人生が楽しくなる、って話は本当だろうか

    1人で酒飲んでる時とかに考えるんだけどさ、

    1人で飲む酒はうまいのかそもそも。俺ダメなんだよなぁ。

    俺みたいに周りの気持ちを推し量るのが苦手な人間は、むしろ1人で飲んだ方が良いと思うぜ。でさ、考えることなんだけど、

    周りの気持ちを推し量るのって変な気遣いのひとつだし、そんなこと考えてたら確かに酒がまずくなるよなぁ。てか酔わないだろ。

    あーそれかな、酒がまずくなるってのが一番の理由かも。いつの間にかビールがなくなってて、けど全然酔ってないんだよね。てかさ、俺に喋らせてもらっていい?

    人生の豊かさとはいったいなんだろう。
    ここ最近は毎日のように、「人生で目指すべきはいかに機嫌良く過ごすかである」ということを考えているものの、考え方は無限にできるよな、と。

    少しくらい道を外れたっていいのかもしれない

    マツコ・デラックスさんがどこかで、少しくらいはみ出すと、人生に味が出る、というようなことを言っていたそうで。
    目指すべきは、いかに機嫌良く過ごすか、ということを考えた時、私はつい、機嫌良く過ごすか=期待通りのことをなるべく選ぶこと、と解釈してしまう。
    そうすると、冒険をしなくなると思うのだ。

    多分私は臆病で、冒険することで何らかが失敗してしまったら、きっと心に傷を負うことになるはずで、その傷を負うことで残りの人生に悪い影響を与えるのが嫌なのだ。
    だから、無難な選択肢ばかりを選ぶ。無難な選択肢はとても現実的で、多分、大半の人も同じ選択肢を選んでいるような気がする。つまり私は、大勢の中の1人に埋もれる程度の人間になる。
    冒険して心に傷を負うくらいなら、目立つことなく大勢の中の1人に埋もれる程度の人間になった方が良いのだ。

    だから、マツコ・デラックスさんの残した言葉(って書くと故人みたいな感覚になる。これからも応援しています)には、私に考える種を与えてくれた。
    そして、少しだけはみ出しても、その当時は悔やむのだろうけど、後々自分の糧になってくるのだろうな、と想像することができた。

    無理にはみ出すことはしなくても良いのだろうけど

    かと言って、私の思考回路ではいきなり大それたことが生まれるはずがない。
    多分、人生をゆっくりと進んでいく中で、不意に訪れる「ちょっと冒険してみようかな」という選択肢を選び、結果失敗してしまったとしよう。その時に後悔はするだろうけど、マツコ・デラックスさんの言葉を思い出し、立ち直るきっかけになる気がする。
    その時になってみないと分からないけど。

    人生は稀に、本当に些細な選択肢の間違い(と呼んでいいのか分からないがとりあえず)が大きな分岐を生むことがある。
    その後、自分の人生が間違っていたかどうか、と当時を振り返ることがある。
    人生が間違っていたかどうか、いろいろな観点で見ることができるが、それが何目線かで検証結果が大きくブレる。
    ぱっと思いつくのは自分の進路。
    あの時もっと勉強して、違う分野に進んでいたら、自分は違う人生を歩んでいたのではないか、という考え方。
    いろいろと誤解が潜んでいるが、これは多くの人が考えるものの一つだろう。
    私も、幾度となく考えてきた。
    だけど、根底には「現実は急に変えられない、時間は戻せない」という原則があるので、何を考えても結局たられば論でしかない。
    であれば、考えるだけ時間の無駄である。だけどもし、現実の生き方が本当に嫌なのであれば、違う人生を歩むべく、努力が必要だ。
    そして数年後、最期を迎える瞬間かもしれないが、その選択が間違っていたかどうか、再検証する時が来るので、その時に胸を張って「そっちを選んで良かった」と思えるような努力をすべきだろう。

  • 「好き」が、「かつて好きだったもの」や「もう好きじゃない」と心が移り変わっていくのは心の成長なのだろうか

    「好き」が、「かつて好きだったもの」や「もう好きじゃない」と心が移り変わっていくのは心の成長なのだろうか

    木曜に飲む酒が一番旨いよな。

    え、なんで?普通金曜か土曜じゃないの?

    木曜はさ、「明日働いたら休みだ!」って思えるじゃん。あと1日!って。あと1日くらい、勢いでバーッて働いたらあっという間に終わっちゃう気がするんだよね。だから木曜に飲む酒が一番好き。

    (説得力あるように見えるけど…相変わらず変わった思考だ…

    好きなものに囲まれて暮らすような努力を

    自分の好きなものは何だろう、と考えた時に、ぱっと思いつくものがそんなになくて、自分はいったいなにが好きなんだろう、と思わずじっと考えてしまった。

    好きなもの、好きなこと、好きな人、など対象を具体的に落とし込んでいくことで、ある程度見えてくる気がする。最初に、「好きなもの」と対象をぼんやりさせたせいで、自分の中にその具体的なイメージが結びつかなかったのだろう。

    とは言え、そうやって好きなものを具体化させたところでも、大して好きなものは出てこなかった。

    静かな部屋。柔らかな陽射し。ベランダの観葉植物たち。
    家族。友人たち。
    本。音楽。
    ハイボール。お米。

    cottonbro at Pexels

    ざっとこんなものだろう。今のところ、という限定ではあるが、これらに囲まれて生きていければ、多少の波はあるだろうけど最期まで穏やかに過ごすことができるのではないだろうか。

    私がもっと若かった頃はどうだったのだろうか。音楽などは十代の頃から好きだったから、その辺りはずっと変わっていないように感じるが、一行目に挙げたものは私が30代を過ぎて40歳に差し掛かった頃に好きになったものたちである。

    ここから消えたものは。
    つい最近まで「ランニング」が入っていたが、最近はだいぶ腰が引けている。特に理由はないのだが、シンプルに他に時間を費やしたくなったのが理由だろうか。
    身体を動かすこと自体は嫌いではなく、今でも子供たちと走ったり、動いたりしているものの、それが好きかと言われると、わざわざ明記するほどではないような気がする。

    昔からあまり、お金をかけた趣味には興味を注いでこなかった。
    お金がかかるとそれに興味がなくなった時に、そのお金がもったいないと感じてしまうのだ。昔からその感覚は変わらない。
    数年前に結構なお金を払ってロードバイクを手に入れたが、そのような理由からほぼカスタムせず、そのままの状態で乗っている。

    好きの反対ってなんだろう

    好きの反対は、嫌いなのか。それとも無関心か。
    意見が分かれるかもしれない。真実としては後者、無関心のほうが近いような気がしているが、どちらも正解なのではないだろうか。

    うーん。シンプルに、好きの反対は、好きじゃない、と考えた場合。
    好きじゃない=嫌い、と言えるだろうか。

    私は言えないと思う。嫌いは、怒りや、妬みなどの感情がプラスされているから。
    好きじゃない、は、そもそも興味がないのだ。怒りや、妬みなどの気分は起きてこない。
    興味がないから。

    だけど視点を変えてみると、好きの反対は、嫌いで正解な気もしてくる。

    好き=自分の期待に応えてくれるもの、応えてくれる人、である。
    あれを手に入れたらきっと生活が豊かになるんだろうなぁ。
    あの人に相談したらきっと期待してる応えを返してくれるんだろうなぁ。

    この視点で考えると、上記のように応えてくれないのが否定になる訳だから、それが嫌いということになるのではないだろうか。
    嫌いというのは、自分が何を期待しているかが明確になる。
    嫌いと思うものを排除していくと、好きだけが凝縮された世界になっていくのだろうか。
    パレートの法則のように、常に下位に所属する2割の好きが、「かつて好きだったもの」に代わり、最終的には「興味がない」、むしろ「嫌い」になったりすることだってあるような気がする。人間だもの、心の移り変わりを否定する必要はないのだ。

  • 「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    ヘモ、今日はまだ残業してるって言ってたなぁ…アイツ、最近働きすぎじゃないか…

    働けばお金が沢山もらえるかもしれないけど、それって自分の時間を失っているということに気づかないのだろうか…

    お金が沢山あるほうが、幸せなのだろうか

    私が考える幸せは、「自由」だと思う。
    ただし自由を手に入れるには頭を使わなければいけない。

    自由とは、なんでもかんでも自分の好きなことをやってもいい、と思えるかもしれないが、そうではない。
    例えば日本であれば、日本という国の法律に則り、法を犯さない程度で、自由気ままに生きることであろう。
    そのためには、日本の法律を学ばなければいけない。って書くと法学の知識が、、と思うかもしれないがそうではない。
    日本で、法を犯さないで暮らすにはどういうことか、自分で理解しなければいけない。

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    また、人によっては、散財することが自分の幸せとみなす人がいるかもしれない。
    そのためには、自分の物欲を満たすほどのお金が必要である。
    だけどお金は、働いたり、誰かに貢献しなければ手に入らないものである。
    だから、誰か困っている人を見つけ、その人の手助けができるようなことは何だろうか、と頭を使うことが必要だ。場合によっては「事業」と呼ばれる規模で、誰かの手助けをすることになる場合だってあるだろう。

    自分の幸せってなんだろう

    もしかしたら、たくさん仕事をして誰かに喜んでもらうことが、自分の幸せなのかもしれない。そういう人はたくさん仕事をしたら良い。
    たくさん欲しいものを買って暮らすことが幸せと感じるのならば、たくさんお金を用意すれば良い。
    本を読むのが幸せならば、本をたくさん読める環境に身を置くことが幸せにつながる道だろう。

    たまに、なんかいいことないかなー、とぼやく人がいる。
    いつの時代も、一定数いると思う。

    そういう人は、自分の幸せが何なのか、きちんと考えたことがないのかもしれない。
    沢山お金を持つこと。みんなから尊敬される人間になること。誰かに喜ばれること。
    多分これは価値観の話だから、みんなが共通して言える「幸せの形」というのは無いように思う。
    だから私が冒頭に書いた「自由」ということが、イコール幸せと言える人は、もしかしたら少ないかもしれない。だけどこれは私の価値観だから、誰かに「それは違うだろ」と言われたとしても、別に私は変えるつもりはない。
    私の価値観はどうだって良いのだが、私はある程度、幸せの形について自分なりに考えてきた。その結果、自由ということが一つの形だと気づいた。
    多分、真剣に考えないと幸せの形って見えてこないと思う。
    だけど、だからと言ってその、自分の価値観を軽視して一般的に言われるようなお金、名誉、などに引きずられていると、本当の自分の幸せが何なのか、それを逃してしまうような気がする。そしてそれに気づいた時には手遅れで、その幸せを実現する時間が残っていないようなことだって、実際はあり得るように感じる。

  • 家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    でさ、昨日話したコンビニの前で酔いつぶれてたおっさんなんだけど。

    え、ちょい待って、二日連続でその話、いく?!えっ?!まだ続くの?!

    いや、だってさ、おっさん、めっちゃ気持ち良さそうだったんだもん。あれ、人生の真理だよな。真理。

    ちょっといろいろ飛躍しすぎてて、何がなんだか全然分からんのだけど。。。

    いやだから、機嫌良く生きるためにはさ、歩道に寝っ転がったっていいわけでしょ。自分が何をしたら気持ち良くなるか、時には羽目を外すことだって良いんじゃないの?

    まぁ時と場合によるけどね。ある程度は必要だよねきっと。

    自分の可能性は、自分で狭めているのだろうか

    40歳を過ぎて、残された時間と、守らなければいけない家族を鑑みると、できることが限られてくるような思いに駆られる。
    特に家族。
    子供たちが大きくなるまでは私は仕事をしてお金を稼がないといけないし、そのためには健康でいなくちゃいけない。私がそうやって親に守られながら、育ってきたから。子供には、自由に育って欲しいと思っている。
    学校の勉強はもちろん大事だけど、学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて、成長して欲しいと願っている。

    書きたかったことから少し脱線するが、「学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて」という言い方は、学歴社会を否定する、負け惜しみなような言い方に聞こえてしまう。おそらく、私の偏見である。
    立派な学歴を持った人がこのセリフを吐くと説得力があるのだが、私のように中途半端な学歴を持つ人間が言っても、どうも薄っぺらく聞こえてしまう。
    気にすることなんてないはずなのに、私はいつもこの部分が気になってしまい、「学歴なんて気にするな」というセリフを吐く時はいつも、声が心なしか小さくなってしまう。

    さて、私は上述したように、割と親から愛されて育ってきたような感覚を持っており、だからこそ同じように、子供たちに対して彼らのやりたいことを実現させてあげたいと思う。
    そのためには、私がやりたかったことを我慢してでも、彼らの欲望を満たしてあげる方を優先すべきなのだ。

    優先すべき、それは本当だろうか。

    私は私の人生を生きるべきであって

    まず、冒頭に書いたことは皆、私の妄想ということが明らかだ。

    • 残された時間は多くない
    • 家族を守る

    これらは一見、40歳を過ぎた、父としてあるべき姿のように見える。
    おおよそ間違っていないのかもしれない。
    が、果たして本当だろうか。

    まず、残された時間は少なくない、という点。
    80年生きるというのを前提で考えたとして、私に残された時間は残り37年ほど。
    老年になると体力がなくなるだろうか、体力を抜きにして考えると残り20年くらいか、、、と軽く見積もったのだが、
    その前に、そもそも私は、いったい何をしたいのだろう。
    何をしたいかによっても、だいぶ変わってくるのではないだろうか。

    あと、家族を守るという点。
    こちらについては責任という意味合いからも、私は家族を守るべきだし、幸いなことに今の仕事は嫌いではないから、まだまだ働きたいと思っている。
    なのでここ、家族を守る必要なんてない、という価値観もあるかもしれないが、私にはそれはしっくり来ていないのでこれ以上は割愛する。

    結局、自分が機嫌良く生きることが人生の目的と考えた時に、自分のやりたいことを実現すべき、時には家族や自分のリソース(体力、気力、財力)を無視してでもやるべきである。だけどそれらを無視した後で痛い目を見るのは明らかなので、機嫌良く生きた後に痛い目を見て辛い思いをするくらいなら、最初からその道を選ばなければ良いだけであるから、きちんとした道を考えつつ、生きていくべきなのだろう。

  • 根本的な問題は一刻も早く解決すべきだけど、解決する元気がない時は現実逃避をすべきだろうという話

    根本的な問題は一刻も早く解決すべきだけど、解決する元気がない時は現実逃避をすべきだろうという話

    この間、残業して帰ったらさ、駅前のセブンのとこで酔いつぶれて寝っ転がってるおっさんがいてさ。すげぇ見苦しかったんだよな。

    春になると出てくるよなぁそういうおっさん。恥ずかしくないのかね、っていっつも思う。

    俺もそう思ったんだけどさー。けどそのおっさん、めっちゃ気持ち良さそうに寝てたんだよね。

    で、気づいたんだけど、これももしかしたら幸せの形として定義してもいいんじゃねーのか、って。

    確かにね、周りの俺らからすると「しょうもねぇおっさんだな」と思うけど、本人からするといい感じに酔っぱらって寝っ転がってる訳だから、死ぬとかじゃなければむしろ幸せなのかもしれないな。

    幸せの形は人それぞれだからさ、

    お酒を飲む人だったら分かると思うのですが、いい感じに酔っぱらうと、現実の面倒な問題がぼんやりとしてきて、とても幸せな気分になることがあります。
    分かるんですよ、根本的な問題は無視してるから、酔いが醒めたらまたその問題と対峙していかなきゃいけないのだから、それが一時の幸せだということを。
    だけど、いや、現実の問題が一筋縄ではいかないものだからこそ、お酒を飲んで、休息して力を貯め、またぶつかっていこうという気持ちが芽生えるのではないのでしょうかね。

    お酒を飲まない人でも、現実逃避のための趣味だとか、そういうものに没頭することで、現実から目を背けるという気持ちには理解できる部分があるのではないかと思います。
    現実逃避することが幸せの形とは言いませんが、それでも、一時休戦として現実から逃げることは、束の間の幸せにはなりますが、エネルギーを貯めるタイミングとしては必要なものなのではないでしょうか。

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    やりたいように生きることの是非

    何度かブログに書いていますが、生き甲斐というのは、いかに「自分が機嫌良く暮らしていけるか」ということに尽きるのだと思います。
    そのためには、上述した「根本的な問題」を解決するのはもちろん必要ですが、それを解決するために力を貯める時間と言うのも、生きていくためには必要なのではないかと思います。

    現実逃避と言うのは、もしかしたら忌避すべきものなのかもしれません。
    私は以前、現実逃避は根本的な問題を解決するものではないから、まったくもって意味のない行動だと思っていました。現実逃避をしたとしても、根本的な問題は解決していないからです。
    だけど、根本的な問題を解決しようとするエネルギーを持っていない時には、むしろ現実逃避というのは必要な措置だと思います。
    人間だもの、いつでもパワー全開ということではないですからね。
    前を向いて生きていくべきですが、前を向く元気がない時は、時折足元を見て自分の靴紐が緩んでいないかを確かめるのも、きっと必要なことです。

  • 季節の変わり目を肌で感じることのできるゆとりを、忘れたくないんだよなぁ

    季節の変わり目を肌で感じることのできるゆとりを、忘れたくないんだよなぁ

    今日は俺だけか。グロ、お休みだなんて珍しいなぁ。
    まぁ、春だし、気分が浮き沈んだりするもんな。あいつの分まで昼飯を食べるとするか。めっちゃ太るな。

    冬と春の間

    季節の変わり目は、独特な気候を齎すことがある。
    急な大雨、からの強風、そして晴天。
    昨日は台風が来たかのようだった。そして今日は風だけが取り残され、きっと花粉が猛威を奮っているだろう。
    私は花粉症なので、怖くて外に出られない。さっきゴミを捨てにゴミ捨て場に行ったが、それだけでも沢山の花粉が服に付着したのではないかと疑わずにはいられない。

    春は、出会いや別れのシーズンと言われている。日本だけに限った話ではあるが。
    4月という年度代わりに合わせ、学校や職場等で配置換えなどが行われたりする。
    私の職場はそういったことがないので、季節感がないという話は先日のブログでも書いた。
    冬と春の間は、大量に流れ出る鼻水と、少しだけ昔を思い出して感傷的になる、そんな季節だ。

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    季節の移り変わりを感じる心を失いたくない

    春の花が咲いたり、雨が続いたりすると(関東地方の話になっちゃうねこれ)、季節が移ってきたなと感じる。
    その心を、それを感じるゆとりを失いたくない、と思う。
    きっと、この地を愛しているのだろう。
    一年中同じような気候の国では、日本のように四季がないはずだから、もしかしたら私が今感じているような感受性は育たなかったかもしれない。
    嬉しいとか、悲しいとか、そう簡単に言い表せることのできないレベルでの感情を抱くことが多い昨今で、語彙力の無さにほとほと呆れてしまうが、少しだけ胸が窮屈になる感覚は、春ならではだなぁ、と思う。