勉強って言い方にもやもやする

義務教育では勉強という、あまり好きでないものに取り組むことで、集中力を養うことができるのかな、と考えたことがあった。
好きなものではないものでも、とりあえず5分くらい取り組んでみると自然とやる気が出てくるというか、始まるまでの嫌な気分、めんどくさい気分が払拭されると思っていて、それを学ぶための場所なのかな、と。

けれどその仮説は、全く違うように思う。今は。
そもそも勉強=あまり好きでないものという前提ってなんだ。その偏見は、と。

話を集中力にいったん戻す。
きっかけは長男の姿勢から。

長男は幼稚園年長から小1の頃にかけて、世界の国旗を全部覚えるという偉業を成し遂げていた(親バカ目線はご容赦いただきたい)。
世界の国旗、数百はあるだろうか、彼はそれをぱぱぱっと、それこそ1か月くらいで覚えてしまったのではないだろうか。

彼はそれを、勉強と捉えていただろうか。
分からない。なぜなら、彼は楽しんでやっていたからだ。

そう考えると、自分が好きになる、それに浸っていると時間を忘れるくらいに没頭することができるような物事を見つけることが先決なのだろう。
そしてそれに浸っている時間は自然と集中するのだ。

意識せずに、集中する。

一般的にはワーキングメモリを強くするとか、そういう脳科学的な側面もあるだろうけど、まずそれよりも前に、楽しむという気持ちが自然と湧き上がるように捉えないといけないのだ。
それには自主的な気持ちを持つことが必要なのだろう。

そして、ここで、冒頭で少し脱線しかけた勉強=あまり好きでないもの、という伏線を回収できる。
勉強という括りがそもそも良くないのだと思う。
学校で学ぶものだけが勉強ではない。
長男は、国旗を覚えるという行為、多分、ゲームのように考えていたのではないだろうか。
記憶ゲーム。
勉強ではなく。

では、学校で学ぶものを「勉強」と呼ぶことに対する是非は。

最近、私は自己啓発系の本ばかり読んでいる。
仏教、禅、哲学、ミニマムライフなど。
それらは、私は勉強と捉えていない。趣味だ。

一方で、これらを学問として学ぶと、勉強になるのだろうか。
良く分からない。
勉強と呼ぶこと自体が良くないのではないだろうか。

生きることが勉強、と捉えることだってできる。
起きる。ご飯を食べる。歯を磨く。勤労の義務を果たす。夜、自分の好きなことをする。眠くなったら寝る。
この、日常のルーティン。
私がこの世に生まれてから過ごした15322日(調べた)で、覚えている日はほとんどないだろう。
だが、生きていることで何かしら刺激され、自分で考え、何かをアウトプットするという業を過ごしている。

それは言い換えると、勉強なのではないだろうか。

良く分からない。学歴社会に警鐘を促したいとか、そういうレベルの話ではなく。