8月23日 価値観と視座

生きていると、ほんとにいろんなことがある。
いろんな物事にぶつかり、それを各人が独自に解釈して、思考し、行動へと移す。
その行動が他人の思いに影響し、伝播し、新たな思考、行動へと向かう。
いろんなこと、と冒頭に書いたのはなにも特別なことではない。
今日、起きた時に寝起きが良かったとか悪かったとか、そういう些細なことから生まれる。

寝起きが良かったから朝ランに出かける。
たまたま出勤時間の重なった、近所のパパ友に出会う。
パパ友はそこで「最近運動不足だなぁ、俺も走ってみるか」と感じ、会社帰りにスポーツ用品店へ寄りランニングシューズを買う。
気を良くしてその日はお酒を飲み過ぎてしまい、翌日、寝起きが悪いため、ランニングには出ない。
その翌日は雨、で買ったばかりのシューズを濡らすのに気が引けてやめる。
そのうちに仕事が忙しくなり、運動不足のことを忘れてしまう。
パパ友はだんだん運動というものを疎ましく感じるようになる。
ランニングシューズをヤフオクに出品する。
購入したのはなんと、朝ランに出た私。

私は、それ以降もランニングに精を出し、やがてフルマラソンに挑戦、無事に完走する。
パパ友は運動が嫌いになり、運動を趣味にしている人を敬遠するようになる。
以降、疎遠になり、街ですれ違っても目すら合わせようとしない。
私は、なにか悪いことをしてしまったのか、全くわからないという「視座」があり、パパ友は、私に対して嫌悪感を抱いていることを露わにするけれど、これが攻撃につながっているわけではないという「視座」がある。

ニーチェは、「事実はない、あるのは解釈のみ」と語った。
この、上記の例は私がテキトーに考えただけだけど、お互いの視座があり、価値観がある話だと思っている。
価値観を合わせるのって難しい。
価値観の合う人が結婚相手として相応しいとは一般的に思われているが、確かに金銭感覚や趣味に対する考え方、みたいなものは近しいほうが良いだろう。
だけど少しずれていたほうが、楽しさが増えることだってあるように思う。
相手のことを深く知り、それによって自分の反応に驚いたりして、新たな価値観を手に入れることだってできるかもしれないからだ。