あの空が見える

5月にしては、割と強く大きな粒の雨が降り注いでいる。
傘の、骨と骨の間をすり抜けるように流れてきた風が、私の頬をひんやりとした指先で撫でていく。
その風は湿気を含んでいる。顔がベタつく。少しだけ、それを不快と感じる。私は歩みを速める。

昨夜、ウイスキーを舐めながら綴った小説は、朝を迎えてから読み返したら、予想以上にさび付いていた。またダメだった。
夜は魔法がかかる。自分の描くストーリーに対して、盲目になってしまう魔法。
夜のせいで、私は自分がとびっきり最高な小説を書けると、信じてしまうのだ。

あぁ。

溜息をつきながら、黒に近いグレーの空を見上げようと傘を少し横にしたら、天から落ちてきた雨粒がメガネに当たった。
私はメガネをしていたんだと、その存在を再認識した。

人生は永遠なんてことはなく、有限なはずだから、私は私の小説を完成させなくては、という無駄な使命を自分に課しているのだが、いつまで経ってもとびっきりの小説を書くことができず、朝になり自分の才能に幻滅してしまう日々を過ごしている。

いや、知っているのだ、私に才能がない、なんてこと。
例えば、宮沢賢治のような、風景を言葉に綴る才能。
例えば、伊坂幸太郎のような、とても魅力的なキャラクターを作る才能。
例えば、角田光代のような、ドロドロとした人間関係の中で揺れ動く心情を言語化する才能。
例えば、フランツ・カフカのような。
例えば、ニーチェのような。
キリがない。

才能があるとか、ないとか、そういうのは誰かが決めた物差しなんだから、私には、私ができることを続けることが、とびっきりの小説を描く唯一の方法なんだと信じている。

それは何か。少しでも多くの文章を描き、自分の実力を付けていくことだ。
スポーツや、いくつかの芸術ごとは、そもそものスタートラインに立つためのハードルが高いことが多い。
それに引き換え文章を書くことは、手元にノートと鉛筆があれば始められるのだ。ノートがなければ、曇った窓だって良いのだ。ちょうど、湿度の高いこの季節は、窓だって十分なキャンバスになり得るのだ。ゴッホもきっと、病院の窓に、たくさんの星月夜を描いたであろう。

そう、磨くべきは、自分の感性と、それを言語化する能力だ。
言語化と言っても十人十色なのだから、正解はないのだ。私が宮沢賢治が至上と感じるのであれば、それが一番なのであろう。だけどそれはしょせん彼の模倣に過ぎない。私が彼と同じ星空を見ても、銀河鉄道が走っているようには見えず、ただの、散りばめられた星が全面に広がっているだけの、宇宙なのだから。
その、私が見る景色が、私の個性なのだろう。
その個性は途絶えることなく、私の命とともに、生を紡いでいく。

個性は、爆発しない。私と寄り添うだけ。
生まれてからずっと、私の傍にいてくれた、個性。

これが私の望んだ未来だったのか、と思い返すことが良くある。
意識を変えよう、後悔や、それに近い類の思考はなるべくしないようにしようと努めるようになってから、意識的に過去を振り返らないようにした。
そして同様に、未来を信じることもなくなった。
未来を信じるとは、自分の期待する結果になっているということだ。
私が今、期待している未来は、きっとやってこないのだから、それを信じることは後悔の一つになるような気がしている。
だから、未来、将来の展望については、考えないようにしている。
夢なんて。持たないほうが良かったのだ。それが後悔するきっかけを生んでしまうのだから。