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  • 6月21日 佐伯チズさんみたいな

    6月21日 佐伯チズさんみたいな

    佐々木俊尚さんの、「読む力」みたいな名前の本を読みながら通勤。
    彼はどっかのいい大学を出て、立派なジャーナリストとして名を馳せているのかと思ったら、大学は留年しまくった、と語られていて、妙な親近感を覚えた。
    さらに、二人目のお父さんが、彼が学をつけることに嫌悪し、本を読んでいるだけで怒られたという、いわば劣悪な環境に置かれていたと書いてあり、さらに、すげー!ってなった。

    人間、逆境の中で生きていくには、貪欲になんでも吸収しようという精神が必要なのかもしれない。
    彼のすごいところは、彼自身が成長しなければいけないと自分で自分の背中を押していたところだと思う。
    と、本の端っこを読んだ程度の私が語るのはアレなので、気になる方は佐々木俊尚でググっていただければ幸いである。

    人と比べる訳ではないけれど、私も、中学の頃から小説を読むのが好きだったなぁ、と思う。ほとんど忘れてしまったけれど、本を読む姿勢だけは今でも消えていないような気がする。Twitterをやるくらいなら本を読みます、という程度のマインドセットではあるけれど。
    本の中には、私の想像もつかないようなことが書いてあることが多く、まるでその人になったかのように、作者の思想を知ることができるのがすごい。
    それは小説だって同じで、登場人物のプロットというべきか、そこにどう個性を充てるかというところだって、作者の趣味みたいなものが見え隠れすることが多いだろう。
    私の一番好きな作家、伊坂幸太郎で言うところの、溌剌とした女性、みたいな。
    私のイメージだと佐伯チズさんなんだけど、彼女みたいな、竹を割ったような性格の女性って伊坂幸太郎、好きだよなー、と思いながら読んでいる。(貶してません。褒めてます

    そうやって、自分の好きなものって滲み出るんだろうなぁ。
    佐々木俊尚さんは今でこそガジェット好きなおじさんみたいなイメージだけれど、彼も彼なりの個性がきっとあるんだろう。

  • あの空が見える

    あの空が見える

    5月にしては、割と強く大きな粒の雨が降り注いでいる。
    傘の、骨と骨の間をすり抜けるように流れてきた風が、私の頬をひんやりとした指先で撫でていく。
    その風は湿気を含んでいる。顔がベタつく。少しだけ、それを不快と感じる。私は歩みを速める。

    昨夜、ウイスキーを舐めながら綴った小説は、朝を迎えてから読み返したら、予想以上にさび付いていた。またダメだった。
    夜は魔法がかかる。自分の描くストーリーに対して、盲目になってしまう魔法。
    夜のせいで、私は自分がとびっきり最高な小説を書けると、信じてしまうのだ。

    あぁ。

    溜息をつきながら、黒に近いグレーの空を見上げようと傘を少し横にしたら、天から落ちてきた雨粒がメガネに当たった。
    私はメガネをしていたんだと、その存在を再認識した。

    人生は永遠なんてことはなく、有限なはずだから、私は私の小説を完成させなくては、という無駄な使命を自分に課しているのだが、いつまで経ってもとびっきりの小説を書くことができず、朝になり自分の才能に幻滅してしまう日々を過ごしている。

    いや、知っているのだ、私に才能がない、なんてこと。
    例えば、宮沢賢治のような、風景を言葉に綴る才能。
    例えば、伊坂幸太郎のような、とても魅力的なキャラクターを作る才能。
    例えば、角田光代のような、ドロドロとした人間関係の中で揺れ動く心情を言語化する才能。
    例えば、フランツ・カフカのような。
    例えば、ニーチェのような。
    キリがない。

    才能があるとか、ないとか、そういうのは誰かが決めた物差しなんだから、私には、私ができることを続けることが、とびっきりの小説を描く唯一の方法なんだと信じている。

    それは何か。少しでも多くの文章を描き、自分の実力を付けていくことだ。
    スポーツや、いくつかの芸術ごとは、そもそものスタートラインに立つためのハードルが高いことが多い。
    それに引き換え文章を書くことは、手元にノートと鉛筆があれば始められるのだ。ノートがなければ、曇った窓だって良いのだ。ちょうど、湿度の高いこの季節は、窓だって十分なキャンバスになり得るのだ。ゴッホもきっと、病院の窓に、たくさんの星月夜を描いたであろう。

    そう、磨くべきは、自分の感性と、それを言語化する能力だ。
    言語化と言っても十人十色なのだから、正解はないのだ。私が宮沢賢治が至上と感じるのであれば、それが一番なのであろう。だけどそれはしょせん彼の模倣に過ぎない。私が彼と同じ星空を見ても、銀河鉄道が走っているようには見えず、ただの、散りばめられた星が全面に広がっているだけの、宇宙なのだから。
    その、私が見る景色が、私の個性なのだろう。
    その個性は途絶えることなく、私の命とともに、生を紡いでいく。

    個性は、爆発しない。私と寄り添うだけ。
    生まれてからずっと、私の傍にいてくれた、個性。

    これが私の望んだ未来だったのか、と思い返すことが良くある。
    意識を変えよう、後悔や、それに近い類の思考はなるべくしないようにしようと努めるようになってから、意識的に過去を振り返らないようにした。
    そして同様に、未来を信じることもなくなった。
    未来を信じるとは、自分の期待する結果になっているということだ。
    私が今、期待している未来は、きっとやってこないのだから、それを信じることは後悔の一つになるような気がしている。
    だから、未来、将来の展望については、考えないようにしている。
    夢なんて。持たないほうが良かったのだ。それが後悔するきっかけを生んでしまうのだから。

  • 内向的だって悪くないだろ

    内向的だって悪くないだろ

    相変わらずHSPとか内向的とかって記事があると読んでしまう。

    それ自体は悪いことではないのに(って言ってる時点で劣等感があるのが分かる)、つい、自分を肯定したいという気持ちが静かに眼を覚ます。
    そもそもそんな気持ちを劣等感として持っていたのは、いつからだろう。なぜだろう。それ自体、良いとか悪いとか、そういう次元の話ではないのに。

    子供の頃、物静かな自分は周りからシャイな人間だと思われていた。
    それがあまり良いことではないように思ったのは、クラスの人気者たちは明るくて活発、はきはき話す人が多く、それに引け目を感じていた。
    自分もそっち側になりたいと感じ、そして自分がもともと持っていた個性を殺し、明るく振舞うようになった。やがて、明るく振舞う方は、自分の個性として位置づけられるようになる。
    多分、他人から承認されたかったのだ。

    自分がもともと持っていた個性はどうなってしまったのか。
    そいつは静かに、自分の中に眠っていた。
    基本的にそいつはいつも眠っているが、時折、そっと目を覚ました。
    自分はそいつが起きたことに気づくと、そいつにそっと寄り添い、寄り添うことで自分がなんとなく温かな気持ちになることを認識した。

    本当は、そいつのことを忘れたくなかったのだ。
    忘れるべきではなかったのだ。
    大好きだったのだ。

    やがて、そいつは、ついに自分のものとして認められるようになる。
    今まで、卑下され続けてきたそいつは、市民権を得ると、自分に寄り添うべき個性として、存在感を現す。
    私は、両面の個性を認めることになる。

    外向的なものと、内向的なもの。
    そのどちらも自分の個性なのだ。

    どちらも、私が愛すべきものなのだ。