余命が分かったら、生き方を変えるだろうか。
いずれ死んでしまうのだから、に続ける言葉は、いったい何を。
私はこの言葉に、何をつなげるだろうか。
余命が分かっていたとしても、今の生活を変えることはしないだろう。
やりたいことをやってから死ぬ、というのは多くの人が抱く思いなはずで、「やりたいこと」に何が含まれるかは人それぞれだ。
行きたい場所、やりたいことなど、自分の好奇心に従った行動や言動が生まれてくるだろう。
私は、良くも悪くもやり残した思いというのはあまり多くなくて、涸沢ヒュッテをこの目で見てみたい、子供の成長を見たい、くらいなもので、それ以外については、うーん、と首をかしげてしまう。
もうやり残したことはない!という前向きな姿勢ではなく、もういいや別に、、という気分から来るものであるから、あまり幸せな形ではないのかもしれない。
冒頭に書いた、余命がもし分かったとしても、多分、生き方を変えないだろう。
一番大切に思っている家族たちと最期を迎えるまでいつも通り過ごし、別れに寂しく感じることもあるだろうけど、変えられないものだろうから、それを静かに受け入れるだろう。
余命が分かったら、多くの人は、怠惰に生きている生活習慣を変えるだろうか。
やりたいことをやってから死にたい、と、先延ばしにしていた自分の大切に思っていることに対してもっと真剣に向き合うだろうか。
多くの人が、真剣に向き合っていないように思う。
目の前にある刺激にばかり夢中になり、自分の本当に大切なことをきちんと、やり遂げようとする気持ちを持つべきだ。