タグ: 妄想

  • 7月5日 ドメインを持っているのは、本当に必要なんだろうか

    7月5日 ドメインを持っているのは、本当に必要なんだろうか

    最近はYouTubeやTwitterから情報を得ることの多い世の中になっているだろうから、ここで私が声を大にして人生について叫んだところで、誰の耳にも届かないんだけど、それじゃ私はここでなぜ書いているの?という質問に対しては、それは自分のために書いてます、自分の考えをアウトプットして可視化することで、私が何をどのように考えているかを理解することができるからです、と応える。
    となると、別に誰に見られなくても構わないわけで、自分の考えが尖っていようが、明後日の方向を向いていようがどうでも良く、私はここを私の日記として作っているだけで、人に見られたいとかそう言うことは考えていない。
    となると、わざわざブログ形式にしなくても良いのでは?Evernoteとかに日記を書いておけば良いのでは?と思ったりもする。
    そこはちょっと違っていて、誰も見ていないとしても、誰かに見られるかもしれないという考え方に基づきある程度は文章として成立させるよう思考が働くから、そこはこのままで良いと思っている。

    とは言え。とは言えですよ。
    ここでわざわざドメインとって、Wordpressを使ってブログを更新してるわけですが、そこでも葛藤があったりするのです。
    というのもそのドメインと、サーバーの保守として年間で1万ちょっとくらいかかっていて、投資対効果が出てるのか、というところは吟味しないといけないんですよね。
    上述したEvernoteも年間4000円とか使ってて、たまに小説とか、夢に見た風景を速記したりしてるくらいで、それで十分なのか、っていうところも、私の中にいる私の監査人は目を光らせているわけです。

    ここを始めた時は、ここでTシャツを売ったり、応募済みで落ちた小説を公開したりしようかと思ってたんですが、そんな野望みたいな妄想は未だ実行せず。いい加減小説は完成させたいところですけども。
    普段仕事してるとねー、なんて甘えた気分でいます。ちょっとでも毎日、ないし隔日くらいでは進めるような気持ちを持ってないとダメだよなー。HHKB買ったからせめてそのお金分くらいは稼げるような商売をしたいと思っています。
    商売かー。本業があるから、副業に手をつけるにはある程度の気力を残しておかないと、そっちへのやる気が湧いてこないんだよなー。なんて甘えた気分でいます。
    もっと若かったら、その気力みたいなものに勢いがついているのかもしれない。知らんけど。
    だけど、残りの人生で、一番若いのは今ですからね。林先生の名台詞じゃないですけども。

  • 笹の船で海を渡る | 角田光代 | ☆☆☆☆

    笹の船で海を渡る | 角田光代 | ☆☆☆☆

    第二次世界大戦中、少女時代だった女性の話。彼女は疎開中に出会った(と思われる)女性と人生を共にし、いろいろなものに執着しつつも、自分の人生を見つめ直して過ごしていく。

    角田光代の小説をKindle Unlimited で見つけてしまったので、取得してから没頭するかの勢いで読んでしまいました。

    小説についての感想

    過去は変えられないという言葉を何度かこのブログでも書いています。
    もうすでに過ぎてしまったことだから。

    だけど、よく考えたら、「過去」という事実は変えられないけど、「過去に対する考え方」だったら変えることができるよね。

    Photo by Keira Burton on Pexels.com

    この主人公は、自分の人生はあまり恵まれていなかったと考えていて、それがベースとなって被害妄想癖を持っているように感じました。
    自分に親切にしてくれる人や、娘、息子、夫というとても近い存在の人間に対してまで、信じられないところを持っていました。

    それはなぜか。
    その辺りを、ずっと考えながら読んでいました。

    疎開先ではお世辞にも恵まれた生活とは言えず、自分の理想とはだいぶかけ離れた境遇で、少女時代を過ごしていたこと。そこから、元の家に戻ってからも兄弟間で諍いを起こしてしまうこと。風美子という存在。全て、彼女自身で意見を持つことなく、周りに任せてきたことが裏目に出て、自分で決めなかったことを全部他人のせいにしてきたのかな、という点。
    この辺りは他人事とは思えず、読んでいて胸が痛くなる場面が何度もありました。

    人を信じること

    妄想が悪化すると人を疑うようになることがありますよね。
    SNSをやっていれば、他人からの評価が気になる。私は誰からも好かれていないのではないか。
    会社でも。家族間でも。
    疑いだすとキリがないですね。そして妄想は脳内で強い刺激となり、それを快感と勘違いしてしまうそうなんです。
    だから、人間は妄想してしまうのだとか。

    Photo by Felix Mittermeier on Pexels.com

    それは、意識的にリセットする必要があるんですね。妄想ばっかりしていると、疲れてしまうので。

    私は、リセットする方法としては、人を信じることを意識的にやっています。
    あとは、妄想していると気づいた時には、違うことを考えるようにして、その妄想から逃げるようにしています。
    そうしないと、いつまで経ってもそのことばかり考えてしまうからです。

    この主人公も、そういうところがあるように思いました。過去への執着、人への執着。それは妄想なので、いくら考えても答えは出ず、疲れるばかりです。何か違うことをしてみたら良かったのかもな。

    いやぁ、それにしても角田光代さん、これは2013年頃の作品だそうですが、相変わらずエグいの描くなぁと思いました。
    ちょっと心が痛むので、もう読みたくないです。
    言葉を使った表現にさすがだな、と思わせるところが多々あったので星4つです。

  • 深く考えずに生きることの潔さ

    深く考えずに生きることの潔さ

    考えすぎは良くない。
    だいたいのことにおいて考えすぎると、悪い方向へ行きがちである。
    特に、生きることの目的や、死ぬことへの不安、他人とのこと、この辺りを考えると良くない。
    昨日のブログでも取り上げたが、過去も良くないだろう。

    人間だもの、それらについて何か感じ、そこから何か考えていくことは自然なことなのだと思う。
    ただそこで、あまり考えすぎないようにするべきで、もっと言うとそれらから何も感じないことが大切だ。

    ただ、そのあたりから創作される物語は多い。
    多分、心の琴線に触れやすい敏感な箇所で、人々はそれを観ながら鑑賞に浸ったりするのが楽しいから、作品になりやすいのだろう。
    過去を想う作品。このテーマだけでも良いストーリーが描けそうな気がする。

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  • 余命

    余命

    余命が分かったら、生き方を変えるだろうか。
    いずれ死んでしまうのだから、に続ける言葉は、いったい何を。

    私はこの言葉に、何をつなげるだろうか。
    余命が分かっていたとしても、今の生活を変えることはしないだろう。
    やりたいことをやってから死ぬ、というのは多くの人が抱く思いなはずで、「やりたいこと」に何が含まれるかは人それぞれだ。
    行きたい場所、やりたいことなど、自分の好奇心に従った行動や言動が生まれてくるだろう。

    私は、良くも悪くもやり残した思いというのはあまり多くなくて、涸沢ヒュッテをこの目で見てみたい、子供の成長を見たい、くらいなもので、それ以外については、うーん、と首をかしげてしまう。
    もうやり残したことはない!という前向きな姿勢ではなく、もういいや別に、、という気分から来るものであるから、あまり幸せな形ではないのかもしれない。
    冒頭に書いた、余命がもし分かったとしても、多分、生き方を変えないだろう。
    一番大切に思っている家族たちと最期を迎えるまでいつも通り過ごし、別れに寂しく感じることもあるだろうけど、変えられないものだろうから、それを静かに受け入れるだろう。

    余命が分かったら、多くの人は、怠惰に生きている生活習慣を変えるだろうか。
    やりたいことをやってから死にたい、と、先延ばしにしていた自分の大切に思っていることに対してもっと真剣に向き合うだろうか。
    多くの人が、真剣に向き合っていないように思う。
    目の前にある刺激にばかり夢中になり、自分の本当に大切なことをきちんと、やり遂げようとする気持ちを持つべきだ。

  • 悪い妄想を止めるべきか、続けるべきか

    悪い妄想を止めるべきか、続けるべきか

    誰にでも裏の顔があると思っていて、だけどそれを妄想していても何も良い結果は生まれないと思う。

    極端な言い方をすると妄想っていうのは暇つぶしの一つなのだから、誰かが私を嫌っているのではないか、と思い始めたら、それは暇潰しと一緒なのだ。
    他にもっと、考えることはあるだろう。
    だが、いったんそっち側のことを考え始めてしまうと、途端にそれだけで心が満たされてしまう。
    自分で止めようとしても、簡単に止めることができない。

    これは一種の、自分が培った思考プロセスなのだ。
    悪い憶測が悪い思い出を呼び出し、そして嫌な気分になる。
    同じように思考が展開したことは今までなかっただろうか。
    その、今までの思考プロセスに、新たな記憶(例えば嫌な気分を被った場合など)がプラスされると、負のスパイラルと化する。困ったものだ。

    これはどうしたら良いのか。

    二つの選択肢がある。

    強制的にやめる方法と、そのまま思考を展開させる方法。
    どちらが良いのかは分からない。
    私も同様の思考展開を何度も抱いたことがあるが、どちらにしても、あまり成功したという思いには至っていない。

    強制的にやめる方法というのは、簡単に言うと違うことを思い浮かべる。
    そうすることで、いつもの悪い思考展開を止めることができる。
    人間は一瞬でも違うこと、それも自分の興味があることを考え始めると、それまで考えていたことが消えてしまうように感じる。
    だからこれは有効な方法だろうと思う。
    ただ、そんな簡単に違うことが思いつくのだろうか。
    私が何度かやっていて感じたのは、違うことを考えようとしても、元々くすぶっていた思いが完了していない、納得していないから、結局戻ってしまうように感じる。

    だから、二つ目の選択肢があると思っている。
    これもまだ、自分の中で納得していない方法ではあるけれども。
    上述したように、一度思考が展開されていくと、それを容易に止めることはできない。
    よほどのこと、それこそ天変地異でも起きないと無理であろう。
    そして自分の意思とは違うところで思考が展開されているようにも感じるので、それをあえて止めず、流してみる
    そうすると、ある時、納得する瞬間が訪れる、ような気がする。
    気がする、というのはまだ自分の中で納得できていないから。
    というのも、悪い記憶に新たな悪い経験をプラスし、その悪さを増幅したところで、きっと記憶にしまい込まれるのだろう。それをまた新たに引っ張り出すことになるはずなのだ。
    だから、そうすると、また同じように、悪い経験をプラスし、雪だるま式に大きくしていって、終わりはいったいどこなのだろう、となってしまう気がする。

    そもそも、悪い思考を展開させることは、悪いことなのだろうか。

  • 妄想と刺激

    妄想と刺激

    あの人は自分のことを嫌いなんじゃないかという、妄想。
    いくら制御しようとしても、妄想を止めることができず、どんどん膨らんでいく。
    そして最終的には、心を病んでしまったところで、その妄想は止まる。
    止めるのではない。止まるのだ。
    自分が考えられなくなったところまで行ってしまうから、自発的に止めることは難しい。

    だが、ちょっと考えてみたい。
    本当に、あの人は、自分のことを嫌いなのだろうか。
    きっと嫌いなはず、というのは自分が描いた妄想に過ぎないのだ。
    もしかしたら、あの人は、自分のことをそんな風に、嫌いにだなんて考えていないかもしれないのだ。
    ただ、自分が、妄想を通して刺激を受けたいがために、その妄想をやめていないだけなのではないか。

    生き物は、刺激を求める。
    一定の強さで刺激を受け続けると、やがてその刺激はマンネリ化し、もっと過激なものを欲しがっていく。
    妄想はやがて、嫉妬となる。
    ただの思い込みなのに。
    どこかで断ち切るべきなのだ。
    あの人は、自分のことを嫌いなのかどうかは関係なく、自分はあの人に好かれるために生きているのではない、という意識を持ち、その妄想を断ち切る。
    ゴールは海の底に沈むことではなく、妄想を断ち切り、別の方角にある刺激を受けること。
    そっちに目を向けていく。
    それには変化を伴う。

    人間は妄想が好きで、変化を嫌うから、なかなかそっちには気持ちが入っていかない。
    だけど、そっちにしていかないと、深海から出られなくなってしまうのだから、まだ息が続いているうちに、意識を。

  • 恋なんてただの思いこみなのに、

    恋なんてただの思いこみなのに、

    恋は、自分で勝手に作り上げたイメージから始まる。

    あの人の表情が好き、だからもっと見ていたい。
    優しくされた。もしかしたら好きなのかも。
    これらは全部、妄想。

    しかもその思いの先にあるもの、恋のゴールが「好きな相手と結ばれること」だとすると、自分一人では到達することができないのは明らかだ。
    相手の気持ちも、同じ方向に向かわなくてはいけないのだから。

    それなのになぜ、恋をしたがるのだろう。

    人間の本能だから。
    そんな理屈じゃ、納得できない。
    そんなの、義務教育で習っている。

    きっと恋は、嬉しいからだ。悲しいからだ。

    成就すると、きっと嬉しい。生きてて良かったという気持ちになる。
    失敗すると、きっと悲しい。生きてる価値なんてないという気持ちになる。

    成就でも失敗でも、その瞬間を越えてしばらく経つと、あれは一つの経験になったな、という気持ちにだってなるのだ。

    つまり、満足するのだろう。

    良くたって悪くたって、自分が満足することになる、はず。

    けどね、わかる、失敗、怖いよね。

    あの人、自分のことを好きになってくれるか、分からない。
    50%の確率とか、そういうのすらも、分からない。
    なぜかと言うと、思い込みだから。

    相手の気持ちをある程度推し量ることはできても、確かめるには、恋のゴールに向けて進めるしかないのだ。
    確かめたいから、みんな、恋をしていくのだろうか。

    小さな一歩だけど、それは、やがて、ゴールに向けた大きな一歩になるのだろう。
    小さな一歩、ものすごく怖いけど。

  • 妄想は快感

    妄想は快感

    目の前にある事実に目を向けず、自分の頭の中で描いていることに尾ビレをつけて妄想していることがあります。
    あります。って言ってますけど、もしかしたら人生で過ごす時間の半分以上、妄想に耽る時間なのかもしれません。

    君は何について悩んでいるのだね

    人の悩みは多種多様です。人生って難しい。
    過去の栄光を引きずる。対人関係。
    アドラー心理学について描かれていた著書「嫌われる勇気」では、人の悩みは対人関係、と言い切っていましたが、それも言い過ぎではないのかなと思ったりします。

    そうなんですよね、例えば、「あの人は私のことを嫌いなのかもしれない」という妄想。私も今まで生きてきて何度もこの悩みに苛まれてきました。その度に悩み、時にはその人から離れ、なんとかここまで生きてきたのかなと思います。

    多分、同じような悩みを抱えている人、多いのではないかなぁ。
    「あの人に良く思われたい」というのは、根底には承認欲求があって、承認欲を満たすというのは人間の本能に近いところにある欲求(と私は思っている)だから、それ自体は避けることのできないものなのだとは思うのですけど。
    承認欲求から引き起こされる行動、言動というのは、それ自体が自分にとって心地良いものなのであれば否定されるものではないと思うんですけどね。
    ただそれによって、「自分は嫌われているのでは」という不快な思いを抱くのであれば、それは使い方が違うだろ、と。ついそっち方面で考えてしまいがちなのは理解します。人間だもの。

    だけどそれは、ただの妄想にすぎないんだよな。妄想。あの人は、私のことを嫌いなのかもしれないけど、もしかしたらそれは過去のことで、今は私のことを嫌いではないのかもしれない。
    だって、過去のあの人と、今のあの人では、違う人間になっている可能性があるから。

    もっと他に考えることがある

    だけど大事なのは今で、自分の未来は自分の意思で変えることができますが、他人がどう思っているかはその人に乗り移ってみないとわからないし、そんなこと、むしろ気にするのは時間の無駄なのではないかな。

    と、ここでわざわざ書いている時点で、「私は他人の目を気にしています」と宣言しているような気もするけどね。

    多分、この、「妄想をやめる」と、「他人の目を気にしない」っていうのは、私の思考プロセスを変えるということだから、すぐにできることでは無い気がします。
    だけど、いつも意識することで考え方って変わっていくと思うし、気づいた時にやらないといつまで経っても変わらないね、ってなっちゃうから、柔軟に変えていきたいです。

  • 自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自分にはなにひとつ誇れるものがなくて、小さな人間だよなぁと常日頃感じていました。
    そういう風に気づいたのは、中学生の頃です。

    それは慢心になるための、第一歩に過ぎなかった

    https://www.amazon.co.jp/gp/product/B012EU8CD0?pf_rd_r=0A0NF1TVW6W488S6V78S&pf_rd_p=3d55ec74-6376-483a-a5a7-4e247166f80b&pd_rd_r=ff43f92e-a25e-45cd-b87d-486fb31958cf&pd_rd_w=5uX6c&pd_rd_wg=fEYBn&ref_=pd_gw_unk

    この本によると、自信をつけるということは、言い換えると他人よりも優位に立つように見せることの一つなのだと。
    自信を持つと多弁になり、自分が培ってきた知識を披露することになるだろうから、そうすることで自分は良くしっている=すごい、とアピールすることに繋がるのかな。

    ブッダの考え方にてらせば、自信がある・ないというのも「判断」にすぎません。
    「判断」は妄想の一種ですから、すぐに吹っ飛びます。ハードな「現実」を前にして、弱気になったり、緊張したり、自信喪失したりといった具合です。

    とは言え、自信をつけたい!をモチベーションにして、自分を成長させていくという過程は、人間が成長していくためにはとても自然なことのように思えるから、多分使いようなんだろうな。

    逆に、自信がないというのは?

    自信がないから、、、と言いながら、与えられた良い機会を遠慮してしまうことがあります。
    この本によると、自信を持つ機会にはいつまでたっても至らないのだから、今現在、持っている能力を使ってただやってみれば良いのだと。
    そこで失敗してしまったら、失敗してしまった、残念、次頑張ろうと思えば良いだけなのだ、と。

    ものすごくシンプルな考え方ですね。

    自信がないということについて、見方を変えて考えてみると、失敗した時の言い訳を最初から用意しているように思えてしまうんだよなぁ。

    私はずっと自信がないから、、と言って様々なことにチャレンジしてこなかったので、それは言い換えると良い機会を自分から遠慮してしまっていたんだろうな、と。様々なことにチャレンジしていたら、もしかしたら、今とは違う自分を、自分の特性を手に入れていたかもしれません。

    時間は戻すことができないので、この先を見据え、自信がないとは言わないようにする、自信を持つということは一生やってこないのだから、今持っている能力を生かしてチャレンジしていくように、考えを改めていきたいなぁと思います。