タグ: 思い込み

  • 未来は僕らの手の中にあるのかもしれぬ

    2046年に迎えるシンギュラリティという現象のことを最近、よく考えることがあり、それはつまり人工知能が人間の能力を上回ることらしいのですけれど。

    機械が人間をコントロールするのは、今に始まった事ではないと思うんですよね。
    きっかけは産業革命だと思っていて。
    機械仕掛けの工場で働く人間は、つまり機械に操られているってことじゃないですか。
    今でいうとライン生産をしている工場なんかはみんなそれだと思うんですよね。

    何が言いたいのかというと、2046年という中途半端な年に、なにか恐ろしいことが起きるのではないかという、あおり。
    そのあおりは、きっと誰かが何かで得をするために放ったデマであって、それを鵜呑みにしてこわいこわいって言っている人は、多分他のいろんなものでも怖い怖いと世迷言を言っているのではないかと思うのです。

    もしかしたら、コロナワクチンもこわいこわいって言っているのかもしれないね。

  • なんの役にも立っていない

    なんの役にも立っていない

    なるべく客観的に、今自分の置かれている環境を見渡してみて、それに対して今の自分が、その環境に対して何か役に立つようなことを担っているのだろうかと考えた時に、その答えが、何一つとして浮かんでこなかった。

    つまりそれは自分が今、この地球という環境に対してなんの役にも立っていないということを意味する。むしろ空気を吸い何かを食べ、つまり地球のリソースを無駄に消費するだけの生き物ということになるのであろう。

    私はいなくなった方が良いのだろうか。
    生き物は食物連鎖などで、この地球という環境に対して役に立っている。みんなそれぞれ、何らかの役割を担っている。
    それに比べて私は。私は、無駄に、この地球がもたらすリソースを食い荒らすだけの生き物なのではないだろうか。

    ここでもし私がなんらかの宗教に対して敬虔な信者だったとしたら、これを神様に懺悔することで、心が救われるのかもしれない。
    だが、残念ながら私は明確な信心を持っていない。
    だから、そのやり方で救われることは、おそらくないのであろう。

    だけど私は、まだ死ぬわけにはいかない気がしている。
    地球に悪影響を及ぼす存在なのかもしれない。
    上述したように地球がもたらす貴重なリソースを食い荒らすだけの生き物なのだから。
    そんな私でも、生を全うするという役割を担っているのだ。
    それが地球に対してどんな貢献をするのか、全く分かっていない、けれども、生きる。

  • 脇役としての生き方

    脇役としての生き方

    表に出て、ばーんと活躍する生き方は好きではない。
    裏で、そういう人をサポートする方が好きだ。

    だけど、そうも言ってられない。
    年齢を重ねてくると、自然とそういうシーンに出くわすこともある。
    なんとなく、人当たりの良いところを上司に買われ、他方との調整役を命じられることもある。
    最初のうちは、気が張っているということもあり、緊張しながらやり取りをしていく。
    そのうちに他方と仲良くなっていき、緊張の糸がほどけ、私の得意な雰囲気へと流れていく。

    そうするとどうなるか。
    気を良くした上司は、周りは、私のそういうところを見て、他の同じような業務を回す。

    私も、これが私のストロングポイントだ、と半ば勘違いをし、バキバキとこなしていく。
    こうして経験は積まれ、実績も増え、私はそれ系の強い人間となっていく、

    ように見えるが、本来はあまり、こういう表に出るのは好きではないのだ。
    表に出る人に資料を作る・渡す、などのほうがよほど好きなのだ。

    だから、ひずみが生まれる。私自身の中に。

    こういう、他とのやり取り系に強いのは自分でも理解している

    が、

    それが好きではないから、本来はあまりやりたくない、というジレンマを抱えたまま生きている。

    最初から、それ、やりたくありません!と言えれば良いのだが、
    既にその、私がそういう系に強いという認識が周りに育まれているため、そうなることはない。

    そのうちに麻痺し、私は、私の意思を無視して続けていけば良いのかもしれないけど。

    それが果たして良いことなのかは分からない。というか、良くないだろ。

  • 自由って難しい

    自由って難しい

    自分は自由だ。

    自由ってなんだ。

    自由、っていう文字を何度も繰り返し、その文字自体を凝視していたら、じゆうって読めなくなってきた。

    森博嗣によると、自由は、自分が計画した通り、予定した通りに生きること、だそうだ。

    こんなにシンプルに、自由の意味を定義できるなんて!と、私は彼の才能に嫉妬した。

    自由について少し考えたい。

    生活な自由と聞いて連想するものは、たしかに、自分が思い通りに生きていることにつながる。思い通りというのは言い換えれば計画した通り、予定した通り、になるから、森博嗣の言い方はまさに的を得ているように感じる。

    難しい。
    自分が計画できなくてはいけないし、
    計画を遂行できなくてはいけない。
    計画するためには気力が必要だし、
    遂行するためには気力、体力が必要だからだ。
    つまり自由を得るために、準備が必要なのか。
    自由を得るために、体力作りをしなければいけない場合があるのか。(計画した内容が体力を必要とする場合)

    休日、家でダラダラすることだって自由だ。
    だがこれも同様で、ダラダラするための気力が必要なのだろう。
    私は日々、何か成果を残したいタイプなのでダラダラすることがあまり得意でなく、なので、私にはダラダラするための気力が足りていないのだろう。だから、ダラダラするための気力を準備する必要がある。

    強引な展開だろうか。私には強引に見えない。

  • 深く考えずに生きることの潔さ

    深く考えずに生きることの潔さ

    考えすぎは良くない。
    だいたいのことにおいて考えすぎると、悪い方向へ行きがちである。
    特に、生きることの目的や、死ぬことへの不安、他人とのこと、この辺りを考えると良くない。
    昨日のブログでも取り上げたが、過去も良くないだろう。

    人間だもの、それらについて何か感じ、そこから何か考えていくことは自然なことなのだと思う。
    ただそこで、あまり考えすぎないようにするべきで、もっと言うとそれらから何も感じないことが大切だ。

    ただ、そのあたりから創作される物語は多い。
    多分、心の琴線に触れやすい敏感な箇所で、人々はそれを観ながら鑑賞に浸ったりするのが楽しいから、作品になりやすいのだろう。
    過去を想う作品。このテーマだけでも良いストーリーが描けそうな気がする。

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  • 余命

    余命

    余命が分かったら、生き方を変えるだろうか。
    いずれ死んでしまうのだから、に続ける言葉は、いったい何を。

    私はこの言葉に、何をつなげるだろうか。
    余命が分かっていたとしても、今の生活を変えることはしないだろう。
    やりたいことをやってから死ぬ、というのは多くの人が抱く思いなはずで、「やりたいこと」に何が含まれるかは人それぞれだ。
    行きたい場所、やりたいことなど、自分の好奇心に従った行動や言動が生まれてくるだろう。

    私は、良くも悪くもやり残した思いというのはあまり多くなくて、涸沢ヒュッテをこの目で見てみたい、子供の成長を見たい、くらいなもので、それ以外については、うーん、と首をかしげてしまう。
    もうやり残したことはない!という前向きな姿勢ではなく、もういいや別に、、という気分から来るものであるから、あまり幸せな形ではないのかもしれない。
    冒頭に書いた、余命がもし分かったとしても、多分、生き方を変えないだろう。
    一番大切に思っている家族たちと最期を迎えるまでいつも通り過ごし、別れに寂しく感じることもあるだろうけど、変えられないものだろうから、それを静かに受け入れるだろう。

    余命が分かったら、多くの人は、怠惰に生きている生活習慣を変えるだろうか。
    やりたいことをやってから死にたい、と、先延ばしにしていた自分の大切に思っていることに対してもっと真剣に向き合うだろうか。
    多くの人が、真剣に向き合っていないように思う。
    目の前にある刺激にばかり夢中になり、自分の本当に大切なことをきちんと、やり遂げようとする気持ちを持つべきだ。

  • これが誰かに向けた手紙だとしたら

    これが誰かに向けた手紙だとしたら

    こうして公開するということは、誰かに向けた手紙と同様なのだ。
    今の自分が抱いてる思いが、見知らぬ誰かに届くことだってある世界。

    まだインターネットがなかった少年時代、ボトルに手紙を入れ海に流すという、ボトルメールに言葉では言い表せないほどの憧れを感じていた。
    平たく言うとロマンなのだろうけど、それが今、こうして、実現できている世界にわたしは生きている。

    こうして、誰かに見られることを意識すると、途端に書きたいことが書けなくなるような、窮屈な思いを抱いてしまう。
    それはきっと自尊心から来るもので、良く見られたいという思いが根底にあり、だからこそ下手な文章を書けないと、思ってしまう。

    自分のサイトなんだから、自分の描きたいように書いたら良いではないか。自分を飾る必要なんて、そんなものは幻想なんだから。
    自分がいくら着飾ったところで、素の自分を変えることなんてできないのだから。

  • 正義はその時の気分だろ

    正義はその時の気分だろ

    私が考える「正義」とは、結局そのタイミングにおいて抱く、その時の気分によって決まるんでしょ、と思います。

    ずっと同じ気持ちを抱きながら生きていくのって案外難しくて、情報を手に入れることにより自分の考えが変わることがあります。あります、っていうか、結構頻繁にあるんじゃないかと思います。
    ずっと同じ気持ちを抱くのって、吉野家の牛丼はいつ食べても美味しい、くらいなものですよね。
    味覚か。味覚は子供から大人になると割と変わるけど、30歳をすぎたくらいからはあまり変わらない気がします。

    政治が悪い、首相が悪いというのは、いつの時代も言われることです。今ですとコロナウィルス対策の是非についてマスコミが毎日のように報道していますが、ストレートに言うと今の政治が進めているやり方が悪い、というように描かれているように見えます。
    私は直接的な当事者ではないので、100%その心情を理解することはできないですが、飲食店やホテル・旅館を経営する方々が考える正義とは、今でいうとGoToキャンペーンを止める政治が悪い、なのかもしれません。
    それによって飲食店、ホテル、旅館への客足が止まってしまうから。
    そりゃそうですよね、GoToキャンペーンによって上がるはずだった売り上げが上がらなくなってしまったんですから。

    大切なのは自分はどう考えるか」をじっくり考えることなのかな

    テレビを見てれば政治が悪い、の一辺倒です。
    上記のGoToトラベル中止が悪い悪いと叫ばれていますが、GoToトラベル中止発表前は、GoToトラベルが悪者のように叫ばれていたように感じます。
    結局なにがどうなればマスコミは騒がなくなるのかな。
    彼らの考える「正義」というのは、いったいどういうことなんだろう。

    と、テレビをずっと見てても、結局今の政治が悪いとしか思えないだけなので、テレビを見るのをやめ、自分で考えることにしました。

    私は、私の正義を、どう考えるのか。

    で、到達したのがこの投稿のタイトルです。
    結局その時々でしか自分の正義って作られないのだから、その時にあった正義を選び、生きていくことになるんだろうな。
    というか、そうしながら生きてきたんだろうな。

    正義って言い方をしてるからよくわからなくなっているのですけど、人生を渡ってくる中で、選んできたもの、それらはその時々で自分が考えた正義に基づいて、選択してきたんだろうな、と。

    大事なのは、今、自分はどういう正義なのか。

  • 自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自分にはなにひとつ誇れるものがなくて、小さな人間だよなぁと常日頃感じていました。
    そういう風に気づいたのは、中学生の頃です。

    それは慢心になるための、第一歩に過ぎなかった

    https://www.amazon.co.jp/gp/product/B012EU8CD0?pf_rd_r=0A0NF1TVW6W488S6V78S&pf_rd_p=3d55ec74-6376-483a-a5a7-4e247166f80b&pd_rd_r=ff43f92e-a25e-45cd-b87d-486fb31958cf&pd_rd_w=5uX6c&pd_rd_wg=fEYBn&ref_=pd_gw_unk

    この本によると、自信をつけるということは、言い換えると他人よりも優位に立つように見せることの一つなのだと。
    自信を持つと多弁になり、自分が培ってきた知識を披露することになるだろうから、そうすることで自分は良くしっている=すごい、とアピールすることに繋がるのかな。

    ブッダの考え方にてらせば、自信がある・ないというのも「判断」にすぎません。
    「判断」は妄想の一種ですから、すぐに吹っ飛びます。ハードな「現実」を前にして、弱気になったり、緊張したり、自信喪失したりといった具合です。

    とは言え、自信をつけたい!をモチベーションにして、自分を成長させていくという過程は、人間が成長していくためにはとても自然なことのように思えるから、多分使いようなんだろうな。

    逆に、自信がないというのは?

    自信がないから、、、と言いながら、与えられた良い機会を遠慮してしまうことがあります。
    この本によると、自信を持つ機会にはいつまでたっても至らないのだから、今現在、持っている能力を使ってただやってみれば良いのだと。
    そこで失敗してしまったら、失敗してしまった、残念、次頑張ろうと思えば良いだけなのだ、と。

    ものすごくシンプルな考え方ですね。

    自信がないということについて、見方を変えて考えてみると、失敗した時の言い訳を最初から用意しているように思えてしまうんだよなぁ。

    私はずっと自信がないから、、と言って様々なことにチャレンジしてこなかったので、それは言い換えると良い機会を自分から遠慮してしまっていたんだろうな、と。様々なことにチャレンジしていたら、もしかしたら、今とは違う自分を、自分の特性を手に入れていたかもしれません。

    時間は戻すことができないので、この先を見据え、自信がないとは言わないようにする、自信を持つということは一生やってこないのだから、今持っている能力を生かしてチャレンジしていくように、考えを改めていきたいなぁと思います。