タグ: 生き方

  • 4月14日

    自分の価値観を、揺るがずに持っていることにポリシーと感じているような人は、私からすると合わないのかもしれない。

    人によるから、私はその人に対して良いとか悪いとか、そういう判断ができない。私の判断なんてなんの意味もないから。自分の機嫌を取りたいだけだから。

    だから、頑固な人、周りに合わせようとしない人、努力しない人には、今までずーっと「なんであの人は協力しないんだろう」と一人で悔やみ、がっかりしていたのだけれど、

    それは私がその人に対して期待をしていたからであって、多分、ではなくきっと、私の思惑が間違っていたんだと思う。

    そうすべきじゃなかった、ということ。

    期待すんな、と1週間に20回くらい考えることがあって、それはつまり私が、人や、組織に対して期待してしまっていることの裏返しなのであるからなのだけど、少なくとも私の意識を変えるだけで、もしかしたら世界が変わってみてるのかもしれない。

    同じように、厭世的な考えをずーっと持っていて、この世に対してなんの未練もありません、今すぐに命が終わっても良いです、と考えていたんだけど、

    一方で、

    例えば、もうすでに別れてしまった人に対して、もっと優しくすべきだったとしても、その人が死別してしまっているとしたらすでに手遅れで、それは後悔の一つで、

    その点で、

    私はまだ会いたい人がいるし、その人と会って話がしたいし、その人の顔が見たいし、てかずーっと見ていたいし、それはつまり家族であったり旧い友人であったりするんだけど、

    そういう人たちとの、黄色いTシャツの番組みたいな言い方をすると「絆」というものが思い浮かぶんだけど、その絆があるから、まだ死にたくないな、と思うようになりました。

    ただそこにも、他人には期待すんなよ、ということがあり、私が会いたいからと言って、向こうも同じように会いたいと思っているかは彼らの勝手なのだから、私はそこに期待しちゃいけないんだな、ということは忘れないでいたい。

  • 生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    誰かに認められるために生きているわけではないのだ。そういう意味では、自分に認めてもらいたいという気持ちはあるのかもしれないけれど。自分以外、家族を含めた他人から認めてもらうことは、生きることにおいて全く必要ではない。

    認めてもらうって。
    だいたいその言い方。
    自分が下にいるということではないか。

    抗え。そんな気持ちに抗うことで、自分は誰にも認めてもらう必要がなく、等身大で生きることができる。自分の力を全部使って、認めてもらいたいという思いをかき消すのだ。
    そうやって、自分を応援しないとやってられない。酒を飲んでも、気分が紛れるだけで、それがきちんと晴れることはない。

    子供は、そういうことを考えずに、一心不乱に自分のやりたいことをやる。だんだん思春期になっていくにつれ、学力や体力など、他の同級生と差が見えてきてしまいそれが発端となり自分のランクが分かる。そこで、だんだん、卑屈になっていく。私はそういう人間だった。強い人間に靡く、ただの、ちっぽけな人間。人間と呼んでも良いのだろうか、塵みたいな存在だから、よく分からない。

    生きる権利とは。
    自分はいったい、この世に対してなにか貢献しているのだろうか。

  • 辛い過去との付き合い方

    辛い過去との付き合い方

    過去とは程よく付き合って行く必要がある。

    人間は良い思い出や嫌な思い出、どっちもたくさんあるはずで
    過去の引き出しを定期的に見に行ってしまうから
    強く思い出すものとそうではないものの差が生まれてしまうのだけど

    良い思い出が入っている引き出しだけと付き合っていければいいのだけど
    実際には嫌な思い出の方も定期的に見に行ってしまうことがあるので
    嫌な思い出には、どうしたっていつまでも付き合っていくようになってしまう

    良い思い出、嫌な思い出は相対的なものだから、
    なにか基準があるはずである。
    だいたいは「自分が良い気分になったか、そうじゃないか」だったりするので
    深く傷ついた事柄は、嫌な思い出の引き出しにしまわれていることが多く
    その思い出を連想させるような物事、例えば季節とかがやってくると
    そのことを思い出してしまう。

    定期的に思い出すのは、きっと生理反応だから
    これはもうしょうがないのかな。

    完全に忘れ去るには、その引き出しの位置を忘れるしかなくて
    そうするには、「思い出すことをやめる」しかない。
    だけど上述のような季節とか、その思い出を連想させるような物事に
    再び出会ってしまうことで、お腹が空いたらなにか食べたくなるくらい自然に
    その引き出しを開けてしまうのではないかな。
    ここが難しい。
    多分、訓練が必要なのかな。

    その季節がやってきても、思い出さないための訓練。

    いったいどんな訓練が必要なんだろう。

    ぱっと思いつくのは、新しい思い出を作り、塗り替えること。

    例えば、ちょうど今の季節、自分にも様々な思い出があって
    いろいろ思い出すことがあるんだけど
    この季節に、家族とキャンプに行ったとしよう。
    そこで、うーん、焚き火で焼き芋をやりました、というイベントを
    新たに作ることで過去、同じ季節に季節に作られた嫌な思い出は
    きっとその焼き芋に負けて、だんだん影を潜めていくはず。

    ただ、嫌な思い出を忘れることが、本当に良いことかっていうのは、考える余地がある

    私が今、ぱっと思いつくような嫌な思い出は、
    まぁ忘れるべきだろうなと思うものの
    嫌な思い出と一緒に出てくる人間だったり、イベントについては
    その人間やイベント自身が持つ個性とか、良い面っていうものもあるはずで
    それらを愛することをやめてしまうのではないかなと思うんだよなぁ

    愛することの反対は、興味を失うことになるから

    いや、そこは、その人間やイベントに対して優しくする必要ないか

    ホントは全部愛したいんだよなぁ

    だけどその愛を持ち続けることで、自分が辛いと
    感じてしまうことが持続してしまうってことになるもんな

  • 自己肯定感を高めようと意識するのをやめた

    自己肯定感を高めようと意識するのをやめた

    自己肯定感を高めよう高めようと日頃から考えていたけれど、それは難しいということが分かった。
    HSPから来る、自分自身への低い評価は根本的には治らないものなので。

    違う。治る治らないという話ではない。もともと悪かったものではないはずだから。
    つまり、治らない。悪くないから、治すという感覚が間違っている。
    もしくは、治す(というより正す)べきは私の感覚。
    自己肯定感を高く持っているほうが、人生を軽やかに過ごせるだろうという価値観。
    残念ながらそれは相対的なものだから、いくら自分の中で高めようと意識したところで、その時点で見えている屋根は偽物で、実際は青天井なのだから。
    どの程度高く持っていれば、軽やかに過ごせるのか、という話ではない。
    そもそも軽やかって。自己肯定感をどう捉えているかと、人生を軽やかに過ごすかは関係ない。
    そんなのを意識しないほうがむしろ、軽やかに過ごせるのではないだろうか。

    ここのところHSPに関する本を何冊か読んでいて、HSPな人の傾向として見えるのは、私だけかもしれないけれど「背中を押してほしい」「後ろから支えてほしい」という印象。
    分からないけれど。私だけがそんな風に感じているのかもしれないけれど。
    外向的が偉い、みたいな文化、言い方がアレですけどリア充はみんな外向的、みたいなところを考えると、どうしてもそっち側を目指すべき、と育ってきたように感じていて、つまりそれって自分が肯定されていないのではないかと勝手に考えてしまうところがある。裏を返すと内向的な人は人生が充実していないのだ、と。
    だから、「生きていいんだよ」「生き方、感じ方は間違ってないよ」という形で、自己肯定感を持つだけで十分なのではないかと思う。
    そこからの、高めるとか、低いとか、そういう度合いの話ではなく、YesかNoしかないだろ、と。
    「自己肯定感を高める」って言うから、あー無理だわ、ってなってしまう。
    そうじゃなくて、「自己を肯定する」だけでいいんでしょ。それなら、なんとなく、できるかな、意識してみようかな、ってなれる、気がする。自信ないしどうせまたすぐクヨクヨするんだろうけど。

    ただ、タチが悪いのはこの「背中を押してほしい」「後ろから支えてほしい」に対して、「押すぞ!」「支えるぞ!」と私以外からの暖かくて優しい人から投げかけてもらったとしても、私自身は決して満足しない。残念ながら。非常に残念。別に皆さんを信じていないわけではない。優しさを、無駄にしているようで申し訳ないのだけれど。そこでもまた自己嫌悪になってしまうけど話が発散するのでこの辺で。
    私は、私自身から全力で押してもらい、支えてもらうまでは、ずっと疑い続けるのだ。
    そんな、とても残念で救いようのない性格。
    これはHSPの特性なのかどうかは分からないけれど、少なくとも「自分を信じていない」ことによる裏返しなのだろうと透けて見える。

    私が感じるこの感覚、間違ってないよね、という問いかけは、そもそも持つべきではないし、持ったとしても自分の中に投げかけるだけで留めておくべき。
    そこで、周りに答えを求めてしまうから、結局「他の人とは違う」という感覚になり、それが自己を否定するきっかけになる。そして「自分は周りになじめない」と自己嫌悪になってしまう。この繰り返し。

  • 悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    最近、罪を犯す人間が育ってきた環境について考えたことがあり、彼らは望んで罪人になるような人間ではなかったのではないか、と。そもそもの話。

    だからといって加害者を擁護するつもりは毛頭ないのですけれど。池袋のプリウスの話についても、早いとこ罪人認定して欲しいな、と思う程度の。

    で、罪を犯し、刑務所に入り、入って直ぐか、何年経ってからかはその人次第ですが、「自分はこんな人生を歩んでいくはずではなかった」と思うことがあるのではないかと。

    例えば、親という、自分の人格を作る上で大きな影響を与える人間のこと。彼らが、自分のことをもうちょい善い人間に育ててくれたらな、と、考えることがあるかもしれません。

    もしくは友人。彼らがきっかけとなり、悪に手を染めるような人間になってしまった。あの時自分を誘ってくれなったらな、と。

    例に挙げた2つの事例。親だったり、友人がきっかけとして、罪人になるような人間を作り上げてしまったとすると。
    その場合は、その人たちも悪い。

    その人も悪い。

    けど、それもそうだけど、その人たちの方にしか身体を向けなかった自分も悪い、かなと。人生を選択した責任だってあるだろ。

    というのも、おそらく悪友と同じように、善友とでも言いますか、自分を善い道に導いてくれる人間だっていたはずなんですよね。この世の中って悪い人間ばかりじゃないので。
    なので、そっちの方、善友の方に耳を傾ける、身体をそっち側に向けることが、自分を正しく律するために必要だったのではないかと。

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    はわかるのですが、自分にだって責任があるだろ、というお話。

  • 家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    でさ、昨日話したコンビニの前で酔いつぶれてたおっさんなんだけど。

    え、ちょい待って、二日連続でその話、いく?!えっ?!まだ続くの?!

    いや、だってさ、おっさん、めっちゃ気持ち良さそうだったんだもん。あれ、人生の真理だよな。真理。

    ちょっといろいろ飛躍しすぎてて、何がなんだか全然分からんのだけど。。。

    いやだから、機嫌良く生きるためにはさ、歩道に寝っ転がったっていいわけでしょ。自分が何をしたら気持ち良くなるか、時には羽目を外すことだって良いんじゃないの?

    まぁ時と場合によるけどね。ある程度は必要だよねきっと。

    自分の可能性は、自分で狭めているのだろうか

    40歳を過ぎて、残された時間と、守らなければいけない家族を鑑みると、できることが限られてくるような思いに駆られる。
    特に家族。
    子供たちが大きくなるまでは私は仕事をしてお金を稼がないといけないし、そのためには健康でいなくちゃいけない。私がそうやって親に守られながら、育ってきたから。子供には、自由に育って欲しいと思っている。
    学校の勉強はもちろん大事だけど、学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて、成長して欲しいと願っている。

    書きたかったことから少し脱線するが、「学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて」という言い方は、学歴社会を否定する、負け惜しみなような言い方に聞こえてしまう。おそらく、私の偏見である。
    立派な学歴を持った人がこのセリフを吐くと説得力があるのだが、私のように中途半端な学歴を持つ人間が言っても、どうも薄っぺらく聞こえてしまう。
    気にすることなんてないはずなのに、私はいつもこの部分が気になってしまい、「学歴なんて気にするな」というセリフを吐く時はいつも、声が心なしか小さくなってしまう。

    さて、私は上述したように、割と親から愛されて育ってきたような感覚を持っており、だからこそ同じように、子供たちに対して彼らのやりたいことを実現させてあげたいと思う。
    そのためには、私がやりたかったことを我慢してでも、彼らの欲望を満たしてあげる方を優先すべきなのだ。

    優先すべき、それは本当だろうか。

    私は私の人生を生きるべきであって

    まず、冒頭に書いたことは皆、私の妄想ということが明らかだ。

    • 残された時間は多くない
    • 家族を守る

    これらは一見、40歳を過ぎた、父としてあるべき姿のように見える。
    おおよそ間違っていないのかもしれない。
    が、果たして本当だろうか。

    まず、残された時間は少なくない、という点。
    80年生きるというのを前提で考えたとして、私に残された時間は残り37年ほど。
    老年になると体力がなくなるだろうか、体力を抜きにして考えると残り20年くらいか、、、と軽く見積もったのだが、
    その前に、そもそも私は、いったい何をしたいのだろう。
    何をしたいかによっても、だいぶ変わってくるのではないだろうか。

    あと、家族を守るという点。
    こちらについては責任という意味合いからも、私は家族を守るべきだし、幸いなことに今の仕事は嫌いではないから、まだまだ働きたいと思っている。
    なのでここ、家族を守る必要なんてない、という価値観もあるかもしれないが、私にはそれはしっくり来ていないのでこれ以上は割愛する。

    結局、自分が機嫌良く生きることが人生の目的と考えた時に、自分のやりたいことを実現すべき、時には家族や自分のリソース(体力、気力、財力)を無視してでもやるべきである。だけどそれらを無視した後で痛い目を見るのは明らかなので、機嫌良く生きた後に痛い目を見て辛い思いをするくらいなら、最初からその道を選ばなければ良いだけであるから、きちんとした道を考えつつ、生きていくべきなのだろう。

  • 好奇心ってうまく付き合わないと損することもある

    好奇心ってうまく付き合わないと損することもある

    Tumberってあっという間に時間が溶けてくよね。

    めっちゃ分かる。

    この間、グダグダとTumblrのダッシュボードを見てたら、あっという間に3時間も経っちゃってて。明日仕事なのに!寝れない!とか考えながらまだダッシュボードをスライドし続けてるの。なんでああいうのってやめられないんだろうね。

    Tumblrはホントに時間の無駄だよな。とは言いつつ、俺も無限にダッシュボードをスライドし続ける時間がめっちゃ至福wwって感じることあんのよね。困るよなあれ。大好きTumblr。俺が死ぬまで残って欲しい。

    好奇心はどんどん時間を奪っていく

    好奇心は、自分を成長させてくれるとても重要な気持ちです。
    知らないことを知りたいという気持ちは、「成長したい」という気持ちの裏打ちでもあり、それを素直に認めないと自分が窮屈になってしまいます。

    一方で、好奇心の赴くままに知りたいことを知る活動を続けていくと、

    知らなかったことが分かる

    とても快感…気持ち良い…

    もっと知りたい…

    快感...


    が永遠にループすることになってしまいます。良いんですけど、良くないですね。
    ここが非常に難しいところです。

    好奇心を放し飼いにすると、生活に必要で重要なことが疎かになってしまうのよ

    Artem Beliaikin at Pexels

    人間だもの、知的好奇心を満足させるのは、気力を得るために必要なことだと思うんです。

    だけど、それのせいで生活に重要な寝ること、食べることなどを疎かにしてしまってはいけないはずです。
    その天秤をどうコントロールするかが、人生にとってとても重要だと思うのです。
    本とかね、どこでも読めるし、ハマってしまうとあっという間に時間が経ってしまいます。

    多分大事なのって自分の価値観で、食とか寝とかを惜しんでまでも好奇心を満たしたいのであれば、そっちを優先しても良いのかもしれません。
    長い目で見るとそれは自分を苦しめることになってしまう場合があるので、健康には注意したいものです。

  • 友人は、簡単には選べないけど、自分の人生を大きく左右することがある

    友人は、簡単には選べないけど、自分の人生を大きく左右することがある

    いい人生を歩みたいと思ったら、前向きに生きている人間を近くに置くべきである。
    と考えたのだけれど、いい人生っていうのは相対的なものだから、いい人生とか悪い人生っていうのは、なにかを基準に置くんだよな、とふと考えた。
    違う、相対的に見ていい人生とか悪い人生とか、そういうことを書きたいわけではないので、修正する。

    Photo by Lachlan Ross on Pexels.com

    自分は、周りにいる人たちによって染められることが多い(気がする)

    あくまで私個人や、私の周りにいる人を観察して感じること、という前置きをさせていただく。
    自分の思想に基づいて人を選んでいくという趣向があるはずだから、自分の思いに賛同してくれる、もしくは、賛同してくれるまではいかずとも肯定してくれる人間が集まるような気がする。

    自分がそういう人と一緒にいたい、同じ時間を過ごしたいと感じるのは、彼ら彼女らがとても心地良いからだ。

    なぜ、心地良いと感じるのだろう。

    それは、自分の思い通り、もしくは思いと近いものを、彼ら彼女らが持っているからだ。
    すると、だんだん自分の思いが強くなっていく。自分の生き方は間違っていなかったんだ、と周りの人間が反応する様を見て、気づく。

    多分、その時点での自分が考える生き方以外にも、様々な生き方があるはずだ。180度違う考え方を持っている人間だっているはずだ。
    しかし、その時点での自分は、それ以外のことを思いつかない。
    思いつく術がないから。

    Karolina Grabowska at Pexels

    自分の考えに近い人間が集まる世界は、是か非か

    是でも非でもない。
    心地良いのだから、そこから抜け出そうとする気持ちというのは、自然に弱まっていく。
    居心地の良い場所、安全な場所に留まっていこうとするのは、生き物の本能なのだろう。
    それを是と考えるか、非と考えるかは、自分の外に世界があるかどうか、その世界に対して魅力を感じるかどうかである。

    井の中の蛙として、自分がいる世界で十分だという考え方がある。
    外の大海に気づいて、そっちに魅力を感じるという考え方もある。
    どっちが良いかは、自分の考え方次第である。

    一般的に、後者のほうが、人生を俯瞰した時に、浮き沈みがあったものの経験という物差しで見たら、プラスだった、と考える人が多いような気がする。
    だけどこれはあくまで価値観だから、私はどちらが良いかとは言えない。
    私は、ある程度後者、大海に思いを馳せて生きてきたが、ある時を境に自分がいる世界で十分だと思うようになった。
    ある時と言っても大きな出来事があった訳ではなく、なんとなく、そっち側を目指すことに疲れを感じた時だ。

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    最後に満足するかどうか

    死ぬ直前まで大海を目指す人がいるかもしれない。
    私のように、どこか人生の途中で、大海を目指すことに興味がなくなる人がいるかもしれない。
    どっちも正解である。
    間違いではない。

    では、どっちを選ぶのか、と考えた時に、私が思いついたのは、後悔という言葉だった。
    死ぬ間際になって、後悔をしない人生を選ぶのが、自分にとって一番良いことなのではないだろうか。
    もしかしたら、大海を目指すことを早々に諦めたほうが、後悔をしないかもしれない。
    大海を死ぬ直前まで目指す方が。
    どっちが良いと感じるか、なんとなく想像は付くものの、死ぬ直前まで分からない。
    それまでは、少なくとも、自分が気持ち良いと感じる方を選ぶべきである。

  • カテゴライズすることで得られる、その場しのぎの安心感

    カテゴライズすることで得られる、その場しのぎの安心感

    私は内向的だから。私はO型だから。私はHSPだから。

    誰かが決めたカテゴリーに則って、私は私のことを理解することがある。
    しかしこのカテゴリーに100%合致するはずはない。
    これを決めた人は、私のことを見て決めた訳じゃないから。
    私が、「なんとなくこれかな」と決めたカテゴリーに則っただけだから。血液型以外。

    だけど、例えば、私はHSPなんだと自覚するだけで、生き方が楽になるのはなぜなのだろう。
    私は本当はHSPではないのかもしれない。
    ただ、「HSPはこんな人」みたいなウェブサイトで、HSPの人が持つ傾向と、生き方の指南を見ることで、気持ちがだいぶ楽になるのは事実だ。

    多分、安心感が得られるのだ。
    その記事を見る前と、見た後で、何が変わったのだろう。

    うーん。

    あまり良く分からないが、一つ考えられるのは、自分を客観視できたということではないだろうか。
    客観視すると、自分のことではあるものの、自分のものから少し離れたところから、自分を眺めることができる。
    そうすると、今の自分がどう見えていて、これからどうすべきなのか、少しわかるのかもしれない。

    うーん。
    違うかな。

    少なくとも、この安心感に助けられることは多くて、私らしい生き方を模索する中で、この類のカテゴライズは参考になっている。
    私は、内向的らしく、HSPらしく生きていけば良いのだ、という指針を持つことができている。

  • めんどくさいは悪だけど、魅力的

    めんどくさいは悪だけど、魅力的

    日々、いろいろとめんどくさいことをこなし、過ごしている。

    めんどくさいという感情は悪だ。何のメリットもない。

    そんなものはなるべく早く取っ払うべきだ。

    分かっている。
    分かっているけど、そのめんどくさいという感情に振り回され、
    怠惰になりたい自分と、律しなければいけないという意識が闘う。

    結果、怠惰なほうが勝ることが多い人生と、律する方が多い人生、それぞれが迎える未来の差はとてつもなく大きい。

    それぞれ、飴と鞭に例えられることが多い。

    どちらが良いということはない。なるべく機嫌良く生きていくことが人生のモットーと考える私は、
    それぞれ、どちらでも良いから自分が機嫌良く生きていければ良いと思っているから。

    大切なのは、自分が選んだ生き方に対して責任を持つこと。

    律ししすぎると疲れてしまう。ひどくなると精神を病むことだってあるだろう。
    怠惰になりすぎるとなにごとにも甘えてしまう。社会に適合することが難しくなっていくかもしれない。
    だけどそれぞれ、自分が選んだ生き方なのだから、胸を張って、生きていけば良い。