タグ: 生き方

  • 物欲は悪魔か

    物欲は悪魔か

    物欲、それ自体は悪いことではないと思うんですよね。
    そのためにお金を稼ぎたい!頑張って働こう!っていうモチベーションになるので。
    一方で、ものを必要以上に持ちすぎるのは考えるべきで、それが生活の質に影響するからで、例えば、自分の家に入りきらないくらいのスニーカーを持っていて、しょうがないから近所にコンテナを借りてるんです、みたいなのは、果たして必要な物欲なのか?と自問自答が必要なのではないでしょうか。
    これ系の話、ニーチェも言っていて、おおよそ、私が上述したようなことなのですが、考えさせられる内容となっています。

    所有欲に征服されるな
    所有欲は悪ではない。所有欲は働いて金を稼ぐことをうながし、その金銭によって人は充分な暮らしを送れるばかりか、人間的な自由と自立さえ得ることができる。
    しかし、人が金銭を使っているうちはいいのだが、所有欲が度を過ぎるようになると、人を奴隷のように使い始める。もっと多くの金銭を得るために、ありったけの時間や能力をついやす日々が始まるのだ。所有欲は、休みさえ与えてはくれない。
    こうして所有欲の手下となった人は、完全に拘束される。内面の豊かさ、精神の幸福、気高い理想、といった人間としてたいせつなものは無視されるようになる。あげく、金銭面だけが豊かで内面がごく貧しい人間が出来上がる。だから、所有欲がどこで自分を征服しそうになっているか、よく注意しておかなければならない。
    ニーチェ 漂泊者とその影

    所有欲を悪者に見立てるあたり、さすがニーチェという感じですね。
    上述した、スニーカーを家に入り切らないくらい集めるのが好きという例、それはそれで内面の豊かさは持っている場合だってありそうです。スニーカーを集めることによって、自分が満足に生きられれば良いのかもしれません。
    だけど、ニーチェが言うように、内面の豊かさ、精神の幸福という観点で見ると、いくらスニーカーをたくさん買ったとしても、まだ欲しい、まだ欲しいと新たなスニーカーを求めるようになるように思います。

    では、どうしたらいいのか

    限度を決める、ということが良いように思います。
    スニーカーは、例えば15足までいったらいったんストップする、とか。
    おそらく、私にはスニーカーを愛してやまない人の気持ちが残念ながら分からないので、15足なんて少なすぎる!と思うのかもしれません。
    だけど際限なくスニーカーを求めようとするのは、ニーチェの言う「人間としてたいせつなもの」を蔑ろにしているように思うのです。
    所有欲を高めていくのは良いですが、一方で食費を極限まで削り、病気になり、この世を去ってしまうとなったら、スニーカーを天国に持っていくことはできないのだから、結局意味のないものになってしまうんじゃないかなぁ。
    棺桶に入れられるのはごく僅かです。そして、そもそも、死んでしまったら無ですよね。
    天国って上述しましたが、そんなものは幻想に過ぎないのですから、ほどほどに愛し、人生を謳歌すべきなのです。

  • 孤独を愛せよ

    孤独を愛せよ

    最近、齋藤孝さんが書いている、「孤独を生きる」という本を読んでいます。
    齋藤孝さん、結構本書いてますよね。
    今まで何冊読んだかなぁ、5冊くらいは読んだかもしれません。
    今回手にしたのは、孤独を味方につけよう、みたいなコンセプトの本。
    孤独と聞くと、まるでそれが悪いことのように思えますが、それを肯定的に受け止めようという趣旨。
    はー。って感じです。
    確かに孤独って、周りから拒絶されて、社会生活がうまく行かず、誰とも喋らずに一日が終わってしまうという状況。
    いいことなんて何一つなくて、まぁ、人と話さずでも一日を乗り越えることは実質可能だとは思うんですが、それでも、なんとなく前向きにならない、なれないような状況のように感じます。

    孤独と、孤独感は違う

    ・ 孤独は、ひとりきりの状態
    ・ 孤独感は、一人の時の気分
    孤独だー!と思っていたけれど、気分の問題だから、そう深刻になることはない。
    孤独感をキャッチするためにいろいろ事情を探ったり、相手の真意を確かめたりするのは面倒

    相手の真意を確かめようとするあまり、無理にコミュニケーションを取ろうとしたり、深く探ってしまったりして、ギクシャクした関係になってしまっては元も子もありません。
    面倒なことになってしまうより、いったんそこから離れてみるというのも大切だそうです。

    ひとりでいる時間が人を育てる

    齋藤さんが、孤独をポジティブなものとして捉えるというのは上述しましたが、過去の著名人でも孤独を愛する人が、いい言葉を残しているということで、いくつか、本で引用されていました。

    のがれよ、私の友よ、君の孤独の中へ。
    強壮な風の吹くところへ。蝿叩きになることは君の運命ではない。
    ニーチェ 市場の蝿

    齋藤さんはこの本の中でニーチェを取り上げていて、私もニーチェは好きな哲学者の一人なので、この言葉に感銘を受けました。
    現在だと、東京キー局の問題が、まさに大きな旋風を巻き起こしています。
    SNSなどで多くの人が、糾弾する対象を見つけては声高らかに、お前が悪い!と言っているのを目にします。
    私はその波に乗らず、傍観している立場(実際は傍観すらもしておらず、興味がないのですが)をとっていますが、ある一面では私も孤独の中に逃れているのかもしれません。
    大勢の人たちに紛れて、誰かを糾弾することも、ある一面では、良いことなのかもしれません。自分のストレスが発散できる、とか。
    だけど、私の優先順位は、そこじゃないんだよなぁ、というのを感じます。
    それよりかは、一人になって、孤独を楽しむ方が良いかな、と思います。

  • コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    これは私の場合に限るのかもしれませんが、頑張ればコミュニケーションをきちんと取ることができて、つっても年相応の、45歳の普通の社会人って感じの程度ではあるのですが。

    だけど、そんな風にコミュニケーションをたくさん取った時、例えば会社の社員交流会みたいな、いわゆる飲み会みたいな場を経て、帰宅したらどっと疲れを感じることが多いです。

    シンプルに、コミュニケーションを頑張って取った証な気がしていて、例えば、コミュニケーションの強者みたいな人って、疲れたりしないのかな、と思いました。

    コミュニケーションは疲れる?

    本来、人が構成する社会生活って、コミュニケーションがあってしかるものだから、そこに払うコストってしょうがない、払わなきゃいけないような気がするんですけど、そもそも、コミュニケーションって疲れるものなんですかね?

    生きていくには必要なコストって今言ったばかりですが、果たしてそれは本当なのかと。

    というよりも、コミュニケーションって、頭を使う?のかもしれないですが、どういう時に頭を使うんでしょうか。

    • 雑談をする時、(いい意味で)適当な話題を探す時
    • 雑談をする時、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ時
    • 仕事をする時、みんなで課題に向かって解決策を練る時に、いい感じのアイデアを出す時

    いや、3番目のやつは厳密にはコミュニケーションのためのコストではないか。

    どちらかというと問題解決のためのアイデアを考える時ですね。

    私の場合、私はどちらかというと聞く方に回りがちなので、その時の相槌の打ち方、話を引き伸ばしたほうが良いのか、終わり二持っていくべきなのかみたいな時に、結構頭を使っているような気がします。

    疲れるけど、それが必要なコストかどうか

    ぐだぐだと書いてしまいましたが、肝心なのって、自分にとって、それが必要かそうではないか、という価値観なのかもしれません。

    不要だわ、そのために消費するカロリーがもったいない、という人はだんだんコミュニケーションの頻度を下げていき、最終的には殻に閉じこもってしまうのでしょう。

    私は、私の中での最上の理想はそっちがわなんですけど、それだと生きていくために得る必要のあるお金を手に入れることができなくなってしまうので、「頑張って必要と感じているコスト」と思っているような気がします。

    生きていくには社会生活に溶け込む必要があって、それには必要なコミュニケーションを取って、そうやって自分をすり減らして生きていくことになるわけですが、一方で、やっていくと慣れていくってこともありますよね。

    慣れてくるとコストが下がっていくので、気にするほどでもないレベルまでコストが下がっていけば、それはコミュニケーション強者ということになるのでしょう。

    これって難しいですよね。十人十色の考え方の中で、相手はどんな人かっていうのを見極め、今までの経験の中から同じタイプを思い出し、その引き出しを開け、そこから出てくる「雑談の作り方」や「相槌の打ち方」みたいな素材を、相手に合わせて出していく必要があるんです。

    慣れていけば、その引き出しがどこにあるかを瞬時に見つけることができるから、探す手間とか、そういうコストは最小限になるのでしょう。

    コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん強くなっていく

    コミュニケーションを取っていけば、相手がある程度の種類に分かれていくワケで、上述のいわゆる引き出しがどんどん増えていくんですよね。

    それは相乗効果で、ロジカルに考えるとこんな感じかな。

    1. 会話を開始する
    2. 相手を見極める
    3. 新しいタイプ?
      1. 新しいタイプを受け入れる
      2. 引き出しが増える
    4. 既存のタイプ?
      1. 過去の引き出しの中を見に行く
      2. その人に合った素材を出し、会話に合わせていく
    5. 次のターンへ

    こうして、コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん引き出しが増えていくんですよね。

    タモリさんなんてのは何十年も色んな人とテレホンショッキングをしてきた人なので、ものすごく膨大な引き出しを持っているのでしょう。

    どっちがいいとか、そういう話ではないので、自分に合ったペースで、コミュニケーションの幅を増やしていくと良いのでしょう。

    生きていくのって難しいです。

  • 目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    今日はニーチェの言葉から。
    昨日ブログに更新した、マルクス・アウレリウスより若干わかりやすいです。時代が近いからかもしれませんが。
    私はKindleのPrime readingやUnlimitedでニーチェについて描かれた本を読む程度の知識しかないので、彼のことを深くまでは存じ上げないのですが、割と私たちの生活に密着したことを書いてくれるよな、と思っています。
    今回取り上げた言葉も、まさに私たちの「生活」をどう捉え、暮らしていくべきかを表してくれていて、その通りだよなぁ、実際はそんなふうにはいかないけどさ、みたいなことを考えたりしています。

    生活を重んじる
    わたしたちは、慣れきっている事柄、つまり衣食住に関してあまりにおろそかにしがちだ。ひどい場合には、生きるために食っているとか、情欲ゆえに子供を産むなどと考えたり言ったりする人もいるくらいだ。そういう人たちは、ふだんの生活の大部分は堕落であり、何か別の高尚なことが他にあるかのように言う。
    しかしわたしたちは、人生の土台をしっかりと支えている衣食住という生活にもっと真摯な眼差しを向けるべきだ。もっと考え、もっと反省し、改良を重ね、知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそがわたしたちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。
    「漂白者とその影」より

    歳をとると1年経つのがあっという間に感じる、というのを45歳になった今、まさに実感していて、それってもしかしておろそかにしちゃってるからかな、と思いました。

    もっと人生を味わって生きるべきだ

    おそらくニーチェが言いたいのは、日々、感じていることをもっとちゃんと味わって生きろよ、ということなんだと思います。
    自分の意思で動かせる物事に対しておざなりに決断するのではなく、選択肢をちゃんと吟味して、決断したあとは初心を忘れることなく前を向いてきちんと過ごしていこう、自分の意思で動かせない物事については、現実をありのまま受け止め、それでも生きていくという姿勢を忘れないようにしよう、みたいな?考えすぎですかね。決して考えすぎではないように思いますが。
    実際、どうなんでしょう。
    上述の通り、一年があっという間だわ!1月だって今日でもう終わり?!まだ正月休みな気分だったわ!みたいな感性で生きていて、ほんと、日記がなければ、例えば1月14日に私がどこでなにをして、なにを食べたかみたいなのは、完全に忘れてしまっています。なにかをしながらご飯を食べると、ご飯の味って分からないんですよね。テレビやスマホを見ながらご飯を食べるというのは、食事に対して失礼だよな。
    ニーチェが言うように。

    衣食住こそが私たちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。

    ほんとそうなんですよね。なにか特別なことをした時にだけ自分の感性を込めるのではなく、日々の衣食住、そこに目を向けて、足るを知るとちょっと感性が似てるようにも感じますが、日々、もっと味わって生きていきたいと思います。

  • 過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過ぎてしまったことをいつまでもクヨクヨするのって思考プロセスのバグなんですかね。
    「過去と他人は変えられないんだよ、だから自分の中で変えられる未来にだけフォーカスしよう」という言葉と出会ってからは、過去、やってしまった過ちをいつまでも掘り起こしてウダウダしそうになったら、そこで思考をストップして、違うことを考えるようになりました。

    性格というか自分の考え方のクセってなかなか変わらない

    性格ってなかなか変わらないよな、と思う一方、こういう思考プロセスってクセみたいなものなので、訓練でどうにでもなるんですね。そういうのに気づくまでに、数十年もかかってしまいました。つい、最近気づいたと言っても過言ではないような。反応しない練習とか、禅的思考みたいなものを読んでいるうちに気づいたというか。思考なんてものはほとんど無意識の段階で動かしているものだから、「自分がそう思い込んでいること」に対して気付けないのが普通なのかなと思います。普通なんだけど、例えば、自分がクヨクヨしてしまいがちな性格の人は、他人から言われたことに対して「それを真正面から受け止め」、「適正な受け取り方を超えて過剰に反応して」しまい、そしてクヨクヨしてしまう。真正面から受け止めるところを、少し斜に構えた状態で受け止めるとか、そういう考え方を変えてみるってのが重要なんだよな、と思いました。

    最近あったこと

    最近、私の心を揺さぶるような事件(と書いてしまうと大袈裟で、そこまでデカい話ではない)が起き、それは私の仕事上起こった失敗のようなものなんですが、自分でなんとかできたかもしれないけれど、結果的に失敗してしまった、と。それが起こった時から、引きずっています。最近、仕事で失敗ってしなかったから、久しぶりの状況に動揺している感じで。大切なのってその後のリカバリーだから、早いとこ忘れて(根っこだけは覚えておく感覚)、次に向けて頑張ろう!と自分に気合いを入れるべきなんでしょうけど。まだもうちょっとクヨクヨしたい感じで、それがなぜかは分からず、そんなのに引きずってもなんの意味もなく、気持ちを切り替えて前に進めていくべきなのにな、という状態で。浸りたい、と言うのは果たしてなんの目的があって、そうしたいと思っているのか。誰がどう考えても、切り替えて前に進むべき、それは間違いのないことなんだと思います。
    そうだよな。書きながら、考えを変えました。つまらぬものにクヨクヨしていてもしょうがないだろ、と。

  • 計画は一度立てたら終わりじゃないんだよね

    計画は一度立てたら終わりじゃないんだよね

    今日はニーチェの言葉から。

    計画を立てるのはとても楽しく、快感を伴う。長期の旅行の計画を立てたり、自分の気に入るような家を想像したり、成功する仕事の計画を綿密に立てたり、人生の計画を立てたり、どれもこれもワクワクするし、夢いや希望に満ちた作業だ。
    しかし、楽しい計画作りだけで人生は終始するわけではない。生きていく以上は、その計画を実行しなければならないのだ。そうでなければ、誰かの計画を実行するための手伝いをさせられることになる。
    そして、計画が実行される段になると、さまざまな障碍、つまづき、忿懣、幻滅などが現れてくる。それらを一つずつ克服していくが、途中で諦めるしかない。
    では、どうすればいいのか。実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。こうすれば、楽しみながら計画を実現していける。

    「さまざまな意見と箴言」より

    わかるわー、って感じです。
    計画を立てるときは、気楽だから楽しいのか。
    私は仕事柄、テストの計画を立てることがあって、それは大体開発プロジェクトが始まって間もない頃なのですが、どんなテストが、どんなタイミングで必要なのか。そんなことを半ば妄想を踏まえながら、作っていく作業。ニーチェの言う通り、確かに楽しいんですよね。
    希望に満ちているから楽しいのでしょうか。
    気持ちが明るく、前向きになれるから楽しいのかもしれません。
    仕事だけではないですね。例えば家族でどこか旅行しよう、と計画する時も、泊まる場所や食べるものはどうしようか、と家族みんなで考えたりしますが、確かに楽しいです。

    一方、実行する時になると、計画したことを忘れてしまうことがあります。計画時には思いもよらなかったことが出現し、それに対処しているうちに、計画したレールから大幅に逸脱してしまうことも少なくありません。
    計画時には気づかなかったのだから、しょうがないことなんですが、それでもその「気づかなかったこと」を気づかなかったという事実が、計画したことから目を背けたくなるような気持ちになります。
    私の場合、恥ずかしい、という気持ちが先に立ってきます。
    そんなことすら思いつかなかったのか、という恥ずかしさです。
    計画したことを全て投げ出し、目の前に迫り来る壁を越えようと必死になってしまい、それ以外のことは何にも思いつかなくなります。
    近いところにある壁は割とよく見えるのですが、そんな、目の前の壁ばかり見ていると、大きく道を逸れてしまっていることに気づきません。
    そして終盤になり、道を逸れてしまっていることに気づき、慌てて計画を見返した時にはすでに万事窮す。
    私は、何が悪かったのでしょうか。

    確かに、ニーチェのいうように、計画したことから逸脱しないよう定期的に見返すようにする必要があるのだろうと思います。
    そうすれば、近くの壁だけでなく、遠くにある、ラスボスみたいな、とてつもなく大きな壁のことを忘れることのないような戦い方ができるのでしょう。
    言葉で綴るのは簡単ですが、それでもやはり、前述のように計画から目を背けたくなってしまうんだよなぁ。
    少しずつ、計画に寄り添うように生きていきたいです。

  • 人生は、瞬間の連続

    人生は、瞬間の連続

    マルクス・アウレリウスは自省録の中で、以下のように書いています。

    全ては、一瞬の出来事に過ぎない
    次のことを繰り返し考えること。今目の前にある物事も、これから生じてくる物事も、あっという間に通りすぎ、消え去っていく。
    この世に存在するものは、絶え間ない川の流れのようであり、その活動は常に変化し、もろもろの原因もまた無限に変化している。じっと静止しているものはほとんどない。君のそばにも、過去と未来の双方に無限の深淵が開いており、全てが飲み込まれていく。
    全ては一瞬の出来事に過ぎないのに、こんなことに得意がったり、悩まされたり、惨めになったりするのは、実に愚かなことではないだろうか。
    マルクス・アウレリクス 自省録 5-23

    過去、45年間生きてきて、その系譜みたいなものが私の後ろに続いているんだと思います。それはとても果てしない道のりで、45年も良く生きてきたわと思うんですが、過去に縛られて生きていくというのは、どうも辛いことのように思えてしまいます。
    過去、私が選択してきたもの、正しかったり間違っていたりしてますが、そんなのに振り回されて生きるのってアホらしいことなのかもしれないですね。
    私が過去に選択してきたもの全てを「正しかった」と認識し、生きていくことがまず必要で、それはなぜかというと、自分を肯定してあげることで、自分が生きていってもいいんだ!と思えるからです。
    自己肯定感と呼ばれるそれは、他者からのそれと、自分からのそれ、二つあると言われていて、後者、つまり自分からの自己肯定感を持たせることがとても大切なんだよ、と数年前にどっかで読みました。

    自己肯定感を常に自分に向けながら、プラスに考えていくこと、だけどそんなことはどうだってよく、なぜなら瞬間の連続で、全てが一瞬の出来事だからです、とマルクス・アウレリウスさんは言っています。
    なんか刹那的な響きのように感じてしまいます。全てにおいて排他的?になって、「もう全部どうでもいいです、なぜなら一瞬の出来事に過ぎないから」というマインドを持ってしまうようにも思えてくるんだよなぁ。
    そういう、全部どうでもいいです、っていうのは気持ち的にはあんまり良くなくて、なぜなら人は善く生きるべきだからで、だから多分、この「全部どうでもいいです」っていう考え方は、正しくないんだろうなと思います。
    時折、例えば仕事がうまくいかなかったときとか、そういう気持ちになっちゃうこと、ありますけどね。暴飲暴食したくなってしまったり。自分を傷つけたくなってしまったり。
    多分、正しくないですよね。

  • やりたいことを全部やったら何が残るのか

    やりたいことを全部やったら何が残るのか

    人生でやり遂げたいことをいくつか考えてみると、それには気力や体力やお金みたいな資本が必要にはなるけれど、それでもそれらの資本を投入してやり遂げた時、人間には何が残るんだろう。
    究極の状態のように思います。
    そこまでやり遂げてしまったら、もう人間は後は死ぬだけなのではないかと。
    と、ここまで書いて、私が数年前に抱いた「全部、死ぬまでの暇つぶし」という感覚は、それの一端を担っているような。
    当時の私は、だいたいやりたいことはやり遂げてしまって、後はもう死ぬのを待つくらいしかないな、くらいの、今考えると青臭く、お前の目は節穴か?その年でやり遂げたぜ!なんてはえーだろまだ、やることあるだろうよ、と思うのですが、人間ってそこまでやり切ると、人生に未練を残らないということになるのでしょうか。
    ちょっと考えてみても、死ぬまでにやり切ることができないだろうと思うようなことはいくつか思い浮かびます。

    例えば読書。
    読書は、この世で発行されている本を全部読もうと思っても、おそらく死ぬまでに読み切ることはできないでしょう。私は40代中盤なので、気力が残り35年続くとして、いったい何冊の本を読むことができるんだろう。
    1週間に2冊* 52週* 35年=3,520冊!
    結構なボリュームですね。私は日本文学が好きなので、3500冊も読めたらもう死んでも良いわ、ってくらいに感じるかもしれません。
    仮に、死ぬまでに3500冊の本を読むぞ!と決めても、読み切るのは難しいだろうな。
    ちょっと調べてみると1年間に出版されている本は、なんと7万冊だとか。
    私の目に触れない本がたくさんあるんだろうな。7万冊ってすごいですよね。10年で70万冊ですよ。

    閑話休題。

    ふと、3500冊を読み切る目的ってなんだろうと思いました。
    3500冊を読んで、あぁ面白かった!と感想を抱くことが目的なんだろうか。
    最近よく、いろんなところで「アウトプット」という言葉を目にします。

    小説を読んだらなるべく読書感想文を書くようにしていますが、そうすることが大切なんだとか。
    読んだらそれで終わり、というのも良いですが、読んだ後に感想を書くと、不思議と、その物語のことをいつまでも覚えているように感じます。
    特に自分の中で刺さった小説は、強い気持ちで書いたりしますので、その時に、物語を思い出し、反芻して自分の中でも考えてみて、その中で覚えるということになっていくんだろうなぁ。

  • 8月30日 そういう日もある

    8月30日 そういう日もある

    そういう日もある。
    自分に何かを諦めさせようとするこの言葉。
    この言葉は不思議な魔力を持っていて、それは言霊とも言えるのかもしれないけれど、そういう日もある、と自分に言い聞かせることで、私が今日やってきたことであまり上手くいかなかったことがあったとしても、それを水に流してしまおうという魂胆なのだ。

    私は常日頃から考えていることがある。それは、自分の中で障害となっている物事に立ち向かう必要がある場合、ある程度のパワーを必要とするが、それに打ち克つには大量のパワーが必要だということ。そのパワーを充電する余地がある際、何日もの日々をやり過ごし、パワーがみなぎるのを待つ。その際、私は気が弱いところがあり、待ちきれずにその障害のことを案じて不安になり、パワーがみなぎる前にそれを諦めてしまったりすることがある。
    気が熟す、と昔から言われている言葉を信じ、それを待つということも自分の仕事(仕事というのは給料をもらうための仕事ではなく、人生を賭けた仕事のほうの意味)なのだろう。だけどそれを待つことができない。もしかすると私はせっかちなのかもしれない。そういう時にこそ、「そういう日もある」と自分に言い聞かせることが肝要なのではないだろうか。
    また、障害に真っ向から向かうのではなくどこかを迂回して進むなどの戦略を考えることも必要だったりする。ただ真っ向から勝負し成功するのは、よほど自分に自信がある時のみだけだろう。その、対症療法ともいえる戦略を駆使し、障害を少しずつ削っていくことで、だんだんと小さくなっていき、気づいたらひょいっと乗り越えることだってできるかもしれないのだ。
    そう考えると、戦略というのは非常に重要で、特に今の自分の実力では到底敵わないような物事に対して綿密な戦略を考え、それを粛々と実行し、やがて打ち克つことができるだろう。

    戦略と聞くと、例えば国同士が戦うレベルでの戦争や、スポーツの世界で良く言われることのように思うが、実は自分が挑もうとする課題に対しても有効なのだ。こんなに身近に、戦略を立てることの重要さがあるとは。この投稿を執筆する中で気付けて良かった。

  • 8月16日 あすけんのプレミアムプラン(半年)に登録しました

    8月16日 あすけんのプレミアムプラン(半年)に登録しました

    ここ数日、痩せたいスイッチが入っていて、5日連続で身体を動かす日々を過ごしています。と言っても会社の同僚とフットサルをしたり、エニタイムで10km走ったりする程度ですが。

    と言うのも、私、脂肪肝を持っている身体なのです。
    お腹が出てる、と一言で表すとそういうことになるんですが、お腹と言っても下腹部ではなく、肋骨の隙間からちょっと下あたり。そこがすごく出ています。
    ちょっと調べてみると、肝臓がその辺にあるんですよね。胃袋の後ろに。
    「あなた脂肪肝ですよ」と健康診断を受けるたびに言われはや3年。
    その前までは綺麗な評価Aだったので、一気に急降下してしまいました。

    このままでも良いのかもしれませんけど、私、個人的に、自分の身体がぶよっとしているのがどうも気に入らなくて、去年の年末くらいから自宅近くにある24時間やってるジムに通い出しました。
    それまでもランニングを定期的にやっていたんですが、お金を払うことで強制力を発揮し、自分の糧にしようと思い至ったのです。
    で、始めた頃はランニングばかりやっていて、そのうちに会社の同僚にジム行き始めたんすよね、って話したら彼は筋トレをやっているそうで、言われてみると腕の筋肉がめっちゃ太かったんですが、ただランニングだけやっててもダメ、きちんと筋肉をつけないと、と言われたのがだいたい3月くらい。
    そこから筋トレも始めて、なんとなく自分のペースを掴めるようになってきました。

    だけどそこからが続かない。
    近頃は2週間まったくジムに足が向かない日々があったりして、また会社の同僚たちと週に1回の飲み会が定期的に催されていてお酒をがぶ飲み。そんな生活を続けているうちに、お腹が出てくるようになりました。
    そこで一発奮起して、目標体重になるまでなるべく毎日ジムに通おう、と思ったのが先週の週末。
    今日はあいにく台風なので気持ちがだいぶ後ろ向きなのでアレなんですが、そんなことをぼんやり考えているうち、Googleで脂肪肝、と検索してみるといろんなダイエットの記事が。
    その中で、一番手っ取り早く手をつけられるダイエットが「レコーディングダイエット」だと。
    は、そりゃそうか今からでも始められるもんな、と思って数年前に入れたっきりのあすけんを開き、今日食べたものをぷちぷち入力してみました。
    今日は朝にフルグラヨーグルト、お昼に納豆ご飯、間食でまたフルグラヨーグルトみたいな感じで過ごしてきたのですが、そんなことをしているうちに、プレミアムコースのおすすめが表示されました。
    半年で1600円。毎月のジムがだいたい8000円なので、それに200円くらいをプラスするだけでいいのか、と頭を切り替えてみました。
    レコーディングダイエットって岡田斗司夫さんが考案したものでしたっけ。
    私はオネアミスの翼で育った過去がありますので、彼の発案したものに悪いものはないだろうと勝手に括り付け、清水の舞台から飛び降りたつもりで1600円を払いました。
    居酒屋だったらお酒2杯と一品料理が1つ2つくらいいただけるくらいの値段でしょうか。
    まぁ、今の私は標準体重から10kgくらいオーバーしているので、まずは標準体重となる65.8kgを半年でクリアすべく、気持ちを新たに頑張っていきたいと思います。