3月23日

仕事に没頭していると、日記を書く時間がないじゃないか、と思っていたのだけれど、

今日は仕事で、「なぜなぜ分析」に取り組む時間があり、少し勉強したので、それを活かして、「自分はなぜ日記を書く時間がないのか」についてなぜなぜ分析してみたい。

自分はなぜ、日記を書く時間がないのか

対価を得るための仕事と、それ以外の団欒に時間を費やしているから。日記は自分にとってはその2つには当てはまらず、どちらかというと自分だけの仕事、という側面で考えているフシがある。
そもそも日記を書きたいのだろうか。答えはイエス。自分のぼんやりとした考えを可視化することができるので、日記は大好きだ。
次のなぜにいくのはまだ尚早な気がしている。日記として、書くことがないから。仕事をずーっと、それこそ9時から19時30分までほぼ走りっぱなしで、通り過ぎる風景を見ることもなく、没頭してきた。なので、考える時間がなく、結果、書くことがないのだ。

自分はなぜ、日記に何も書くことがないのか

なにも思いつかなかったから。人間は8秒に1回程度、なにか物事を考えていると聞いたことがある。つまり、私は無限のアイデアを思い浮かべているのだ。それなのになぜ、日記に書き残すこともなく、記憶の彼方へと葬り去ってしまうばかりのものと付き合っているのだろうか。
アイデアというのは、もしかしたら私が意識しているもの以外にも、つまり無意識の段階でも浮かんでいるような気がする。それをわざわざ拾う術はないのだろうか。超能力とか、第六感とか、その類なのかもしれない。
つまり、自分の感性を研ぎ澄ますということは、自分の感覚の視野を広げる、ないし深めると言うことなのかもしれない。そのテの勉強をしたことがないので、詳しくないのだけれど。
そう考えると、日記に何も書くことがないのは、自分の感性が鈍いからだ。

自分はなぜ、鈍い感性を持っているのか

だんだん面白くなってきた。自分の感性が鈍いという点。
誰に対して鈍いのだろう。そういう、曖昧な言い方を気にするようになってきたのは、システム品質を測るためのテストを生業としているからかもしれない。
私は、私の理想とする感性に対して、鈍いと感じている。
どの点において、鈍いと感じられるのか。
それはつまり、上述した、自分の脳に浮かんでくるアイデアを拾うことができないからだ。
なぜ拾うことができないのか。訓練が足りないのかもしれない。
どんな訓練が必要なのだろう。そもそも、訓練とは。
感性を鋭くするのではなく、感性自体はそのままの強度で良いから、それを拾うための訓練が必要なのだろう。
氷を冷たいと感じる、感覚は持っているのである。
大事なのは、その「冷たい」と感じたことを、自分がきちんと拾えることなのである。

自分はなぜ、感性をキャッチするための訓練が足りないのか

これは割と簡単な気がしていて、それを重要視してこなかったからだ。
五感で得られる刺激に対して、敏感ではなかった。
自然の成り行きに任せていた。
なぜ任せていたのか。あまり重要だと考えてこなかったからだ。
五感で得られる刺激を、きちんと理解する能力を持ったところで、なんの徳になるのだろうか。
言い換えると「感受性が豊か」ということになるのだろうけど、それだからといって、何かプラスになることがあるというのだろうか。

いや、あるのだ。

日記を休まずに書くことができる。

一方で、日記を書くということは、感性を磨くということにもつながる。毎日、日記として何を書こうか、と考えることは、今日なにがあったか、自分はどんな感覚をキャッチしたか、と振り返ることになるからである。