自我について

私は、両親が出会い結婚していなければ生まれてこなかったはず。
もし両親が出会っていなければ、もしくは出会っていても結婚していなければ、更に言うと子作りをしていなければ、私はこの世に生まれてこなかった、はず。

私は、自我というものは産まれてから作られると思っている。
今、外から雨音が聞こえていて、それが心地良い音と受け取る感覚も、
それは両親が出会ったおかげ、結婚したおかげ、子作りしたおかげ、ではなく、産まれてから私が自分で育んできたものだと信じてやまない。

そう考えると、子どもは私たち(親目線)を選んで産まれてきたんだよ、というのはあきらかに迷信で、それは親のエゴだと思う。
そう信じることで子どもに対する愛情が増幅されるのかもしれないが、それがなくとも十分に子どものことを愛している。

良く分からないのが、私はいったいなんなのだ、ということ。
外見、内面、全ての特徴を総合的に捉え、私という人間ができている。
特徴というのは私から見た特徴、他人から見た特徴、それぞれ別の視点があるのだから、最低4つの目が必要ということになる。私を形づくるものが何か。
観察したら何かが見えてくるのか。
今、この瞬間に私自身が考える私は、ただ、脳が電気信号を送っているだけに過ぎず、10秒前に考えていた私という像は、すでに過去のものになっている。
ウイスキーを飲み、酔いが回る。それにつれ思考が歪んでくる。
私は、もはやあの頃に認識していた私ではない。
雨音が心地良いと感じていた私は、すでに数分前に置き去りにしてきた。
やがて眠気がやってくる。この、心情的な描写はやめることなく、ずっと続けられる気がする。それが何を意味するのか。
それはつまり、常にアップデートされ続ける私という像を表している。
言葉を見つけるのに時間がかかるから、その合間に産まれた私は、それを表現する言葉を見つけることができないまま、過去のものになってしまう。
時間って、ホント一瞬で過ぎ去っていくよね。
私が死ぬまでのあと数十年(と思っている)は、永遠のように感じるけれども、その瞬間に私が思い描く気持ちを表す言葉が見つからずに、最期を迎えるのかもしれない。
それに抗うかどうかは、その時の私が決める。