SNSに疲れてしまう時がある

Twitter アプリをiPhoneから削除したら、iPhoneに触る時間が実質的に減った。
私がiPhoneに触れる時間の70%くらいは、Twitterだったのかもしれない。

たまに、1年に1回程度だが、全てのSNSからログアウトしたくなる時がある。
理由は、他人と比べてしまう自分が許せないこと。
それと、自分の生活において、シェアすることを目的に感じてしまうこと。
多分、私は、それに強く依存してしまうのだ。
他の人が気になってしまう。
自分のことをシェアしたくなってしまう。
そこから得られる刺激が快感となり、麻薬のように感じているのだ、きっと。

SNSに浸るのをやめてみて、その代わりに生まれたのが、物思いに耽ることだった。
物思いというのは自由だ。
自分がどんなことを考えていようとも、誰からも制限されることはない。
すごい。
自由という世界がこんなにもすごいなんて。
真の意味での自由とは、物思いに耽ることなのかもしれない。
生きること自体は自由なのかもしれない。
だが、そこには見えないモラル、ルールがあり、人間はそれに従いながら生きている。
社会を共同で作っていく分には必要なことだろう。
しかし、物思いは、そういう制限が一つもない。
公序良俗に反するもの、社会不適合と思われるものすらも、思うことが自由なのだ。
もちろんそれを行動に移すとなると上述したモラル、ルールに従って果たすべきだから、そこは勘違いしてはいけない。

また、何度もここで取り上げる「妄想」という領域についても気を付けなければいけない。
あの人が私を嫌っているのかも、私は生きている価値がないかも、といった類についても容易に思い至るのだが、それは考え続けても何の成果にもならないばかりか自分の精神を蝕む要因になりさえするので、すぐにやめるようにしている。
SNSから離れている今、対象とする相手がぐんと減ったせいで(関わる人間が家族か、同僚しかいない)、それに至る妄想自体が減ったという事実もあるので、あまりそちら側に飛躍することはなくなった。

だが、やがて、こういう、物思いに耽るのが気持ち良い、という気持ちもだんだん弱くなっていくのだろう。
いつものように、飽きてくるのだ、きっと。
飽きるというのは、人間が成長するための必要なものだと言われる。
飽きて違うことをするのが、人間の成長に必要なことだと。
少し分かる気がする。
ずっと物思いばかりしていても、何も成長しないことは明白だ。

そして多分、過去に数回あったように、Twitterが恋しくなるのだ。
今はTwitterに全く触れていない。
仲良くさせていただいていた方々の最近が、全く分からない。
分からなくても正直なところ自分の生活で困るということにはならないのだが、少しだけ寂しさを感じることがある。
満たされない、という思いが適切かどうかはなんとも言えないが、そんなような気持ち。