タグ: 思い

  • 5月17日

    自分だけ良い思いを、と思ってしまって家族がいるのに自分だけ一人で行動することに対し、ものすごく抵抗があるんだけどさ、

    そんな中でも今週金曜、ソロキャンに行くんすよね。

    それ、行動に移すまでにものすごく葛藤してさ、休みの日に家にいない父親なんてサイテーだ!とか思ってたんだけど。

    だけどそれって自分がそう思い込んでいただけで、実際に家族にそのことを話してみると、家族的には「全然行ったらいいじゃん」ってスタンスでいてくれたから、案外言ってみるもんだな、と思ったりしたよね。

    世の中、そういうことが本当に多い。

    私は田舎育ちで、長男という立場なので、いずれ実家に戻らないといけないよなみたいなことをずーっと考えていたんですよね、それこそ結婚するまで、とか。
    けど結婚して、生活の拠点を今の地域に置き、そこで生活、仕事をしてったりすると、もう戻れないよな、ってなった時に、

    マンションを買って、そこに根を張ることに対して、やっぱものすごく抵抗があったんだよね。
    長男だし、実家に戻るべき、と思ってたから。

    だけどそこを振り切って、マンションを買うことを親に話したら、まぁ、そこは親の優しさという点で、ものすごく泣けるんだけど、優しく受け入れてくれて。
    彼ら的にはきっと、私の考えを優先してくれたんだと思うんだけど。

    これ今考えても、よく言ったよな、って思う。彼らの気持ちが痛いほど分かるから。そりゃ子供は手元に置いておきたいよね。

    私はそんな気持ちを踏み躙って、自分の気持ちを優先させてしまって、これは親不孝なんだろうか、と未だに葛藤したりするんだよなぁ。

    そういう人多いだろうな、多分。

  • SNSに疲れてしまう時がある

    SNSに疲れてしまう時がある

    Twitter アプリをiPhoneから削除したら、iPhoneに触る時間が実質的に減った。
    私がiPhoneに触れる時間の70%くらいは、Twitterだったのかもしれない。

    たまに、1年に1回程度だが、全てのSNSからログアウトしたくなる時がある。
    理由は、他人と比べてしまう自分が許せないこと。
    それと、自分の生活において、シェアすることを目的に感じてしまうこと。
    多分、私は、それに強く依存してしまうのだ。
    他の人が気になってしまう。
    自分のことをシェアしたくなってしまう。
    そこから得られる刺激が快感となり、麻薬のように感じているのだ、きっと。

    SNSに浸るのをやめてみて、その代わりに生まれたのが、物思いに耽ることだった。
    物思いというのは自由だ。
    自分がどんなことを考えていようとも、誰からも制限されることはない。
    すごい。
    自由という世界がこんなにもすごいなんて。
    真の意味での自由とは、物思いに耽ることなのかもしれない。
    生きること自体は自由なのかもしれない。
    だが、そこには見えないモラル、ルールがあり、人間はそれに従いながら生きている。
    社会を共同で作っていく分には必要なことだろう。
    しかし、物思いは、そういう制限が一つもない。
    公序良俗に反するもの、社会不適合と思われるものすらも、思うことが自由なのだ。
    もちろんそれを行動に移すとなると上述したモラル、ルールに従って果たすべきだから、そこは勘違いしてはいけない。

    また、何度もここで取り上げる「妄想」という領域についても気を付けなければいけない。
    あの人が私を嫌っているのかも、私は生きている価値がないかも、といった類についても容易に思い至るのだが、それは考え続けても何の成果にもならないばかりか自分の精神を蝕む要因になりさえするので、すぐにやめるようにしている。
    SNSから離れている今、対象とする相手がぐんと減ったせいで(関わる人間が家族か、同僚しかいない)、それに至る妄想自体が減ったという事実もあるので、あまりそちら側に飛躍することはなくなった。

    だが、やがて、こういう、物思いに耽るのが気持ち良い、という気持ちもだんだん弱くなっていくのだろう。
    いつものように、飽きてくるのだ、きっと。
    飽きるというのは、人間が成長するための必要なものだと言われる。
    飽きて違うことをするのが、人間の成長に必要なことだと。
    少し分かる気がする。
    ずっと物思いばかりしていても、何も成長しないことは明白だ。

    そして多分、過去に数回あったように、Twitterが恋しくなるのだ。
    今はTwitterに全く触れていない。
    仲良くさせていただいていた方々の最近が、全く分からない。
    分からなくても正直なところ自分の生活で困るということにはならないのだが、少しだけ寂しさを感じることがある。
    満たされない、という思いが適切かどうかはなんとも言えないが、そんなような気持ち。

  • お墓の中に私はいない

    お墓の中に私はいない

    幽霊やお化けという存在は人間が作りだした幻想だと思っています。そういう存在を作ることで、何か都合の良いことがあったのだろう、と。河童とかね。流れが速いところだから、子供たちをそっちで遊ばせないようにするため、とか。

    だから、お墓参りに行ったとしても、そこに故人は住んでいない訳ですよ。そりゃそうだ、お墓には故人の骨しかないのだから。

    もっと言うと、お墓参りって、自己満足なんですよね。
    ちなみに私はお墓参り、大好きです。気持ちがすっきりするので。

    Photo by Luis Quintero on Pexels.com

    すっきりってどういうことなんだろう。

    お墓参りの目的って、いったいなんなんだろう。

    お墓参りに行くと、故人の思い出、それも良い思い出が思い浮かばれます。
    あぁ、楽しかったなぁ、などと故人との関わり合いについて、思い出しますね。
    その辺りの気持ちを思い浮かばせて、線香の独特な芳しい香りを感じる。
    この一連の行動、心情展開が、気持ちをリフレッシュさせることに通じるのかな、と思います。

    Photo by Artem Beliaikin on Pexels.com

    あと、私は実際に見たことはないですが、一升瓶のお酒を持ち込み、お墓の前に座り、語り合いながら飲むおじさん。彼はきっと、故人に話を聞いてもらいたいのでしょう。
    現実にも、話を聞いてもらう人はたくさんいるのだろうけど、きっと、おじさんは、故人にしか分からない目線、雰囲気で話をしたいのだろうなぁ。

    その思い、シンプルに、良いなぁ、と思いますね。

    人って孤独な部分があるからこそ、人との関わり合いを求め、それを思い出の棚にしまい、たまに思い出すのだろうなぁ。