タグ: 多様性

  • 4月17日

    エンタメ小説は、売れることを目的にしている。
    純文学と呼ばれるような小説は、自分の内面から湧き出る想いを文章という形で可視化し、周りに読んでもらうことを目的にしている、ような気がするんだよなぁ。

    昨日の朝ラン中、そんなことを考えたんだった。

    いや、けどそういうカテゴリーはどうでも良くて、私が昨年くらいから描いている小説はその両方に当てはまるような気がしてて。

    そうそう、そもそもカテゴライズしたくなっちゃう病ってのがあんま良くなくて、私のネガティブ思考に関連する話でもあるんだけど「そのどっちにも当てはまらない状態」を認めるのが、すごく気持ちが悪い。イエスかノーか。赤か青か。プラスかマイナスか。そういう教育を受けて育ってきたから?よく分からない。

    グレーを認めると言うのは、多様性を認めるということにもつながる。もしかしたら私の中で、多様性というものを認めたがらないのかもしれない。いろんな考え方があって然るべきだし、58億人の考える、自分の中にある正義や信念に基づいて生きているだろうから、そのことに異議を唱えるつもりはなく、みんなそれぞれ自分の正義や信念を信じて、他人の邪魔をすることなく生きていったら良いのにな、と思ったりします。
    朝食も、ごはん派、パン派だけじゃないと思うんだよね。食べない人、お茶だけ飲む人とか、いろいろいるもんね。

  • 学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    自分の生き方は自分で模索していく世界になりつつある中、いろいろな人の考えを知り、自分だけの正解を導いていく世界。
    いろいろな人の考えを知ることが必要なのだとすると、偏差値の近い人が集まる高校という制度は正しいのであろうか。

    自分と学力の近い人たちが集まる学校。
    考え方の近い人たちが集まるのだから、気が合う人、沢山いるのだと思う。
    一方でそれは、もしかすると、多様性のある考え方を手に入れるチャンスを逃しているのかもしれない。
    一長一短なのかもしれない。
    どちらが良い、ということではなく、好みの問題。

    それがデメリットだと感じる人はおそらく、学校の外に出会いを求めていく。
    ボランティア活動やバイトなど、様々な境遇の人が集まる場所。
    おそらく、いろいろな考えを手に入れることができるだろう。

    生き方は人それぞれだから、自分の信じる道を進めば良いのだ。
    変化する必要はない、他の人から刺激を受けたくない、自分の中にあるもので十分という人だっている。
    正解は自分で見つける。