タグ: 先入観

  • 優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しい人ほど怒らない、という一文を目にする機会が割と多い。

    怒る怒らないと、優しい優しくないに相関があるとは思えない。

    また、優しい人ほど怒った時がヤバい、みたいな迷信を耳にすることもある。

    これも真相はどうだか、という気分だ。
    私は割と怒らないタイプ、静かなタイプと見られていて、だからこそ上記に関連した話を受けることがある。

    こちらとしては、一切関係ないよな、と思いつつも。

    まず、優しいってどういうことだろう。

    優しいって感じるのは人それぞれなのだから、私が考える優しいと、あなたが考える優しいには大きな隔たりだって
    ある気がするのだ。

    優しい=怒らないという仮説。

    怒らないのは、あなたに期待していません、だからあなたのやることにこちらは反応しません、というスタンスだ。

    これが、優しいと言えるのだろうか。
    期待しているしていない、という見方が出てきてしまった。
    全くもって収拾が付かない展開である。

    あらー、そうなんですかー。いいですよ全然!大丈夫です!
    の裏側に、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスがいるのだ。
    これのどこが一体、優しいというのだろうか。

    優しいをググってみた。

    姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

    つまり外見、態度としての形容詞だということだ。
    つまり、中身に関しては問わないということだったのだ。

    だから、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスは、どうだって良かったのだ。

    私は今まで、その、内面的な部分まで含めた態度に対する形容詞だと思っていた。
    間違っていた。

  • めんどくさいは悪だけど、魅力的

    めんどくさいは悪だけど、魅力的

    日々、いろいろとめんどくさいことをこなし、過ごしている。

    めんどくさいという感情は悪だ。何のメリットもない。

    そんなものはなるべく早く取っ払うべきだ。

    分かっている。
    分かっているけど、そのめんどくさいという感情に振り回され、
    怠惰になりたい自分と、律しなければいけないという意識が闘う。

    結果、怠惰なほうが勝ることが多い人生と、律する方が多い人生、それぞれが迎える未来の差はとてつもなく大きい。

    それぞれ、飴と鞭に例えられることが多い。

    どちらが良いということはない。なるべく機嫌良く生きていくことが人生のモットーと考える私は、
    それぞれ、どちらでも良いから自分が機嫌良く生きていければ良いと思っているから。

    大切なのは、自分が選んだ生き方に対して責任を持つこと。

    律ししすぎると疲れてしまう。ひどくなると精神を病むことだってあるだろう。
    怠惰になりすぎるとなにごとにも甘えてしまう。社会に適合することが難しくなっていくかもしれない。
    だけどそれぞれ、自分が選んだ生き方なのだから、胸を張って、生きていけば良い。

  • 私は凡人だから

    私は凡人だから

    日々、何かをインプットし、このように文章を排出している。
    この文章自体も、新たなインプットとして受け止め、それを基にしてさらに新たな文章を排出したりも、する。

    だが、私がここで紡いでいる文章は、インプットがなかったら出来上がらなかったのだ。
    つまり、インプットしたもののコピーということになる。
    インプットしたものをいくつか組み合わせて排出したりもするから、それは見方によっては自分のオリジナルかもしれない。
    だがその組み合わせ方も結局どこかで誰かが考えたやり方に則っている(ような気がする)から、私の完全なオリジナルというのは、もはや生まれないのではないか。

    私がここで考えつくようなものは、世界のどこかで誰かがすでに考えているはずだ。
    私がそこまで突飛なことを考えることができないというのは、十分に理解しているから。
    私が今、両手に持っている知識や経験は、どっかで誰かから受け継いだものに違いないから。

    昔、アイデアの作り方という本を読んだことがある。
    昔、と書いているが、今でも私の本棚に眠っている。
    それを先日、少しだけ開いた。
    そこには、「あり得ないものを組み合わせてみる」と書いてあった。
    それを読んだ瞬間は、確かにそれは新しいアイデアが作られるような気がする。

    が、

    例えば、目の前にあるものを組み合わせてみよう。

    紅茶が入っているティーカップと、付箋。
    これらを組み合わせると、何か浮かんでくるだろうか。

    アイデアとしてあるのは、それぞれ、オフィスで日常的に使うものである。
    ぱっと思いついたのは、ティーカップに付箋を備えたもの。
    だけどティーカップは洗う。付箋は水に弱い。
    だがそれは水に弱い付箋という先入観を持っているからで、材質を水に強いものに変えたらどうだろう、と新たな発想が思い浮かぶ。

    ここで、悪魔が登場する。
    そんな発想、世界のどこかで誰かがやってて、その人はきっと、製品化しているよ、と。
    私はそこでやめてしまうのだ。

    私は凡人だから。

    私は、凡人だから。

    多分、自分の生み出したアイデアによほどの自信があれば、それを製品化して売るところまでの情熱が生まれるのだろう。

    その情熱は、自分にあるのだろうか。

    大学の頃、遊びでTシャツにアイロンプリントをして売るということをしていた。
    友人が1枚だけ買ってくれただけだったが、元手は0円だったので、痛くはなかった。
    Tシャツをデザインするのが好きだった。
    それをビジネスにしようと思ったのは、ある程度の自信があったのかもしれない。
    今の自分には、そこまでの情熱はない。

    残念だけど、私は凡人だから。

  • 自由って難しい

    自由って難しい

    自分は自由だ。

    自由ってなんだ。

    自由、っていう文字を何度も繰り返し、その文字自体を凝視していたら、じゆうって読めなくなってきた。

    森博嗣によると、自由は、自分が計画した通り、予定した通りに生きること、だそうだ。

    こんなにシンプルに、自由の意味を定義できるなんて!と、私は彼の才能に嫉妬した。

    自由について少し考えたい。

    生活な自由と聞いて連想するものは、たしかに、自分が思い通りに生きていることにつながる。思い通りというのは言い換えれば計画した通り、予定した通り、になるから、森博嗣の言い方はまさに的を得ているように感じる。

    難しい。
    自分が計画できなくてはいけないし、
    計画を遂行できなくてはいけない。
    計画するためには気力が必要だし、
    遂行するためには気力、体力が必要だからだ。
    つまり自由を得るために、準備が必要なのか。
    自由を得るために、体力作りをしなければいけない場合があるのか。(計画した内容が体力を必要とする場合)

    休日、家でダラダラすることだって自由だ。
    だがこれも同様で、ダラダラするための気力が必要なのだろう。
    私は日々、何か成果を残したいタイプなのでダラダラすることがあまり得意でなく、なので、私にはダラダラするための気力が足りていないのだろう。だから、ダラダラするための気力を準備する必要がある。

    強引な展開だろうか。私には強引に見えない。

  • 悪い思い出との付き合い方

    悪い思い出との付き合い方

    ここ数日は、自分が過去とどう向き合っていくべきかという点について考えることが多い。

    最近、早朝に見る夢の印象が強く残る。
    季節が春へと移り変わっていくせいだろうか。

    春は出会いや別れという点で、様々な思い出がよみがえってくる。
    良い思い出もあれば、悪い思い出もある。

    良いとか悪いという、その受け取り方については、多分、時の移り変わりとともに変わってくることだってあるだろう。
    だから、今は良い思い出だとして受け止めていても、将来はそれが悪い思い出に変わることだってあり得る。

    おそらく良いとか悪いとか、そういう評価をせずにフラットな目で思い出を保存しておくことができれば良いのだ
    だけど思い出は自分だけのもので、それには多くの場合評価が付いてくるから、そこを切り離すのは難しい。

    悪い思い出は、それを思い出すだけで不快な気分になってしまう。
    思い出さなければ良いのだが、不快な気分を期待値として無意識に持っているため、それをわざわざ思い出してしまう。
    人間の悪い仕様だと思う。
    悪い思い出は、思い出さなければ良いのだ。
    ふっと不意に浮かんでくることがあるので、その際は、10秒くらい経ったら忘れるように心がける。
    違うことを考えると、悪い思い出が自然と頭の中から消えていく。
    それを繰り返していくうちに、悪い思い出が頭の中に浮かんでこなくなる。
    これは、思考のトレーニングで、自分の悪い思考プロセスを断ち切るために必要だと、何かの本に書いてあったものである。
    私はこれを日々実践しているが、なかなか難しい。
    そのうちに、悪い思い出が良い思い出に変わってくれないものかと、春を待つようにぼんやりと、その日が来るのを待っている。

  • 深く考えずに生きることの潔さ

    深く考えずに生きることの潔さ

    考えすぎは良くない。
    だいたいのことにおいて考えすぎると、悪い方向へ行きがちである。
    特に、生きることの目的や、死ぬことへの不安、他人とのこと、この辺りを考えると良くない。
    昨日のブログでも取り上げたが、過去も良くないだろう。

    人間だもの、それらについて何か感じ、そこから何か考えていくことは自然なことなのだと思う。
    ただそこで、あまり考えすぎないようにするべきで、もっと言うとそれらから何も感じないことが大切だ。

    ただ、そのあたりから創作される物語は多い。
    多分、心の琴線に触れやすい敏感な箇所で、人々はそれを観ながら鑑賞に浸ったりするのが楽しいから、作品になりやすいのだろう。
    過去を想う作品。このテーマだけでも良いストーリーが描けそうな気がする。

    [商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

    反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」 [ 草薙龍瞬 ]
    価格:1430円(税込、送料無料) (2021/2/7時点)

    楽天で購入

  • 時には雨が降ったって

    時には雨が降ったって

    関東地方は、なんとなく久しぶりな感じの雨。まとまって降ることが少ない季節なので、雨が降ってしっとりした空気になると少しだけ嬉しい。

    雨は煩わしい。傘を持つのが嫌いなので、なるべく雨の降る日には外出したくないと思ってしまう。服が濡れるとか、いろいろ面倒だと思ってしまう。

    そんなに嫌われる存在ではないだろう、本当は。ベランダでいくつかの植物を飼っているので、彼らにとってまさに恵みの雨なはずで(雨がかからない場所に置いているから、本当に恩恵を受けている訳ではないにせよ)、雨の良さというものは理解しているつもりだ。

    もっと言うと、晴れの良さを実感することもできる。イベントが雨で中止になり、まさに雨に泣いたことだっていくつかあったはず。そんな時に、晴れていれば…という気持ちにだってなったはずだ。

    また、雨は、感情や状況の比喩表現として使われることもある。クヨクヨしている人に対して「やまない雨はないよ」という声かけ、などは典型的な例だろう。そんな風にして、雨は、なんとなくぐずつくイメージを持っている。

    雨に対しての先入観をなくし、もっと肯定的になれれば。雨を味方につける、というと言い過ぎだろうけど、雨を愛することで、もしかしたら全天候に対してポジティブに、さらに天気が良かろうが悪かろうが機嫌を損ねることはなくなるのではないだろうか。

  • 君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    白って清潔。何にも染まっていない。まばゆい。雪。牛乳。

    先天的に目の見えない人に、白という色を伝えるにはどうしたら良いのか。
    適切に、最低限の言葉を使って伝える場合の、正解が見つからない。

    目の見えない人、って言い方をしたけれど、違う言語を使う人に対して、適切なニュアンスを含んだ意味を伝えるのが難しい。

    例えば、どうも。っていう言葉、これを日本語を知らない人に対して伝えるにはどうしたら良いのか。
    先に挙げた、白と同じ話。
    こんなにも難しい世界で、戦争をなくそうって言うのは到底簡単なことじゃないんだろうなと思う。
    戦争がなくなったほうが良い、ということがどういうことなのか、意味が分からない人だっているのだから。
    そんな世界に生を受けた人は、戦争のない世界がどんなに良いものなのか、想像がつかない。
    日本という国で、穏やかな西日を受けながら、こんな風にブログを書いている人間のことを想像することができない。

  • 人生に、ある程度のロマンは必要

    人生に、ある程度のロマンは必要

    基本的に、以下のマインドで生きています。

    • 幽霊はいない
    • 占いは嘘
    • 血液型も信じない
    • 夢で何を見ても関係ない

    なんというか、根拠のないものについてはあまり信じたくないと思う節があります。

    割とつい最近までそんなことなかったんですけどね。
    明確な根拠はよく分からないのですけど、哲学の本を読んでいるうちに、なぜかそういう心持ちになりました。

    占い、血液型、信じないの、つまらん男よね、と思ってしまう。
    話を合わせるという面で、多少は興味を持ったら良いのでは?と思ってしまう。

    そういえば12月も中旬に入った今、改めて思い出しましたけど、私、本厄なのにお参りには行きませんでした。
    家族に勧められ、お守りは買いましたけど。

    結局お参りしたところで病気にはなっちゃうだろうし、とか考えるとどうしても億劫になってしまって。

    けど、一方で、そういう文化が根付いているということを、きちんと理解しておく必要性、ね。

    占いなんて、一つのメジャーな産業になっている気がするもんね。
    それだけ、占いに執着する人がいるわけでしょ。

    例えば大きな買い物をする時。
    家とか、車とか、人生でそんなに頻繁に買わないものを買おうとする時。
    迷いますよね。
    迷った挙句、自分じゃ決められなくなって、誰かに助言を求めるじゃないですか。その矛先が、占いなんですよね。

    占いは、占星術とか、なんらかの根拠をもって未来を指し示してくれますが、その結果については正しかったかどうか、誰も気にしてませんよね。
    そこで「悪い結果が出た!お金返せ!」となるのはお門違いなんです。
    だから、占いによって得られた助言によって、自分が全部の責任を負いながら決断をするんですね。
    そこに、一切の責任は持たない。
    けど、占いはそれでいいんです、その位置付けが一番最適なのだと。
    それでもなお、人間が占いを気にするのは、そうしたほうが人生が豊かになる気がするから。

    なによりもまず、楽しいですよね、占い。血液型とか。星座とか。朝のニュースでやってる占いで1位だったりすると、なんとなく嬉しい気分になり、12位だとなんとなく残念な気分になります。

    あと、占いとか、根拠がないから意味がないというのは先入観なのだから、人生を楽しむという意味では、それ含めの人生にしていくと、もっと豊かになるのかもしれないなぁ。