可能性の話

不惑というのは40歳のことを指す。
これは自分の可能性についてどのように捉えるかという点において、そういう年なのかな、とふと考えた。

自分の将来について、可能性は無限大で、極端なことを言うと死ぬ直前まで自分の将来というものの可能性は無限大に広がっていると考えることもできるのだろう。
私は自分が今持っているリソース、例えば身体能力、思考力、財産、家族、といったものの枠を超えて広げて考えるほどの突飛な可能性を考えないタイプなので、多分そんなに大それたことを考えることはできないだろう。

これは見方を考えると、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
自分が持っている、制限と言い換えることもできるだろうこれらのリソースを元に、自分の将来を考える。ある種真っ当なことのように思えるが、例えば今、私が「国会議員になり、その先に総理大臣、そしてその暁にはこの日本を明るい国にしたい」のようなことを考えなくなってしまう。

別に私が大志を抱き、国会議員を目指そうとしても良いのだろうけど。

話を戻す。40歳が不惑と言われる所以。
多分、そこには、私が上述したようなリソースが固まってくる頃なのだろう。
仕事に就く、家族と生活を営む、この辺りの観念が定まることによって、将来の方向性が狭まってくる頃。
人生は細かな選択というのだろうけど、私はその都度で自分の最善と思える選択をしてきて、今の自分が出来上がっている。
だから今の自分がこうなっているということに対して後悔をするのは違う。その都度で選択をしてきた自分を否定することになるからだ。

今の自分自身、そして自分を取り巻く生活の色々な部分を考えると不満があるかもしれない。けど、過去の自分が選択してきた結果こうなっているのであって、それによって将来の選択肢が狭まってきたとしても、それはそれとして納得して、その狭まった選択肢の中で自分が機嫌良く生きていくためにはどうしたら良いか、それについて真剣に考えれば、良いだけなのだろうか。