無理しない
人と比べない
自分の中にあるベストを
早く寝る
お酒を飲みすぎない

罪を憎んで人を憎まず、、、
最近、罪を犯す人間が育ってきた環境について考えたことがあり、彼らは望んで罪人になるような人間ではなかったのではないか、と。そもそもの話。
だからといって加害者を擁護するつもりは毛頭ないのですけれど。池袋のプリウスの話についても、早いとこ罪人認定して欲しいな、と思う程度の。
で、罪を犯し、刑務所に入り、入って直ぐか、何年経ってからかはその人次第ですが、「自分はこんな人生を歩んでいくはずではなかった」と思うことがあるのではないかと。
例えば、親という、自分の人格を作る上で大きな影響を与える人間のこと。彼らが、自分のことをもうちょい善い人間に育ててくれたらな、と、考えることがあるかもしれません。
もしくは友人。彼らがきっかけとなり、悪に手を染めるような人間になってしまった。あの時自分を誘ってくれなったらな、と。
例に挙げた2つの事例。親だったり、友人がきっかけとして、罪人になるような人間を作り上げてしまったとすると。
その場合は、その人たちも悪い。
その人も悪い。
けど、それもそうだけど、その人たちの方にしか身体を向けなかった自分も悪い、かなと。人生を選択した責任だってあるだろ。
というのも、おそらく悪友と同じように、善友とでも言いますか、自分を善い道に導いてくれる人間だっていたはずなんですよね。この世の中って悪い人間ばかりじゃないので。
なので、そっちの方、善友の方に耳を傾ける、身体をそっち側に向けることが、自分を正しく律するために必要だったのではないかと。
罪を憎んで人を憎まず、、、
はわかるのですが、自分にだって責任があるだろ、というお話。

人生は選択肢が多い…どっちを進んでも正解なはずなのだけど…
「悩む」と「考える」は違う、という投稿を前に書いたことがあります。
悩むことは妄想で、~したらどうしよう、みたいな観点で、選択肢を迷う時に、良く「悩む」ことをするような気がします。
どっちを選んでも正解なのです。
自分が選んだ道だから、と覚悟を決めることができないから、悩み続けるのではないでしょうか。そんな簡単な話ではないですよね。そりゃそうだ。
食後のデザートはみかんか、りんごか、という小さな選択肢から、転職すべきか、ここに留まるべきか、という人生を変えるような選択肢まで、様々なシーンで悩むことがあります。
人生はパラレルワールドではないのですから、自分の選んだ道を信じて進むことが、唯一の正解です。
だから、どっちを選ぶかということについては、正解はないのです。言い換えればどっちを選んでも正解、ということです。

ここから先は駄文です。
とは言え、選択肢があるような場合だと、どちらのほうが自分にとって得なのだろう、という観点で考えることもあるでしょう。
例えば仕事。
答えは簡単で、自分がどっちに重きを置くか、です。
お金が欲しいのか、満足した仕事がしたいのか。
両方を取ることのできるような選択肢があるのが一番良いのですが、人生ってそんなものですよね。

1人で酒飲んでる時とかに考えるんだけどさ、
1人で飲む酒はうまいのかそもそも。俺ダメなんだよなぁ。
俺みたいに周りの気持ちを推し量るのが苦手な人間は、むしろ1人で飲んだ方が良いと思うぜ。でさ、考えることなんだけど、
周りの気持ちを推し量るのって変な気遣いのひとつだし、そんなこと考えてたら確かに酒がまずくなるよなぁ。てか酔わないだろ。
あーそれかな、酒がまずくなるってのが一番の理由かも。いつの間にかビールがなくなってて、けど全然酔ってないんだよね。てかさ、俺に喋らせてもらっていい?
人生の豊かさとはいったいなんだろう。
ここ最近は毎日のように、「人生で目指すべきはいかに機嫌良く過ごすかである」ということを考えているものの、考え方は無限にできるよな、と。
マツコ・デラックスさんがどこかで、少しくらいはみ出すと、人生に味が出る、というようなことを言っていたそうで。
目指すべきは、いかに機嫌良く過ごすか、ということを考えた時、私はつい、機嫌良く過ごすか=期待通りのことをなるべく選ぶこと、と解釈してしまう。
そうすると、冒険をしなくなると思うのだ。
多分私は臆病で、冒険することで何らかが失敗してしまったら、きっと心に傷を負うことになるはずで、その傷を負うことで残りの人生に悪い影響を与えるのが嫌なのだ。
だから、無難な選択肢ばかりを選ぶ。無難な選択肢はとても現実的で、多分、大半の人も同じ選択肢を選んでいるような気がする。つまり私は、大勢の中の1人に埋もれる程度の人間になる。
冒険して心に傷を負うくらいなら、目立つことなく大勢の中の1人に埋もれる程度の人間になった方が良いのだ。
だから、マツコ・デラックスさんの残した言葉(って書くと故人みたいな感覚になる。これからも応援しています)には、私に考える種を与えてくれた。
そして、少しだけはみ出しても、その当時は悔やむのだろうけど、後々自分の糧になってくるのだろうな、と想像することができた。

かと言って、私の思考回路ではいきなり大それたことが生まれるはずがない。
多分、人生をゆっくりと進んでいく中で、不意に訪れる「ちょっと冒険してみようかな」という選択肢を選び、結果失敗してしまったとしよう。その時に後悔はするだろうけど、マツコ・デラックスさんの言葉を思い出し、立ち直るきっかけになる気がする。
その時になってみないと分からないけど。
人生は稀に、本当に些細な選択肢の間違い(と呼んでいいのか分からないがとりあえず)が大きな分岐を生むことがある。
その後、自分の人生が間違っていたかどうか、と当時を振り返ることがある。
人生が間違っていたかどうか、いろいろな観点で見ることができるが、それが何目線かで検証結果が大きくブレる。
ぱっと思いつくのは自分の進路。
あの時もっと勉強して、違う分野に進んでいたら、自分は違う人生を歩んでいたのではないか、という考え方。
いろいろと誤解が潜んでいるが、これは多くの人が考えるものの一つだろう。
私も、幾度となく考えてきた。
だけど、根底には「現実は急に変えられない、時間は戻せない」という原則があるので、何を考えても結局たられば論でしかない。
であれば、考えるだけ時間の無駄である。だけどもし、現実の生き方が本当に嫌なのであれば、違う人生を歩むべく、努力が必要だ。
そして数年後、最期を迎える瞬間かもしれないが、その選択が間違っていたかどうか、再検証する時が来るので、その時に胸を張って「そっちを選んで良かった」と思えるような努力をすべきだろう。

去年の年末、溜まった有給休暇を消費すべく3週間くらいのお休みを取得しました。最初のうちはヒャッハー!な気分だったのですが、クリスマスを過ぎたあたりからは退屈になってしまって。有給休暇中にも関わらず会社PCを起動して未読メッセージをチェックする始末。
もしかしたら私は、定年退職をしたらあっという間にボケてしまうタイプなのかもしれません。やることがないという状況を、シンプルに楽しむことができないので。ただ、自分のしたいことをすれば良いだけなんですけどね。そこに怠惰という気持ちがもしかしたら混ざっているのかもしれませんが、動く、という選択肢ではなく、動かない、という方向での時間の潰し方を考える必要があるのかと思います。

それでは、何かやらなきゃいけないことをたくさん持つことで、日々の時間を過ごすことができるのではないかという考えについて。それ自体は良いことかもしれません。怠惰な気持ちを持つことなく、コツコツとやり遂げることは、もしかすると将来、大きな成果になる可能性があります。資格取得に向けた勉強をするとか。好奇心を持つことが、まず最初にあるべきかと思います。
ただ、私は、タスクを持つことなく、日々、動かなくても楽しめる気持ちを持つことを育てたいです。なぜなら、そうすることで身体が不自由になり小さなタスクすらこなせなくなったとしても、日々を楽しむことができるからです。
多分、その辺りは価値観が絡んでくる話なのだから、きっと正解はないのでしょう。小さなタスクの方を優先したい人だっているはずです。大切なのは日々、怠惰な気持ちを保つことなく暮らしていくことなのかなぁと思います。

いい人生を歩みたいと思ったら、前向きに生きている人間を近くに置くべきである。
と考えたのだけれど、いい人生っていうのは相対的なものだから、いい人生とか悪い人生っていうのは、なにかを基準に置くんだよな、とふと考えた。
違う、相対的に見ていい人生とか悪い人生とか、そういうことを書きたいわけではないので、修正する。

あくまで私個人や、私の周りにいる人を観察して感じること、という前置きをさせていただく。
自分の思想に基づいて人を選んでいくという趣向があるはずだから、自分の思いに賛同してくれる、もしくは、賛同してくれるまではいかずとも肯定してくれる人間が集まるような気がする。
自分がそういう人と一緒にいたい、同じ時間を過ごしたいと感じるのは、彼ら彼女らがとても心地良いからだ。
なぜ、心地良いと感じるのだろう。
それは、自分の思い通り、もしくは思いと近いものを、彼ら彼女らが持っているからだ。
すると、だんだん自分の思いが強くなっていく。自分の生き方は間違っていなかったんだ、と周りの人間が反応する様を見て、気づく。
多分、その時点での自分が考える生き方以外にも、様々な生き方があるはずだ。180度違う考え方を持っている人間だっているはずだ。
しかし、その時点での自分は、それ以外のことを思いつかない。
思いつく術がないから。

是でも非でもない。
心地良いのだから、そこから抜け出そうとする気持ちというのは、自然に弱まっていく。
居心地の良い場所、安全な場所に留まっていこうとするのは、生き物の本能なのだろう。
それを是と考えるか、非と考えるかは、自分の外に世界があるかどうか、その世界に対して魅力を感じるかどうかである。
井の中の蛙として、自分がいる世界で十分だという考え方がある。
外の大海に気づいて、そっちに魅力を感じるという考え方もある。
どっちが良いかは、自分の考え方次第である。
一般的に、後者のほうが、人生を俯瞰した時に、浮き沈みがあったものの経験という物差しで見たら、プラスだった、と考える人が多いような気がする。
だけどこれはあくまで価値観だから、私はどちらが良いかとは言えない。
私は、ある程度後者、大海に思いを馳せて生きてきたが、ある時を境に自分がいる世界で十分だと思うようになった。
ある時と言っても大きな出来事があった訳ではなく、なんとなく、そっち側を目指すことに疲れを感じた時だ。

死ぬ直前まで大海を目指す人がいるかもしれない。
私のように、どこか人生の途中で、大海を目指すことに興味がなくなる人がいるかもしれない。
どっちも正解である。
間違いではない。
では、どっちを選ぶのか、と考えた時に、私が思いついたのは、後悔という言葉だった。
死ぬ間際になって、後悔をしない人生を選ぶのが、自分にとって一番良いことなのではないだろうか。
もしかしたら、大海を目指すことを早々に諦めたほうが、後悔をしないかもしれない。
大海を死ぬ直前まで目指す方が。
どっちが良いと感じるか、なんとなく想像は付くものの、死ぬ直前まで分からない。
それまでは、少なくとも、自分が気持ち良いと感じる方を選ぶべきである。

不惑というのは40歳のことを指す。
これは自分の可能性についてどのように捉えるかという点において、そういう年なのかな、とふと考えた。
自分の将来について、可能性は無限大で、極端なことを言うと死ぬ直前まで自分の将来というものの可能性は無限大に広がっていると考えることもできるのだろう。
私は自分が今持っているリソース、例えば身体能力、思考力、財産、家族、といったものの枠を超えて広げて考えるほどの突飛な可能性を考えないタイプなので、多分そんなに大それたことを考えることはできないだろう。
これは見方を考えると、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
自分が持っている、制限と言い換えることもできるだろうこれらのリソースを元に、自分の将来を考える。ある種真っ当なことのように思えるが、例えば今、私が「国会議員になり、その先に総理大臣、そしてその暁にはこの日本を明るい国にしたい」のようなことを考えなくなってしまう。
別に私が大志を抱き、国会議員を目指そうとしても良いのだろうけど。
話を戻す。40歳が不惑と言われる所以。
多分、そこには、私が上述したようなリソースが固まってくる頃なのだろう。
仕事に就く、家族と生活を営む、この辺りの観念が定まることによって、将来の方向性が狭まってくる頃。
人生は細かな選択というのだろうけど、私はその都度で自分の最善と思える選択をしてきて、今の自分が出来上がっている。
だから今の自分がこうなっているということに対して後悔をするのは違う。その都度で選択をしてきた自分を否定することになるからだ。
今の自分自身、そして自分を取り巻く生活の色々な部分を考えると不満があるかもしれない。けど、過去の自分が選択してきた結果こうなっているのであって、それによって将来の選択肢が狭まってきたとしても、それはそれとして納得して、その狭まった選択肢の中で自分が機嫌良く生きていくためにはどうしたら良いか、それについて真剣に考えれば、良いだけなのだろうか。