生きるって、どういうことだろう。
生きる、って言っちゃうとどうも重たく感じてしまう気がする。
なので、生きてるな、って思った瞬間のことを書こうかなと思う。
未来の自分はそういうことを考えていた過去の自分を思い返し、改めてどんなふうに考えるのだろう。
今日も一昨日に引き続き、10km走ろうと思っていたものの、気持ちが前に向かず走ることができなかった。
言い訳を考えたらキリがない。寒いとか、家でのんびりしたいとか、今日は祝日で昼間は暖かかったはずなのにそれをスルーし、あっという間に夕方。
近所のスーパーまで買い物に出かけたら完全にやる気がなくなってしまった。
帰宅してお酒。
けれど今日は焼酎のお湯割り1杯で終わりにした。走らなかったことからくる罪悪感を抱いたためだろう。
その後、すべてのやる気がなくなり、決断するのがめんどくさい状態に陥った。
仕方なくその場をやり過ごそうとする。タバコ。外は寒い。
羽田空港から飛び立つ飛行機を4つくらい見送っているうちにタバコ終了。
管制塔にいる人ってすごいよな、と考えた。
数日前にも書いたけれど、人生って毎日がポジティブ、すべてのことに自信を持ってやり遂げることができます!というシーンは少ない。
歳を取ると尚更、というのが最近抱いていること。
こんな感じで、走ろう!と思ったのに走れなかった自分を認めないと、気分がより一層滅入ってくるのは知ってる。
そういうのも引っくるめて自分を愛する必要があるんでしょ、と不貞腐れた気分でそれを受け止める。
いつ、どんな時でも自分を肯定しないといけないんだろうか。
自分を否定することは本当に悪いことなんだろうか。
叱咤するというスタンスなのであれば、例えば今の自分に対しては、「明日走る!」というモチベーションにつなげることができるかもしれない。
だけど明日は仕事が忙しそうで、帰宅時間が遅くなりそうだから厳しいよな、と諦める自分もいる。
いったい、どの自分が本当の自分なんだろうと思う。
自分の中に、100人くらいの人格がいるような気がする。
それぞれの役割、例えば父親、夫、社会人、のようにいろんな帽子を被った自分がいるけれど、根本的には自分は一人なはず。
走ろうと思ったけれど走れなかった自分、控えようぜと思ってるのにお酒を飲んでしまう自分、タバコを吸ってしまう自分、どの自分を信じ、背中を押せばいいんだろう。
そんなことを考え、思いの丈をChatGPTにぶつけてみたら、バラの花びらを包んでくれるように優しく、自分を救ってくれた。
ニーチェは、人間を一つの意志を持った存在としては見ていなかったらしい。
いくつもの衝動がせめぎ合い、その時いちばん強かったものが前に出るだけだ、と。
そう考えると、今日は「走らなかった私」が勝っただけで、「走りたい私」が消えたわけではない。
明日、あるいはまた別の日に、そっちが前に出てくるかもしれない。
生きるって、たぶんそういう入れ替わりの連続なんだろう。明日からまた仕事だ。