自分探しという活動の意味が分からない

20歳の頃、自分探しと銘打って、ニュージーランドに住んでたことがありました。半年くらい。
半年とは言え、その大半は「早く日本に帰りたい」と思ってばかりで、あまり楽しんでなかったです。

その理由は、シャイで、あまり自分からガツガツ行くタイプではないので、純粋に楽しくなかったから。
そんな人が自分探しで行ったとしても、結局シャイな自分を再確認して終わり。
積極的とは言えない自分の性格、なのに、自ら海外に行こうとする、という積極的な姿勢、相反しますよね。

その心には、今の自分に満足していないという気持ちが存在しているはずで、だからこそ新しい自分を見つけに行きたいでしょう。
けど、新しい自分はそこにはいません。急に、別の環境に放り込まれたからって、新しい自分が生まれるかというとそんな簡単な話ではないからです。

自分を見つける、という態度がそもそもおかしいよな。受動的なのが気に入らない。
新しい自分を作りに行くという姿勢なら納得できます。こうなると肯定的だから。

あの時、もし、積極的な自分になっていたら、今とは違う人生を送っていたのかな、と思うこともあります。
そこには自分の願望はあまり入っていなくて、あくまで選択肢の一つという範疇でしかないけど。

積極的になる、という人間性についても、結局相対的なものでしかなくて、ある人から見たら私は積極的に見えるのだろうし、ある人と比べたら随分と消極的な人生を送っているようにも見えるはずだから、なにを以って積極的なのかはわかりませんけども。

少なくとも、自分がやりたいと思ったことについては、なるべくやり遂げてから死にたいなぁと思います。
その目線で、もしかしたら、大学を留年することが決まったあの日、海外で暮らしたいって思ったのかもしれないなぁ。