何年かぶりにジョージ・ウォーエルの1984年を読んでいます。
前に読んだのは何年前だったか。確かスティーブ・ジョブズがこの話を題材に出して喋っていたことがあり、それで気になって読んだんだよな。
物語はものすごく閉塞感の溢れる世界の中で綴られています。
未来なんてもんはねぇよ、そんなの気にした時点でお前は死刑だわ(誇張ではなく)みたいな話。
どこの国の、なに党がそうさせてしまったのかは分からないけれど、きっとめちゃくちゃ強いボスの下にはイエスマンしかいなかったから、そういう世界になってしまったんではないかな、と勝手に想像する。そう言う背景は描かれていなかったので、勝手に想像しています。
そんな中で主人公のウィンストンは、必死に自由だとか、正しい過去を信じようとするんですね。
過去なんてものはいくらでも書き換えられるから、それこそ私がここで最近書いたように「事実は変わらない、解釈だけが変えられる」に少し近いんですが、この物語常では事実すらも変えられてしまうんですね。様々な文書が書き換えられてしまって、人々の中にあった記憶の中の過去は、もしかしたら間違えてるんじゃね?みたいなノリ。
だけどウィンストンは、戦おうとします。こっそり日記を書くための手帳を買って、今自分が考えていることを書いたりしています。
もう、これは信念だよな、と思いました。
信念って難しいですね。言い換えると、自分だけが持ってる正論だと思うんですけども。
正論は時として人を攻撃してしまいます。誰から見ても正しいと思える正論って実は少なくて、それこそ誰から見た正義だよ、って話にも近いんですけど、同じように、信念を貫こうとすると弊害が起きたりしてしまったり。
そのうちに懐疑的になってしまって、私の持っていた信念って本当に正しいんでしょうか、って葛藤が生まれたりとかね。
自分の信念を貫くっていうのは、ある種の自己満足だと思うんです。
人間は自分のことがかわいいから、自分の信念は大切にしようと思うはず。
だけど、そこで、「社会」というものとの兼ね合いが生まれてしまう。
社会を立てようとすると、自分の信念を曲げなければいけない、と。
どっちつかずなんですね。
多分、その答えって、どうしたら自分が一番気持ち良いかって話なんだと思います。
奉仕の精神って言っちゃうと言い過ぎかもしれないんですけど、人間は、社会生活において誰かに奉仕することで自己実現を得られたりするので、プラス承認欲求が満たされるっていうところも関係してて、だから自分が気持ち良いのはどっちだ、って胸に手を当てて考えてみると良いのかもしれません。
その中で、少しだけ自我を通したいと思う人は自分の信念を貫こうとするし、逆の人は譲っちゃったりするんですよね。
そうやって、社会って成り立ってるんじゃないかなぁ。