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  • 8月10日 嫌った世界がこんなに綺麗だったとは

    8月10日 嫌った世界がこんなに綺麗だったとは

    若い人の可能性を狭めることなく、大きな翼を使って羽ばたいて欲しいと願う

    7時に起床。今日は長男がお茶の水まで夏期講習に行くので、まだ行き慣れていない長男に合わせて一緒にお茶の水まで。電車は空いていた。8月10日、明日は祝日、それと絡めてお盆休みに入っている人が多いのかなー、と思った。
    お茶の水。予備校とか大学が多いし、若者が多いなぁという印象。長男を塾の入り口から見送る。背中はまだ小さいかもしれないけれど、その背中を優しく支え、押すことのできるような父親になっているかと自問する。彼には彼の人生がある。彼の、これからの人生が、順風満帆に進んでいったらいいと願う。時には大きな障害とか、乗り越えなきゃいけない課題が出てくると思う。その前に、彼の思い描く第一志望の大学に無事に合格しなければいけないというチャレンジングな状況を、彼は彼なりの力で乗り越えなければならない。
    たくさん勉強したからといって、合格が確約されるわけではない。もしかすると、残念ながら彼の第一志望に合格できないかもしれない。だけど人生は続いていく。合格しないと、それは失敗と思うかもしれない。そこで、失敗を失敗と捉えるのではなく、人生を快活に進めるための一つの材料として捉えてもらえたらいいと思う。
    そこからお昼くらいまでオフィスで働いて、帰宅。18時からランニング。5kmの予定だったけれど思いの外涼しくて、風が心地よく(すでに秋の気配を感じた)、気持ちよかったので9kmまで足を延ばした。最後にダッシュ。その時は何も考えていなかった。音楽をイヤフォンで聴いていたけれど、音が耳で止まり、脳まで届かない感覚。無酸素運動になっちゃうと辛くなるので、残り200mを呼吸の頻度を高め、無事に走り切った。
    ホントは10kmでも良かったんだよな。だけど膝がぼんやりと痛くなりそうな気配だったので9kmでストップ。後悔はしていない。むしろそこでやめて良かったと思う。
    人生は続く。膝を痛めてしばらく走れないことよりも、ギリでやめて、次に臨むことをメインに考えていく。

    若い子だからって何も考えていないワケではいない

    恩田陸の「夜のピクニック」読了。恩田陸は蜜蜂と遠雷以来の2作目。青春小説の金字塔。三浦しをんの風が強く吹いていると同じ印象。若者が体を使うという点で同じ匂いを感じたのかな。
    高校生が、24時間かけて長い距離を歩くという話。異母兄弟の主人公たち。題材としてはそれだけ。今私が書いた30文字くらいのテーマを、恩田陸という変態(褒めてます)が描くとこうなるんだ、という印象。会話多め。
    途中、私の青春時代のことを思い出す。郷愁と呼ばれるやつ。感傷に浸ったりもしたけれど、大円団のエンディングを迎えて、安堵した。
    私は、理想の青春時代を過ごしたのだろうかと考えた。何度も考えた。高校は偏差値57くらいの、私の中では普通と呼ばれるランクの、茨城の県立高校。高2の時点から恋人ができ、その人と高3の最後まで付き合った。いわゆる恋人という感覚ではなく、むしろ友達に近かった。今考えると、いわゆる高校生の性欲に急かされて付き合っていたのではなく、友達の延長線上という感覚で付き合っていたのだなと改めて思い出す。彼女は優しい人で、面白く、色々なことを話したよな、と思う。ほとんど忘れたけれど。だけど彼女と過ごした時に感じた空気とか、冬の寒さとか、そういうところは心に残っている。その引き出しを数十年ぶりに見つけ、開けられたことは、小説を読んでよかったなと思う。
    中学の友達とバンド組んで、ユニコーンとかハイスタとかのコピーバンドをやっていた。バイトはマクドナルドでやっていた。そんな高校時代だから、勉強にはあまり力を入れず、だから大学は地方Fランだった。もっと勉強しておけば良かったかな、と今、勉強を超頑張っている長男を見ると思うけれど、当時にもし戻れるとしても結局は同じ人生を歩んだんだろうなと思う。
    あの頃は楽しかったんだろうか、とか、どんなことを考えて生きていたんだろうか、もしかすると大したこと考えずに暮らしていたのかなとかも思ったけれど、あの頃はあの頃なりに、当時の自分としてたくさん悩んで、学んで、時間を過ごしてきたんだろうなと思う。
    小説を読んでいて、高校生でも悩むところはたくさんあるよな、常に人間って何か考えて生きているんだろうなと思う。それは17歳でも、47歳でも一緒のこと。てかあの頃からもう30年も経っているのか!あっという間だった。あっという間にここまで来て、大好きな家族に囲まれて、好きなことやって生きているよなと思う。後悔しててもしょうがないから、前を向いて、やれることにフォーカスして生きていく。

    嫌っていた世界がこんなに綺麗だったとは

    Laura Day Romanceの、brighter brighterという曲が好きで、先日のブログに自分なりの考察を書いてみた。その続きを考えてみたい。

    誰もが祈るように言えないことを 胸に秘めるけど 時折零れていく危ういことと分かっていながら 閑話休題 ねぇ これから これからの話だけしよう 最期の日まで奪われない そんなものが欲しい

    正しさの暴力で傷ついた心に 優しさが余るほど世界は甘くない 力なく呟く 言葉は 誰かが聞かなきゃ 窓打つ雨音と変わらない 音と変わらない 遠くを見つめている

    心の岸辺で あなたの名前を頻りに呼ぶたび 跳ね返る私と私の姿を 対岸の前の水面に見つける brighter brighter 嫌った世界がこんなに綺麗な場所だとは brighter brighter 嫌った世界がこんなに綺麗ば場所だとは brighter brighter 嫌った世界が こんなに綺麗な場所だとは brighter brighter

    人間って、自分の想像する世界の中で生きている。自分の想像する世界の外に出てみようと、半ば思い立って一人旅をする人もいる。自分探しの旅ってやつ。それは新たな価値観や光景を目にしたときに、自分がどう反応するかを試す場所なんだと思う。
    それは、場合によっては自分の想像をはるかに超えるような世界を目にするかもしれない。時には生死の価値観を揺るがせるような事態を目にすることだってあるだろう。そんな光景を目にして、沈んでしまう自分。そんな、期待していなかった自分の反応が、心地良くなかったとしても、それも自分だから、とある意味納得して、人生を進めていく必要があるんだと思う。
    この歌詞に共感できるところは、そういう、自分の想像する、期待する世界ばかりではないこと。それをきちんと受け止めること。そうやって人生は進んでいくんだから。自分の思い通りにいくばかりが人生ではないから。冒頭に書いた長男の背中を見ても、これから彼なりに大きな課題を抱えていくことだってあるだろう。だけどその場所に飛び込んでみると、想像とは全然違うような、もしかするといい意味で刺激を受けることがあるかもしれない。Laura Day Romanceの人たちは若い。私からするとあんま調べてないけれど多分20歳くらいの差があるんだろうなと思う。今考えてみると私の20年前、その頃は楽しかったんだろうなと郷愁に耽ることだってできるけれど、大半の記憶は薄れていて、良い記憶しか残っていない。だけど当時の自分だっていろんなことに悩んでいただろうし、嫌なことだって少なくなかっただろう。けれど今の自分は、その頃の経験や思考を土台にしてい生きている。今、私が納得した人生を送れているのは、その頃の紆余曲折は必要不可欠だったし、Laura Day Romanceの言うように、嫌っていた世界が実は綺麗だったということだってあったのだと思う。

    人生は続いていく。いろんな経験を糧にして、自分を成長させていくのは自然の摂理だ。これからもきっと私はたくさん悩んで、時には「もうこんな世界イヤだ」と思うことだってあるだろう。だけどそれも人生。いい部分だけではなくそういう部分もひっくるめての自分なんだから、色々な感情や思考を抱きしめて、生きていきたい。

  • # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    過去と他人は変えられない。
    今まで何人もの人がつぶやいてきたことを心の中の分かりやすい引き出しに入れておくと、多くの場合の理不尽なことなどで、腹を立てないようになってきたなと感じる。
    心の成長とでもいうべきか。心が広い、という意味と近しい感じもするけれど、心が広い、というのは成長に伴って大きくなっていくというよりは、生まれ持った感覚というものに大きく依存している気がする。
    ものすごく軽やかに生きることができる。他人に期待しないだけで。同時に、物事は自分でなんとかしていかなければいけないという責任が生まれた気もする。
    そして自分の機嫌は自分で取っていかないといけないから、その責任を心地良い程度で抑えつつ、時には自分の考えを柔軟に曲げながら、生きていく必要がある。

    他人に期待すること自体は決して、悪いことではない。
    だけど自分の想像する範囲での「期待」に対して、他人がそのようにすることってのは実は少なくて、だから自分の考えを曲げて、なんとか納得する着地点を探す。
    自分の考えを曲げてという点は、たぶん、まだ他人に期待しているという点が含まれている。
    世の中は一人では暮らしていけないから、少しでも他人に寄りかかって生きていかないといけない。家族がいるんなら猶更、いや、家族に関してはより一層気を使って生きていく必要があるんだろう。だって自分の人生において多くの部分を一緒に過ごす仲間だから。

    人生ってうまくいかない。ニーチェも言ってたけど、うまくいかないことを何度も何度も繰り返して、それでもやっぱり失敗して、だけどもう一度挑戦する、っていうマインドは捨てたくないなと思う。
    石橋を叩いて渡る人生の方が穏やかで、大きな波が立たず、緩やかに死ぬまでのエネルギー的な曲線を描いていくんだろう。
    一方、刺激的な人生とは。エネルギー的な曲線は常に上限を振り切っている気がする。ずーっと元気な人ってたまにいるよね。見境なく、考えるより先にやってしまおう的なスタンスの人。
    彼らってすごいなと思う。
    人生は一度きりだし、死ぬまでで今、この瞬間が一番若いんだから、やりたいことをやれよ!という考えも分かる。
    だけどそこは性格だから。私はそこまで(ディスってません)行動ファーストにはなれないから。私は私のペースで生きていくんだから。
    それにしてもまた、いろんな物差しで自分の考え方を測ってるよなぁ。
    行動ファーストの他人がいたとして、彼らに同調する必要なんて1ミリもないのに、私はつい、「私もそっち側にならなきゃ!」みたいな考えが頭をよぎるんだもんな。

  • 走っている間、私は考えていなかった

    走っている間、私は考えていなかった

    今日は10km走った。
    風が強く、向かい風の時は前進するのがキツく、被っていた帽子の鍔が上にめくれ上がるほど。
    向かい風があまりにも強かったので5kmで終わりにしようかと途中引き返すことも考えたけれど、なんとか予定通り走り切ることができた。
    走り切ると言っても、途中信号待ちで休憩したりしたので、実質10kmを休みなく走るというところまでは到達できなかった。

    年が明けてから心機一転、走ることを趣味の一つに据えて過ごしている。
    去年は数カ月に1度走るかどうかくらいだったので、1月に入ってからすでに5回走っているという実績は、自分に自信が持てるような感覚を得ることができた。
    私にとって、過去、10kmだけでなくフルマラソンを経験しているというのは強い。
    全くゼロ経験の人と比べると、恵まれている気がする。
    身体が、筋肉が、走ることを覚えているから。
    そういうことって覚えてるんだよな、みたいなことを考えながら走った。

    いや、走りながらなにか考え事をしていたかというと、そんなことはなかった。
    走り出してから1kmくらいで今日のペースを掴んだら、思考はそこで置き去りにしていた。
    プン、と昔のブラウン管テレビを消した時のような音が頭の中で響き、そこからは信号で止まるかとか、ペースとか、息切れとか、走るルートとか、そういうものだけを考えるようになった。
    いつもこうだ。常日頃走っていた頃も同じで、何も考えることなく、淡々と走る生き物になった。

    何も考えていないというのは、生き物として、人間としてそこに在るのだろうか。
    今日は繁華街の一部を走ったので、その間はすれ違う人の目に私は映っただろう。
    だけど実際の私は、上述したようなことしか考えていなかったので、そこには確かに在ったけれど、考える生き物としてはイエスとは言えなかったような気がする。
    いや、無理に、なにかを考える必要なんてないのだろう。
    そもそも私は「走る」というイベントを体験しているだけで、それに没頭しているから、走ること以外のことは考える必要なんてなかったのかもしれない。
    他になにか考えるというのは、言わば雑念のようなもので、走ることを邪魔すると言っても過言ではない。
    おそらく、無理になにかを考えるべきということが、間違っていたのだと思う。

    それにしても走り終わった後に得られる爽快感の強さ。
    そのために走っているわ、といつも思う。
    代替できることってあるのだろうか。昨今のサウナブームで、整う、って言い方をする人がいるけれど、それに近いのかもしれない。
    サウナを趣味にしてみる?いや、時間が足りなすぎる。

  • SRV250 ルネッサ ガソリンの燃料ホースを取り替えました

    SRV250 ルネッサ ガソリンの燃料ホースを取り替えました

    前回の記事はこちらです

    前回、セルモーターを取り替え、エアクリーナーも新品にしたところで気持ち良く走れる!と思い、またしても図書館へ行ったのですが、途中で信号待ちしている時にアイドリングが不調で。
    少しアクセルを開けておけば大丈夫だったのですが、そこから少ししたらアクセルを開けてもエンジンが回らない状態に。
    図書館まで押していきました。
    自宅から4kmくらいのところにある図書館だったので、押して帰るのは難しく。暑いし。
    で、少し押しながら自宅まで戻っているさなか、いい感じの下り坂があったので押しがけにトライするも、エンジンは回ろうとしているけれどどうもダメっぽい。
    で、ちょっと先にガソリンスタンドがあったので5リットル入れてエンジン始動したら、かかるという状況。
    トリップは90kmくらいで、燃費がそこまで悪い事はなく、とりあえずエンジンがかかってるうちに自宅まで戻った時に気づきました。

    ガソリンが漏れている、と。

    ルネッサに乗っている方なら分かると思うんですが、インシュレーターから出てる部分で、使われてないところがあるじゃないですか。どうやらあの部分のゴムが劣化して、そこから漏れていることが分かりました。

    で、せっかくなので、全部替えてやろうと思い、ネットでデイトナの燃料ホースを買いました。2m。

    シートを外し、タンクも外し、エアクリーナーのボックスみたいなやつを外して、キャブを丁寧に見つつ、ポンプ周りや燃料コック周りのホースを全部替えました。
    1mではちょっとだけ足りず、結果1m40cmくらい使ったんじゃないかなぁ。

    例の、使われていない部分のホースですが、ゴムを止めるやつが無いので、とりあえず工具を詰めて留めました。
    明日、ガソリンを入れて走ってみたいと思います。これでちゃんと動くといいなぁ。

    あとはフロントフォークのオイル漏れか、、、個人的に大手術の予感しかしません、、、しんどそう、、

    写真、あんま撮ってませんが何かの参考になれば幸いです。

  • # 読書感想文を上手に書くには(いまだ練習中の立場で書いてみる)

    # 読書感想文を上手に書くには(いまだ練習中の立場で書いてみる)

    ここのところ本を読んだらそれをアウトプットしようと思って、いくつかブログに載せているのですが、自分の気持ちを正確に捉え、それを言葉で表すことの難しさを感じます。

    思いの丈を!ぶつけたいのに!という思いを持ちつつも、それを正確に述べることの難しさ。たくさん読んで、たくさん書いていくうちにだんだん上手くなっていくのでしょうけど、コンスタントに読む+書くという作業を続けるのはなかなかしんどいものです。

    # まず、心に残った部分をピックアップしてみる

    最近、私が感じているのは、心に残った箇所を付箋やメモなどで残しておいて、読み終わってからそこを引用してみるということ。心に残ったのは、なぜ残ったのか、という点を突き詰めるにあたり、まず自分の手でその文章を書いてみること。そうすると、ゆっくりと頭に浸透していくのが分かります。大切なのは、それを何も考えずに書くのではなく、自分の頭で考えながら書くということです。ただ引用するのではなく、自分の言葉で吐き出す必要があるので、いったん自分の頭に取り入れて、自分がどんな反応をしたのか。それをおろそかにせず、反応も丁寧に、引用した文章とともに書き出しておきます。これが、読書感想文を書くためのタネになります。

    # タネに水をやり、葉を広げていく

    タネは、そのままでは芽を出しません。水をあげたり、日に当てたりする必要があります。それと同じように、本を読んで受けた反応を丁寧に紐解いていき、自分はなぜそんな気持ちになったのかを考えてみます。

    例えば、走れメロスの、最初の方の文章。

    メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。
    太宰治 走れメロス

    私はまず、ここを読んで、メロスは正義感の強い男なんだなと思いました。ただ、メロスは政治が分からないと言っているのに、それでも邪智暴虐の王を除かなければならぬ、と決意したという点、具体的なやり方も思いつかないのに、「取り除かねば!」と思っているところで、一体どうやってそんなことをやるんだろう、と疑問に思いました。

    疑問に思った理由は、例えば私がメロスの立場だったら、邪智暴虐の王に会ったら殺されてしまうかもしれない、と思いました。ので、取り除きたい!と思うものの、自分の命が大切だから、尻込みしてしまってそんなことできません、ってなってしまいそうです。

    だから、メロスの態度には感心しました。自分の命のことなんて何も考えずに、自分の怒りをバネにして、邪智暴虐の王を取り除きに行こうと決心したからです。村にはかわいい妹がいて、彼女と二人でのんびり暮らしている、その生活に終止符を打ってしまうかもしれないのに。

    メロスは正義感が強く、後先を考えない性格で、悪く言うと自分勝手に生きてきた人なのかな、私とは違う性格をしているな、だけどどっちがいいとは言えないです。私は引っ込み思案で、メロスまでではない程度に正義感を持っているものの、今の自分の生活を終わりにしてでも正義を優先すべきかと言うと、一瞬では考えられない、むしろ諦めて、邪智暴虐の王に従ってしまうだろうと思いました。

    と、こんな風に、タネに水をあげて、丁寧に広げていくのです。

    # 読書感想文の文量が足りなくて困る場合

    一般的に、読書感想文が嫌いな人は、「何も感想が浮かばない」のと、「いくつか感想は思いついたんだけど、それだけじゃ必要な量に足りない」という2点がありそうです。

    私も子供の頃は読書感想文が苦手でした。というか今でもそんなに得意ではないです。

    で、その両方の対策として、上述した、自分の心が響いた部分をたくさん増やすことが挙げられます。

    「読書」した「感想」を「文」にするんです。

    感想というのは、自分の反応なんです。自分が、本を読んで受けた反応、それこそが感想のタネになるのです。

    だから、必要な量に足りない!と焦るのではなく、自分が反応した箇所を増やすこと、これが文量を増やす対策になります。

    # 自分の言葉で語ることが難しい場合

    これは私が今取り組んでいることでもあり、まだ発展途上の部分でもあるのですが、、

    例えば、「エモい」とか「すごい」とか、とりあえず自分の頭の中の引き出しには言葉が見つからないんだけど、自分の心が反応した!という部分に、まずそういうとっつきやすい言葉でタグ付けをします。

    そうすると、考えるきっかけになります。

    – 自分はなぜ、エモいと感じたのか

    – そのエモさは、どういうエモさなのか

    という感じに分解していきます。

    この作業は非常に辛いです。なぜなら、自分の頭の中に引き出しがないからです。ここで、適切な言葉を生み出すことによって、次、同じような感想を抱いた時、引き出しとして使うことができます。

    # 語彙力という、見えないけど強力な力

    https://www.shinga-farm.com/study/communicative%E2%80%90power/

    齋藤孝さんあたりはその、語彙力に着目して、本を出したりしていますね。

    すごい。さすがです。

    ↑今、私が「すごい」と感じたのはなぜか。そういうところでも自分の勉強になります。

    すごいと感じたのは、多くの人が「大切だな」と感じるけれど、重要かと言うとそこまででもない感じの物事、例えば語彙力はあったら嬉しいけど、なくても別に生きていけることです。本をまったく読まない人にとっては、語彙力なんて言わばどうでも良いことの一つかもしれません。

    語彙力があると、生活に鮮やかな色をつけることができます。例えば、冬の澄んだ青空を見た時。「キレイだ!」と思うことは多々ありますが、それがどのような「キレイさ」なのかを分解することができます。透き通る青を見てて気持ち良い、だとか、うっすらと霞む雲と描く、色のコントラストが美しい、美しいのはどう美しいのか。などと分解していくことで、より深い言葉で、そして自分の言葉で、表現することができるのです。

  • やりたいことを全部やったら何が残るのか

    やりたいことを全部やったら何が残るのか

    人生でやり遂げたいことをいくつか考えてみると、それには気力や体力やお金みたいな資本が必要にはなるけれど、それでもそれらの資本を投入してやり遂げた時、人間には何が残るんだろう。
    究極の状態のように思います。
    そこまでやり遂げてしまったら、もう人間は後は死ぬだけなのではないかと。
    と、ここまで書いて、私が数年前に抱いた「全部、死ぬまでの暇つぶし」という感覚は、それの一端を担っているような。
    当時の私は、だいたいやりたいことはやり遂げてしまって、後はもう死ぬのを待つくらいしかないな、くらいの、今考えると青臭く、お前の目は節穴か?その年でやり遂げたぜ!なんてはえーだろまだ、やることあるだろうよ、と思うのですが、人間ってそこまでやり切ると、人生に未練を残らないということになるのでしょうか。
    ちょっと考えてみても、死ぬまでにやり切ることができないだろうと思うようなことはいくつか思い浮かびます。

    例えば読書。
    読書は、この世で発行されている本を全部読もうと思っても、おそらく死ぬまでに読み切ることはできないでしょう。私は40代中盤なので、気力が残り35年続くとして、いったい何冊の本を読むことができるんだろう。
    1週間に2冊* 52週* 35年=3,520冊!
    結構なボリュームですね。私は日本文学が好きなので、3500冊も読めたらもう死んでも良いわ、ってくらいに感じるかもしれません。
    仮に、死ぬまでに3500冊の本を読むぞ!と決めても、読み切るのは難しいだろうな。
    ちょっと調べてみると1年間に出版されている本は、なんと7万冊だとか。
    私の目に触れない本がたくさんあるんだろうな。7万冊ってすごいですよね。10年で70万冊ですよ。

    閑話休題。

    ふと、3500冊を読み切る目的ってなんだろうと思いました。
    3500冊を読んで、あぁ面白かった!と感想を抱くことが目的なんだろうか。
    最近よく、いろんなところで「アウトプット」という言葉を目にします。

    小説を読んだらなるべく読書感想文を書くようにしていますが、そうすることが大切なんだとか。
    読んだらそれで終わり、というのも良いですが、読んだ後に感想を書くと、不思議と、その物語のことをいつまでも覚えているように感じます。
    特に自分の中で刺さった小説は、強い気持ちで書いたりしますので、その時に、物語を思い出し、反芻して自分の中でも考えてみて、その中で覚えるということになっていくんだろうなぁ。

  • 11月10日 日記と成長と私

    11月10日 日記と成長と私

    一日がいつもと同じようにすぎていくけど実際は違うことを考えて生きている。はずなんだけど、だいたいのことを忘れてしまう。そういう、忘れちゃうところが勿体無いと思っていて、つまりもったいないと思う気持ちがモチベーションになってるんだな。

    それを記すことで何かのプラスになるんだろうか。ふと忘れてしまうようなこと、それは本当に瑣末で、忘れてしまっても私の人生にはなんの影響もないものなんだけど、それでも日記に記すことで、改めて自分の目で見て思い返すことができる。それって良いことなんだろうか。

    たられば論になってしまうけど、人間が日々成長していくことを前提としよう。2023年11月10日に私が考えたこんなことを、数年経った後で改めて見返してみると、なるほど今の自分とは違う考えを持っているんだな、ということになったりするのではないだろうか。

    それはもしかすると、人生における楽しみの一つなのかもしれない。自分が、どう成長したかを確かめるための材料として、過去の、私が考えていたことと今を見比べてみて、考えてみて、私は確かに成長していると実感することが、人生において大切なことなのではないだろうか。

  • 9月10日 ランニングと私

    9月10日 ランニングと私

    うまくいったこと

    • ランニング。超暑かったけど、とりあえず目標にしてた5kmを走ることができた。ホントは10km行きたかったんだけどなぁ。30℃という暑さでたくさん走れる人、まじスゲーと思う。私には無理だ。暑さへの耐性とでも言うのだろうか。知らんけど。

    うまくいかなかったこと

    • 上の、うまくいったことを書いていて感じたのだけど、もっと暑さに対する耐性ができても良い気がするんだよなぁ。暑いとすぐにヘタってしまうので、もっと体力作りをしたら良いのだろうか。

    改善できる点

    • ランニングを継続することで、暑い中でも走れるようになるのかなぁとぼんやり考える。最近のマイブームは痩せるために活動することなので、在宅勤務の日は毎日走るようにすることで、体力も付くし、お腹周りの脂肪を吹き飛ばすことができるのかなぁなんて考えてる。それには食べること、あとお酒についても気をつけないといけないよなぁと思う。お酒。なんでやめられないんだろうか。やんわりとアルコール中毒者に近づいているんではなかろうか。

    所感

    • 走っている間、何を考えていただろうか。朝ランだったのですでに数時間経ってしまって、あまり記憶に残っていない。ひなたは完全に暑いな、とか、日焼けしちゃうかもな、とか考えていた。短絡的なことばかり。そもそもランニングで長考するようなことってあるんだろうか。私には無理だ。無意識に思い浮かぶ着想を拾い上げて、それを頭の中で認識することで精一杯。前に走る人をどこで抜かそうかとか、走っているペースは十分かとか、そんな程度のことしか考えていない。
    • 世界の偉い人たちは、ランニング中に仕事のことを考えると聞いたことがある。けれどホントにそうなんだろうか。
  • 7月10日 成長したいと考えることは、きっと自然なことなんだよ

    7月10日 成長したいと考えることは、きっと自然なことなんだよ

    時間は止まってくれない。
    つい最近、「今年も半分が過ぎてしまったかー」と思ったばかりだったが、そこからさらに、残りの6分の1のうち、3分の1が終わってしまった、ということになる。
    生活は高望みせず、自分の手が届く範囲で暮らしているから、何一つ不自由のない気持ちで過ごしているけれど、それでもこうやって一日一日を無意識のうちに過ごしているとなると、少しだけ歯痒くもある。
    だけどこの、なんとなく日々を、時間を無駄にしていやしないか感というのは古代ローマ時代の頃からあったというし、そこから数千年を経た現代でも同じようなことを考える人間は多いと思うから、人間の思考っていうのはあんまり進歩していないかもしれんよね。

    日々を、時間を無駄にしていると感じるのは、良いことなのだろうかね。
    これは言い換えるとマンネリ感だとか、そういう壁にぶつかっている時なのかもしれないよなぁ、と考えたわ。
    今という現状を打破したいと思う気持ちが根底にあって、それに引きずられるようにして「今のままじゃダメだ」と考えるようになっているのではないだろうかね。心理学とか勉強したことはないのだけれど、なんとなくそんなふうに思ったりする。

    別に、今のままでもいいんじゃないの、と思う自分もいるけどね。
    上述した通り、今の生活に対して不満を持つことなく、ぼんやりと過ごせているのだから、この生活を守るような生き方をしていければ良いのではないだろうか。
    知らんけど。

    けど、人間って成長する葦って、かの有名な人が言ったように、死ぬまで成長できる生き物だと思ったりしててさ。
    身体的な成長は歳をとるにつれて緩やかになっていくだろうけど、そこから先は気力が成長していくのではないかな。
    私は44歳で、今、もしかすると、後から気づくのかもしれないけれど、気力・体力その他諸々の力が共に、充実しているタイミングだと思ってやまないんだよなぁ。

  • 6月10日 Stay hungry, Stay foolish

    6月10日 Stay hungry, Stay foolish

    久しぶりに朝ランした。暑くて5kmしか走れなかったけど。
    自宅近くに流れる川沿いの、遊歩道をゆっくりと走った。
    いや、ゆっくりではないか。自分の中ではいつものペース、キロ5分40秒くらいの速さで、5km。
    こんな季節になってくると、だんだん虫が増えてくる。
    夜走っていたりすると、たまに、口や目の中に入ったりして難儀。
    彼らも生きてるんだよなぁ、一生懸命生きているのに、こんなよくわからない動物の口や目に入って、一生を終えるってどうなんだろうなぁ、とたまに思う。

    今日は走りながら、スティーブ・ジョブズが遺した言葉、「Stay hungry, Stay foolish」ってどっちが先だっけ、と考える機会があった。
    並びはどっちでも良くて、彼は、hungryとfoolishという二つの姿勢を述べたかったんだよなぁ、と考えた。
    hungry、つまり空腹な人、飢えた人を想像してみる。
    私がそういう状況になったら、どんな行動をとるであろうか。
    お腹が空いているんだから、その欲求を満たすために行動を起こす。
    その時に、めんどくさいなぁ、とか、きっと考えないだろう。
    お腹が空いているんだから、その行動を制限してしまうような「めんどくさいなぁと思う気持ち」は、その先には死を意味するからだ。
    貪欲であれ。
    私はITの世界で働いていて、それはもう日進月歩で技術が進化していく。
    私が今持っている知識は、すでに遠い昔の時に得たものばかりで、だんだん、取り残されていくのかもなぁ、と思ったりする。
    取り残されていくということは、上述した「めんどくさいなぁと思う気持ち」に近いのかもしれない。
    技術を身につけないと、いつかどこかでお前はクビだ、と言われてしまうかもしれない。
    それはジョブズが伝えたかった2つ目の、foolishにも通じるものがあるだろう。
    自分は何も知らない人間と当てはめてみることで、新たな知識を欲するという欲求が生まれるから。
    ジョブズもまた、ITの世界で生きる人だった。彼とウォズで作り上げた数台のMacで名を馳せ、その後も輝かしい製品を世に送り出した超人。
    そう、超人。もしかすると人間というレベルを脱していたのかもしれない。
    超人という言葉はまた、ニーチェが遺したものでもあったね。
    私はまだ、ニーチェがどんな背景をもたせたのか、よく知らない。
    これもまたfoolishという精神に基づき、近いうちにその意味を調べたいな、と思う。