電車の中で、今日起きたことを思い返す。内省というほど立派なものではないが、事実として起こったことに対して私がどう考えたかを、ゆっくりと思い返すようになったのはいつからだっただろう。
2023年が終わっていく。すでに多くの人が休みに入っている中、私は誰とも話す予定がないのに出社する。この、出社というものはコロナ禍によって考え方が大きく変わった。自宅で働くことを覚えてしまった人間は、出社することの意味が分からなくなってしまったのだ。私もその「多数」から溢れることなく、出社の頻度を増やすようになってからもその意味を思い出すことができない。
コロナ以前は、出社することが当たり前だったのだ。その、「当たり前」という感覚を忘れてしまった人はいったいどうやって思い出すことができるんだろう。
違う例で考えてみる。自転車に乗ること。感覚で覚えてしまったから、手足のバランスとか、どのタイミングで足に力を入れるとか、言葉で説明するのが難しい。だけど、自転車は乗れる。
出社はそれと同じことなのかもしれない。こうして通勤している時間があれば、自宅で仕事ができるのではないか、と言ったような思いを拭う術を思いつくことができないのだ。
その根底にはきっと、「出社するなんて無意味だ」という思いがある。一方、私たち「多数」を雇う経営者側には、「出社してコミュニケーションを活性化し、仕事の生産性を上げたい」という思いがあるはずだ。その両者が持つ思いが一体化しない限り、この乖離を埋めることなんてできないだろう。
いくつかの大きな川を越える。その、それぞれの縁には見知らぬ家がいくつも建っていて、私の知らないところで生活を営んでいる人間がいる。
その、見知らぬ人間の生活を思いながら、私は自宅へと帰路を進める。
そこで、ふっと、あることに気づく。
自宅へ向かう帰路の最中、私の心の中には帰宅して「会社の中の人間」から「自宅で過ごす人間」と役割を変えていく心の準備を行なっているのではないか。
「会社の中の人間」のまま、「自宅で過ごす人間」の役を演じることは難しい。一人称だって「私」から「俺」、もしくは「お父さん」になるのだから、他者は混乱してしまうだろう。
その、彼らを混乱させないように私は、心の準備を、通勤という時間の中で行なっているのではないだろうか。