私だって

私の声が届かない。そもそも、私の声はそんなに大きくないんだった。
この世界は、私の声なんて必要ないのだった。私が何を考えて、何を発言しようが、季節は移り変わっていくのだった。

そんなことは4歳の頃から知っていた。

真夜中、1人で散歩していると、ある人のことを思い出す。
少し好きだったような、けど別に恋人になるほどでは、、と躊躇してしまう人だった。
もしかしたらあれが「男女間に芽生えた友情」なのかもしれない。

分からない。男女間に友情なんて芽生えないはずなのだ。
そこに友情が芽生えてしまったとしたら、人間は、人間はいずれ淘汰されていってしまうじゃないか。

私の足音だけが聞こえる。真夜中の散歩。雨が少し降っているから、余計に周りの音が聞こえにくくなる。車が車道を走る度に、水を切るシャーっという音を立てる。

桜の季節は、まだあまり虫の声は聞こえない。
ジー、っと一瞬だけ聞こえたが、あれはもしかしたら私の脳内で流れた雑音で、いや、雑音ではなく夏にやった花火の時に、最後に花火を水に入れた時の音だったかもしれない。
もしかしたら、あれは、花火が放つ最期の声だったのではないだろうか。
私の脳にこびりついて離れない、あの、一瞬だけ放つ、ジュッ、という音。

また頭の中に男女間の友情が出てくる。
信号が赤になった。青になるのを待つ。
そこに友情が芽生えたら、子孫を残すという本能を否定することになるだろう。
そうしたら、もしその考えが主流になってきたら、人間は子孫を残すことよりも、友情を分かち合う方に興味を持つようになっていくのではないだろうか。
私は男女間に友情は無い、必ずどっちかが友情よりも大きな好意を持つに決まっている、と考えている。そしてその相手は、その好意を利用して、自分が機嫌良く生きるための手段としてその関係を保っているのではないだろうか。

もしかしたら私は、彼に対して好意を抱いていたのかもしれないのだけれど、
それだと彼は私を利用していたということになる。言い換えると私は彼に利用されていた。身体の関係には発展しなかったから良かったのかもしれないけど、その基準がまずおかしいだろう。そして何よりも、利用されていたという、「下に見られていた」ことに対して、私は納得できないし、それについては否定したい。

考えすぎだろうか。考えすぎだろう。
信号が青に変わった。私は横断歩道を歩く。
パーカーが少しずつ雨に濡れていく。気づかないうちに、雨は少し強くなっていた。
コンビニで350mlの缶ビールを買って帰ろうか、少し悩む。