親愛なる隣人

すぐに身体を求めてくるその思考。
男って本当にどうしようもない生き物だ。
一度、それを断ったらあからさまに態度を変えた男がいた。名前なんてすぐに忘れたけど。

私の身体は汚れているのかもしれない。
私は、何かに縋りながら生きていかねばならぬと気付き、それが、私を求めてくる男という存在だと気づいたのに、そう長く時間はかからなかった。
承認欲求。私で果て、そんな人間の腕に絡まりながら、自然と意識を混濁させていく時に、私は絶頂することが多かった。そんな私の生理反応に気づき、驚く男が何人もいた。

人は生まれながらに罪を背負う、と語った昔の神は、なぜか人間の形をしていたという。
人間は、神になり得るのか。神は、精霊ではないのか。
天井を見ながらそんなことを考えていたら、右手の指先が猛烈な熱さを感じ、タバコを吸っていたことを忘れた。灰をなるべく落とさずに、静かに静かに灰皿へと移動させ、結局灰皿の直前でそのミッションは失敗した。自分の体液が付着するティッシュでそれを拭き取る。ティッシュはこの世のものとは思えないような、濃淡の鮮やかなグレースケールを身に纏い、すぐにゴミ箱へと捨てられた。

起きたら男はいなかった。私の部屋へ男を呼んでしまうことに躊躇がなくなったのは、なにかを捨てたからだろうか。警戒心かな、羞恥心かな、一瞬考えたが私の気持ちをカテゴライズすることになんの喜びを見出すこともできなかったから、その問いも一緒に、グレースケールのティッシュに包んで捨てるフリをした。飲みかけのストロングチューハイを一口飲んだ。

スマホを見たらマホトからのLINE。マホト、誰だっけ、と思ったけど昨夜ここに泊まった男ではないことは確かだ。
「会いたいんだけど」それだけ。どうせこいつも、私の身体が目的なんだろう。
私はそれを無視した。もうそんなヤツ忘れた。私はバイトに行かなければいけない。完全に寝坊している。シャワーをキャンセルすることでなんとか間に合う時間だ。ユニットバスの中にある洗面台へと向かう。そうだ私、昨夜男と一緒にシャワーを浴びたんだった。忘れていた。記憶なんて、快活に生きるための足枷にしかならないのだから、覚えていたって無駄なのだ。だけどシャワーを浴びたという事実は、シャワーカーテンに残る水滴によって思い起こされた。昨夜の男は、私の身体を触りたがった。バスタブの端に、チューハイが2本。どちらも中途半端に残っていた。私はその残りをバスタブに流す。はぁ、とため息を吐く。鏡を見る。メイクが中途半端に残っていた。それを落とし、最低限のラインを取り戻す。髪を適当に濡らし、乾かし、セットする。とりあえず外に出られる状態になった。首筋にキスマークが残っていた。舌打ちをしながら絆創膏を貼る。

今日こそは普通に帰宅して、明日に備えよう。
軽やかに生きる10のヒントという本が本棚に立てかけてあり、バイト中、ちらっと表紙だけを見た。前書きに書いてあった文章が、やけに印象的だった。

バイト仲間の太田に、夜なにしてんの?と聞くと、太田は「主にゲーム」と応えた。
今日のコンビニは暇だった。太田と二人、品出しを終え、夕方の盛況に備える準備を終え、二人でレジに立っている時に聞いたのだった。
太田は、きっと彼女とかいたこと無いのだろう。実家暮らし、と以前聞いたことがあった。
こういう人間と付き合えば、普通に帰宅して、明日に備えよう、という人生を過ごすことができるのだろうか。
主にゲーム、って、さ、生きてて楽しいの?と素直に聞くと、
そうすねー、と前置きしたあとで、エミさんとは感覚が違うだろうから分からないですけど、僕は僕なりに楽しいと思ってますけどね、と太田。
そりゃそうだ、私は太田じゃないんだから。ていうか、なんでエミって名前で呼ぶんだコイツは。どうでもいいけど。

だけど、しかし、太田の返答はやんわりと私の心へと浸透していった。
私は、私が楽しいと思ってやってきたことの積み重ねで今が在るはずで、それが今の荒んだ生活を生んでいるのだとすれば、そしてそれが「あまり良くないもの」と私自身が認識すればなお、改善する余地があるのだろう。
フリーター、バイト終わりにいったん帰宅、からの数軒を重ねる居酒屋、そして適当に声をかけてきた男と寝る。起きたら昼。またバイト。
これはこれで楽しいのだ、楽しいと思っていたのだ。何か、罪悪感が?私に?そんな気持ちは今日、バイト前に例のティッシュに包んで捨ててきたではないか。

忘れよう。そんなことは忘れよう。日々、快活に生きるための邪魔でしかない。

コンビニは午後のピークを越え、20時になりバイトが終わった。
太田と同じ時間に終わる。彼はいつもどおり、そそくさと退勤処理、着替えを終え帰ろうとする。
ねぇ太田、一緒に飲みに行こうよ。
彼は一瞬だけ驚いた顔を浮かべ、いや、遠慮しときます、ゲームがあるので、と応えた。