5月2日 キーホルダー

階段を昇っていくと、ちょうど電車が停車しているのが見えた。
乗れるのなら乗りたい、と思ったがたまたま、私の前に歩いていた人のリュックについていたキーホルダーが目に入り、そして私は階段でつまづいた。
電車は行ってしまった。
周りに見られているような気がするのがとても気恥ずかしく、私は「こんなこと、へっちゃらですよ、日常茶飯事ですよ」という、なんてことない素振りをし、気を取り直して残りの階段を昇る。

「運動不足なんだよお前。なんか運動とかしてんの?」
お昼に、職場のけいちゃん先輩に、朝かっこ悪いことしちゃいました、と打ち明けたら、そんなことを言われた。運動って。どこまでが運動という範囲なのか分からないけれど、週末はサッカーチームを応援している、くらいかな。めっちゃジャンプして。大声出して。
それ、結構な運動になると思うんすよねー、と語尾を伸ばして同意を求める。
けいちゃん先輩は、意味わかんね、と私の意見をすぱっと切った。私の意見が、宙を舞うのが分かる。

その日を境に、けいちゃん先輩は会社に来なくなった。
というか、無断で欠勤しているという噂がまことしやかに流れ、一番仲良かったの誰だっけ?と課長からの問いかけに、みんななんとなく私の方を見て、それを察した課長が、最後の日に一緒にお昼ご飯を食べたということでサキ、お前、連絡先とか知ってるのか、ちょっと会社の金使ってでもいいから丸山(けいちゃんは丸山という苗字だった)に会ってきてくれないか、と言われた。
私からの問いかけに、けいちゃん先輩が応えてくれるかどうか分からないので、まずLINE打ってみてからにさせてください、と線を引いた。
正直めんどくさかったから、返事なんて来ないほうが嬉しいと思っていたのだけれど、けいちゃん先輩に打ったメッセージはすぐに既読マークがついた。このまま返事来なくても良いんだけどな、と思っている矢先、
なんだよお前、急にどうした?
と返事が来た。
私は、課長に返事が来たことを報告しなかった。
既読にもならないですねー、と語尾を少し伸ばしつつ、あ、ちょっとトイレに、と言って席を立った。
どうしたじゃないですよー!3日も会社を無断で休むなんて!逆にどうしたんですか?!
と、私にしては珍しくびっくりマークを多発させたメッセージを送信した。この間わずか22秒。

その後、私は腹痛を訴え、仕事を早めに上がらせてもらった。
「家のドアの開け方がわからなくなってさ」というけいちゃん先輩からの返事に、ただならぬ空気を感じたから。家がどの辺かは分からないけれど、最寄り駅なら分かる。まずそこまで行って、慶ちゃん先輩の様子を(会社に知らせる前に)きちんと把握しておきたかったから。
私はただの、仕事の後輩であり、恋人関係にあるとか、そういう類のものではない、けれど、課長に指名されたってのも、あの日一緒にお昼を食べたってのもあって、変な使命感に突き動かされているような、死ぬためにセリヌンティウスの元に走るメロスのような感覚を持っていた。
「ゆめみどう」という、広告。夢見堂なのか、夢御堂なのか、とぼんやり考えているうちに、けいちゃん先輩の住む街の駅に着く。ドアが開く。改札に向かう階段を昇り始めようとした時、私の前を歩いていた人のキーホルダーが目について、私はまたころ、びそうになるのをギリギリのところで回避した。けいちゃん先輩に、今度は転びませんでしたよ、と報告しよう、と心のノートに書き留めた。