10月4日 (小説)サトの初恋

  サトは大きく息を吐いた。そうすると、自動的に空気が身体に取り込まれるのが面白くて、何度か同じ動作を繰り返した。
  届かない恋というのは面白いもので、そのおかげで人生が豊かになったような気がした。豊かというのは、サトの感覚で言うといろいろな感情が生まれるということ。好きな人がいるんだけど、彼に惹かれていじらしい想いをしたこと。恋に焦がれるというやつだ。舌でそっと上顎を撫でる。ざらざら、ごつごつした上顎は、今までいくつの食物が通り抜けていったんだろう。
  北脇くんという、3つ隣のクラスにいる彼とは、ちょっと前に学校の購買前で見かけた。陽キャとは正反対の、重たい前髪、分厚く、地味なメガネを装った彼は、誰にも見つからないようにそっとパンを買いに来たのか、というほどに存在感がなかった。
  彼の何に惹かれたのだろう。具体的には分からないのだけれど、一つ言えるのは、サトも北脇くんと同じようなメガネをかけて、そして陽キャとは正反対の人種ということだ。共通点が多い、とサトは考えたのかもしれない。上履きの中に小石が入っているのに気づいたサトは、誰も見ていないことが明らかな2時間目の休み時間に、そっと音を立てずに上履きを脱ぎ、履いている方を反対にして小石と思われるものを落とす。少し振ると、黒っぽい、小さな物体が下に落ちるのが見えた、ような気がした。
こんな小さなことでも、北脇くんだったら聞いてくれそうな気がするとサトは考える。休み時間は何をしているんだろう。3つ隣の、3年5組にいると知った時は嬉しかった。まるで宝物の場所を見つけた時のような気分だった。そこから数日しか経っていないんだけれど、北脇くんのことをもっと知りたい、と思うようになった。
こういう時って行動に移したほうが良いんだろうか、とサトは考えた。サトにはこれが初恋とも言えるようなほどの、心を揺さぶられるイベントであった。だから、残念というべきか、サトには経験がないからどうやってアプローチしたら良いのか、全く分からなかった。最初に思い浮かんだのはラブレターだった。この、スマホを一人一台持つ時代に、あえての手紙。そんな演出はただただ気持ち悪いだけだ、とサトはそのアイデアを切り捨てた。それ以外のアイデアが思いつかないサトは、3時間目へと入った。
こういう時に、相談に乗ってくれる友達とかいたらなー、と空想みたいなことをサトは考えた。これもまた残念なのだけれど、サトにはそういうことを気軽に喋ることのできる友達がいないのだった。一緒にお弁当を食べてくれる太田さんという人はいるのだけれど、彼女もサトと同様に、恋というイベントに対して経験は少なそうな感じがしたのだ。だから相談するだけ無駄かな、ごめんね太田さん、とサキは考えた。そんなことを考えていたら先生に指され、サトは話を聞いていなかったことが露呈し恥をかいた。
何事も進展がなく、一週間が過ぎた。これが恋愛小説だったらつまらないだろうな、私だったらここで読むのを止めるな、とサトは考えた。そこでアイデアが天から舞い降りてくるのを、サトは感じた。そうだ、図書館に行ってそういう本を借りたらいいんじゃないか、とサトは思いついたのだ。図書館なんて小学校の時にやった読書感想文の本を借りた時以来だ、まず図書館のカードがどこにあるかを探さなければいけないな、とサトは考えた。そして、いや待てよ、とサト。借りなくても、図書館で読めばいいんじゃん、と思いつく。週末の予定が決まった。私の恋愛小説を読んでくれている読者のためにも、私のこの初恋を先に進めなければいけない、と誰も読んでいないことを想定していないサトは、訳のわからない自意識の下、週末に図書館へと挑む。
ここで北脇くんも図書館に来ていたら、恋愛小説としては急展開なんだけどな、とサトは考えたが、そもそも北脇くんが私と同じ市内に住んでいるかどうかわからないんだった。私の高校は4つくらいの市から生徒が通っているから、北脇くんはきっと違う市に住んでいるのだろう、とサトは勝手に解釈した。
そもそも本を読まないサトは、この膨大な本の中でどんな風にお目当ての本を見つければ良いか全く分からなかった。恋愛のお手本?それは小説なのだろうか、それとも自己啓発みたいなタイプの本なのだろうか、それすらも分からなかった。恋愛小説の女王みたいな触れ込みの小説家とかいたよなー、誰だっけ、といつだかやっていた王様のブランチみたいな番組の内容を思い出そうとしていたが、残念ながらそれ以上の情報がサトの脳内には存在せず、すぐさま空中に飛び散った。
ところが、ところがである。図書館に北脇くんと良く似た人がいるではないか。何やら分厚い本を脇の下に抱え、自習できそうなエリアへと向かっている姿が見えた。あれは本当に北脇くんだろうか、横顔、それもほぼ後ろに違い角度でしか顔を見ることがなかったから、あまり自分の目が信用できないサトは、北脇くんにはバレずに、顔を確認することができる場所を探すことにした。
これでは何をしに来たのか分からないではないか、と読者は考えるだろうな、とサトはぼんやり考えた。読者のことなんて忘れてしまえ、と私は思わずにいられない。こうなったらサトのことを応援するしかなかろう、と読者は考えるに違いない、とサトは考え、自分勝手だな私って、ふふ、と一人でニヤついていたら、北脇くんみたいな人が大きなテーブルにある椅子を引き、そこに座った。
驚く事に、北脇くんの隣には同い年くらいの女性が座っているではないか。北脇くんが見つけてきた本を二人で眺めながら、何か小さな声で喋っているのが窺い知れた。
終わったな。まだ、始まってもいない私の初恋は、ここで散ってしまうのか、そう考えたサトは、本来の目的である恋愛にまつわる本を探すことなく、図書館を後にした。そういえば私が小学校だった頃に来た図書館って入り口で靴を脱いで、自分で持ってきた上履きを履いたような、とぼんやり考えたサトは、ついでに、その上履きにも、小さな小石が入っててすごく気持ち悪いことを思い出したのだった。