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  • 7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    病気で臥せっていたときのこと

    私は1年に1回程度風邪をひく。だけど熱はあまり上がらないタイプの風邪をひくことが多い。
    そんな私でもさすがに風邪をひいた時は仕事を休みにして、自宅で寝てることが多い。やっぱ寝るのって大切だよな、と風邪をひくたびに感じる。
    私はメンタルこそやられているものの、身体的には健康で、中性脂肪とかの中年のおっさん特有のやつはあるものの、それらと付き合っていきながら生きている。
    完全体な人間はいない。みんな、どこかしらやられていたりする。そしてそれらとうまく生きていく、共存していく、折り合いをつけていくという生き方を選択しているだろう。
    さて、私がなぜ、「家族にずっと寄り添っていたいんだぜ」と思ったのかというと、そんな、風邪をひいて寝ていた時のこと。
    夢うつつ、起きてるんだか寝てるんだか分からないような時にふと、私を除いた3人の話し声が聞こえたのだ。
    それは取り止めのないような、些細なこと、私の病気を気遣ったようなことではなく、たとえばテレビを見てそれに反応するだとか、そういう類のことを話しているのが聞こえた。
    それがとても心地良くて。私はずっと、家族の話し声を聞いていたいと思った。

    家族の形は千差万別

    私の家族は私を含め、穏やかなタイプで、だから居心地が良いということもあるのだけれど、私は家族が大好きなんだと思った。
    私が出社して会社で仕事をしている時など、私が不在の時にはこんな感じなのかな、と感慨に耽けたりして。
    そして私が仕事している間にも、私は幽体離脱をして家族の声を聞いていたいな、とも思った。
    そんなことは実際に無理だから、私は今、在宅勤務をできる限りして、家族の近くに痛いな、なんてことを考えていたりする。
    数年前に私が作家になりたい、と考えたのは、決して有名になりたいからではなく、自宅で仕事ができるから、という理由が一番強かった。結果はどうあれコロナ禍を経て在宅勤務が仕事のスタイルの一つになってそれはありがたいことで、私はそれを謳歌しているのだけれど、家族の近くにいることができるっていうのは本当に嬉しい。
    うちは決して口数の多い家族ではなく、むしろ少ない方だろう。家族の形はそれぞれで、全く同じスタイルで暮らしていますっていうのはあり得ない。両親のパワーバランスとか、子供たちとの年齢構成とか、多くの環境要素がある。
    だから私みたいに、家族の声を一生聞き続けて暮らしたいです、という意見を持つ父親がマジョリティなのかどうかすらも良く分からない。だから私の意見が全うなのかどうかも分からない。だけど私はそんなふうに、家族のことを考えている。

    理想の家族って?

    私はそれ系のスペシャリストではないし、今まで時間を使って考えたこともない。
    理想の家族なんてものは上述した通り人の考え方に依存するものだから、その人それぞれの理想があるんだと思う。
    だけど共有しているのは、思いやりを持った家族なんではないかなー、と思ったりする。これまた多数派だかどうか分からないので声は小さめで意見を表明する。
    思いやりを持つというのは、相手の考えていることを先回りして考え、家族全体が気持ちよく過ごせるように努力することなのではないかな。これまた私の意見だから、異論はあると思う。
    そうやって社会って成り立っている気がするんだよなぁ。

    死んだ時に

    そんなふうに考えているから私は、死ぬ時に、家族には周りにいてもらいたいなー、なんて考える。
    死に目に会えないっていうのは残された側としては、(死に目に会いたいと思ってる人にとっては)とても辛いことだと思う。
    死ぬ直前に会ったって話ができるわけではないんだけど、私が死ぬ時って考えたら、言葉なんていらないけど、家族の雰囲気を十分に感じながら、息を引き取りたい。

  • 6月3日

    あっという間に、日常がすぎていく。
    つい最近書いた気がするけど、仕事に没頭されて終業後の夜時間すらも一瞬で過ぎ去っていくという程度のノリ。

    こうやって、43歳っていう私の時代も、大した記憶が残らずに過ぎ去っていくんだろうなぁ。

    仕事が忙しいとか、お酒をたくさん飲めるとか、ご飯を胃が痛くならずに食べられるとか、身体が健康だからやってられるわけで。
    そのことを蔑ろにしてしまってはいけないなぁと思うのよね。

    もしかしたらこの日記を書いている途中に気持ちが悪くなり、病院へ運ばれ、そのまま還らぬ人になってしまう可能性だってあるのだから。

    健康でいたいんだろうか、自分は。

    つい最近、ある人と話している中で、ここでも何度か書いている「もう死んじゃっても構わない、決してそれは後悔していないという体ではなく、どちらかというとネガティブな意味での諦観」みたいなことを話したら、何がしたいのか分からない、そうしたいんだったらそうすればいいじゃん、って言われて、

    それは流石に凹んだよね。
    別に、「死んでほしくないよ!」って言ってほしいわけではないんだけどさ、止めて欲しかったっていうか。
    なに他人よがりになってんだ、って話ではあると思うんだけど。

    自分に課せられたことは、ただ一つ、生きることだと思うんだけどね。
    そこからさらに、子供を育てるとか、自分のやりたいことを実現させるだとか、そういう面でのあれやこれやは出てくると思うんだけど、

    結局、諦観っていう視点葉、なくなることはないんだよなぁ。

    これって良いことなんだろうか。

  • 5月17日

    自分だけ良い思いを、と思ってしまって家族がいるのに自分だけ一人で行動することに対し、ものすごく抵抗があるんだけどさ、

    そんな中でも今週金曜、ソロキャンに行くんすよね。

    それ、行動に移すまでにものすごく葛藤してさ、休みの日に家にいない父親なんてサイテーだ!とか思ってたんだけど。

    だけどそれって自分がそう思い込んでいただけで、実際に家族にそのことを話してみると、家族的には「全然行ったらいいじゃん」ってスタンスでいてくれたから、案外言ってみるもんだな、と思ったりしたよね。

    世の中、そういうことが本当に多い。

    私は田舎育ちで、長男という立場なので、いずれ実家に戻らないといけないよなみたいなことをずーっと考えていたんですよね、それこそ結婚するまで、とか。
    けど結婚して、生活の拠点を今の地域に置き、そこで生活、仕事をしてったりすると、もう戻れないよな、ってなった時に、

    マンションを買って、そこに根を張ることに対して、やっぱものすごく抵抗があったんだよね。
    長男だし、実家に戻るべき、と思ってたから。

    だけどそこを振り切って、マンションを買うことを親に話したら、まぁ、そこは親の優しさという点で、ものすごく泣けるんだけど、優しく受け入れてくれて。
    彼ら的にはきっと、私の考えを優先してくれたんだと思うんだけど。

    これ今考えても、よく言ったよな、って思う。彼らの気持ちが痛いほど分かるから。そりゃ子供は手元に置いておきたいよね。

    私はそんな気持ちを踏み躙って、自分の気持ちを優先させてしまって、これは親不孝なんだろうか、と未だに葛藤したりするんだよなぁ。

    そういう人多いだろうな、多分。

  • 4月14日

    自分の価値観を、揺るがずに持っていることにポリシーと感じているような人は、私からすると合わないのかもしれない。

    人によるから、私はその人に対して良いとか悪いとか、そういう判断ができない。私の判断なんてなんの意味もないから。自分の機嫌を取りたいだけだから。

    だから、頑固な人、周りに合わせようとしない人、努力しない人には、今までずーっと「なんであの人は協力しないんだろう」と一人で悔やみ、がっかりしていたのだけれど、

    それは私がその人に対して期待をしていたからであって、多分、ではなくきっと、私の思惑が間違っていたんだと思う。

    そうすべきじゃなかった、ということ。

    期待すんな、と1週間に20回くらい考えることがあって、それはつまり私が、人や、組織に対して期待してしまっていることの裏返しなのであるからなのだけど、少なくとも私の意識を変えるだけで、もしかしたら世界が変わってみてるのかもしれない。

    同じように、厭世的な考えをずーっと持っていて、この世に対してなんの未練もありません、今すぐに命が終わっても良いです、と考えていたんだけど、

    一方で、

    例えば、もうすでに別れてしまった人に対して、もっと優しくすべきだったとしても、その人が死別してしまっているとしたらすでに手遅れで、それは後悔の一つで、

    その点で、

    私はまだ会いたい人がいるし、その人と会って話がしたいし、その人の顔が見たいし、てかずーっと見ていたいし、それはつまり家族であったり旧い友人であったりするんだけど、

    そういう人たちとの、黄色いTシャツの番組みたいな言い方をすると「絆」というものが思い浮かぶんだけど、その絆があるから、まだ死にたくないな、と思うようになりました。

    ただそこにも、他人には期待すんなよ、ということがあり、私が会いたいからと言って、向こうも同じように会いたいと思っているかは彼らの勝手なのだから、私はそこに期待しちゃいけないんだな、ということは忘れないでいたい。

  • 4月10日

    予定のない休日は、ついなんだか生産的なことをしてしまいがちではあるけれど、本当は休むことが必要なので、疲れるようなことをしちゃいけないと思う。

    疲れるというのは、身体的な面、精神的な面の両方があり、私の場合、例えば遠くの場所にある人混みなどはそれに該当したりする。静かな、落ち着いたところが好きなので、図書館とか、森の中でデイキャンプが良かったりする。
    それでもそれが家族の要望と合わなかったりして、それを家族に合わせると、満足のいく休日とは呼べなくなってしまう。

    それじゃ家族がいない方が良いの?という話に展開しがちである。
    となると、それはそれで別問題で、というのも家族から齎されるが多いから。

    どっちもどっちだったりする。どっちも優先したい。どっちも愛したい。
    自分の気持ちと、家族。

  • 公園へ

    テントの張れる公園へ

    風が強いけど心地良い

  • 4月2日

    セネカの、人生の短さについて述べられた本を借りた。こうやって大昔の人が考えていたことが、今になっても読めるという点で、やっぱ本の存在は偉大だよなぁと思う。

    さて。人生は短いと、セネカは言った。

    本当に短いのだろうか。
    私からしてみたら、長くて長くてほんと辛いのに。

    ここには目的思考という、考え方があるのかもしれない。

    私は、もしかすると、惰性で生きているから、今、ここでやり遂げたいこととかそういうレベルのものを考えないので、人生って長いわー、って感じてるのかもしれない。

    人それぞれなんだろうな。
    私の考えに賛同して欲しいか、というと必ずしもそうではないし。
    死ぬ時に、後悔するとか、そういうレベルでの話に近いのかなとおもうけど。

    そもそも後悔ってさ、なんだよ。そんなに、俺の人生にインパクトあるわけ?
    もうやりたいこと、だいぶやったわよ。
    あとやってないことってなんだ、もうないんだよ。
    バンド組んだし、バイク乗ったし、外国に住んだし、結婚したし、子供作ったし、一人でキャンプ行ったし。
    もうほんと、お腹いっぱいなんです。

    明日、癌が発覚したことを考えてみよう

    それならもし、俺が、43歳にして癌を発症したとしたら、ということを仮定しよう。

    ちょっと、胸に手を当てて考えてみる。
    やり残したことって、ほんとにないの?
    今自分が持ってるステータス、家や家族やお金や思考などを考えてみても、うーん、なかなか思いつかないんだよなぁ

  • いつか別れる

    いつか別れる

    家族に限った話ではないが、今、私がつながりを持っている人間は、今だけしかそのつながりが確約されていないということ。
    絆、って書いちゃうと日テレの黄色いTシャツを思い出してしまうので、そっちには寄せたくないので、あえてつながりという言葉を。

    シンプルに、寂しいなぁ、離れたくないなぁ、という気持ち。

    人生に別れはつきもの。出会いと同じくらいの頻度で、別れがやってくる。

    もう二度と再会できない死別というものは、とても辛い思いを纏う場合がある。
    再会できる場合としても、物理的にとても遠い場合や、近くとも他の物事に押されてしまい優先度が下がる場合など、多々ある。

    ぼんやりと考える。

    私は、いつ死ぬか分からないから、自分の思いが強い人とはなるべくたくさん、会っておきたいというエゴな気持ちが芽生えてしまう。
    たくさん会ったところで、その、いつか別れるという予測からやってくる「淋しさの先取り」は薄れることがないのに。

    数か月前、長男が遠くの国で暮らす夢を見たことがあった。
    18歳くらいの彼。
    今は12歳なので、ちょっと未来の話。
    東欧の、空気の乾いた、少し色褪せた風景の、やたらデカい施設で働いていた。
    その彼に、妻と二人で旅行がてら、会いに行く夢だった。
    今とは明らかに違う、口数の少ない彼。
    ランチを共にし、1時間程度一緒の時間を過ごし、あっという間に別れの瞬間が訪れ、そこで私はとても淋しい思いを抱きつつ、彼と別れた。
    私は号泣しながら、目を覚ました。

    今、私は彼と同居していて、早ければ数年後、大学入学のあたりで家を出る可能性があるので、夢の中で抱いた淋しさは、そのタイミングでやってくるのだろう。

    この夢、もしかしたら、私の両親から見た、私のことなのかもしれない。
    思い込みだろうけど、そんな風に考えてしまう。
    両親から甘やかされて育った(と思ってる)自分は、両親から優しさを一番に受け継いだ。
    彼らは優しい。めちゃくちゃ優しい。
    そして人とのつながりを大切にする人たち。
    無論、子供として育ててきた私が、あの家から離れると決めた時、ものすごく淋しい思いを抱いたのだろう。
    彼らの気持ちを考え、意図せず悲しい気持ちになってしまう。

    そんな彼らの気持ちとは裏腹に、今は、隔月程度で帰省し、両親に会いに帰る。
    1年で6日~7日。
    これが多いとか少ないとか、人によって感じ方に違いはあるだろうけど、まぁ、そういうもんだから、と優しい両親は考えているかな、と彼らのことを慮る。

    そういう見方をすると、私は、「家から出た人間」と、「これから家を出る予定のある人暮らす人間」、両方の目線で考えるのだな。

    子供たちについて、考える。
    彼の人生を奪うことはしたくないから、私の「別れたくない」という気持ちは、優先すべきではないと考える。
    考える、けど、淋しさをなんらか別のもので埋め合わせるなどしないと、自分が崩れてしまいそうな気がしたりもしている。
    彼に、家族に執着しているということになるのだろう。
    頭では、執着すべきではない、彼の、家族の人生を奪うべきではないと考えている一方で、心は、彼らと離れたくないという気持ちを抱いている。

    きっと、家族が好きということの現れだと思うけど。

    一方で、私がたまに抱く、この世から離れたいという思い。
    我儘だよなぁ。家族や、私を取り巻く関係の人たちと別れたくない、ずっと一緒にいたいと思いながらも、自分は別離を求めるという我儘。
    ずっと一緒にいたいと思うのならば、自分はこの世から離れるべきではないだろ。

    いや、違う。
    優先度がつけられていないだけか。
    彼らと別れたくないと、この世と別れたいを。
    そんなん、時と場合によるからなんとも言えないけど。

  • みんな、それぞれの目線で空を見ている

    みんな、それぞれの目線で空を見ている

    長男が12歳になる日を迎えています。
    同時に、私は、父になって12年が経つという日になりました。

    長男も、次男も、日々、本当にすくすくと育っていくのが分かります。
    今イマで言うと長男は情緒が複雑になってきていて、いろいろな感情を持つようになりました。そしてそれを伝えるための言葉も覚え始めているように感じます。
    次男はまず身体の成長、そして長男と同様に、喋る言葉の種類が増えてきました。

    以前、私は脇役という役を演じるのが好き、という投稿をしたことがありました。
    脇役とは言え、それが自分の果たすべき役割なのだから、役割の特徴に関係なく、自分は責任をもって果たすべき、と思います。

    長男、次男、そして妻や私、たまたまひとつの家族というものを形成しているための要素になっていますが、みんなそれぞれ、違った高さで空を見てるんですよね。
    空というか、世界というか。

    家族として接する時間がとても長いからこそ、一心同体みたいな、私は家族みんなの一部であり、みんなも私の一部であるように感じるのですけど、それぞれ、別々の人間だということを忘れないようにしたいです。
    みんなそれぞれ、自分だけの社会を持っている訳だから。私は長男が友人たちとどういった交友関係を持っているか分からないし、基本的には干渉するつもりはないから、深く知ろうともしないのですけど。

    そんな誕生日に、長男、友人から誘われてどこかに出かけていきました。
    少しずつ、友人たちと過ごす時間が増えていきます。
    家に残された3人は、少しだけ静かになった家で、自分たちの好きなことをして過ごします。私は仕事ですけど。
    やがて次男も長男と同様に、友達と過ごす時間を増やしていくんだろうなぁ。
    どんどん自分の社会を広げてって欲しいなぁと願ってやみません。