障子の向こうが見たかったおじいさんのこと

先日Twitter断ちをした時に、彼と同じ心境なのかもな、と思う瞬間があった。
何度か。
彼は「絶対に見ちゃダメですよ」という忠告を無視し、障子を開けてしまった。
そしてその障子の向こうにいた鶴はそれに憤慨し、飛び立ってしまう。

お爺さんはなぜ、我慢できなかったのだろう。
人間はなぜ、「やっちゃダメですよ」と制限をかけられたものに対して、強い興味を示してしまうのだろう。

先週、Twitter断ちをした時に、何度も何度も、TwitterのTLを閲覧したいという思いに駆られた。
フォローしている人のツイートに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
自分の日常を誰かのシェアすることに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
なぜそこまでの魅力を感じるのか。禁断症状とまではいかないけれど、一日に一回以上はTwitterのことを考えた。

多分、いくらか誇張している部分があるように思う。
正直なところ、私が、暇だったのだ。
Twitter以外に時間を潰す方法は、思いに耽ることか、本を読むことくらいしかなく、それにはどちらも気力を使うので、なるべく気力を使わない方法ということで、Twitterという選択肢がとても魅力的だったのだ。
だから、多分、それに代替できる楽しみを見つけることができたら、自然とTwitterから離れていくのではないかと思う。今のところは全く思いつかないけれど。

考えたいことがたくさんあって困る。
お爺さんはなぜ、その忠告を守れなかったのか。
お爺さんは多分、障子の向こうで何かしているのだけれど、それがなんなのかものすごく気になったのだろう。気になるということは、魅力を感じるということだ。忠告を破るほどの魅力とは。ここが私が持つ想像力の限界である。

次に私が考えたかったのは、Twitterとの付き合い方。
多分、私はゼロかイチに決めつけたがる性格なのだろう。
その間にある、0.5でTwitterと付き合っていきたい。ほどほどに。