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  • 誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
    変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
    だって実際に木が倒れているんだから。
    今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。

    木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
    若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
    その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
    このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
    そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
    倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。

    軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
    だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。

    近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
    木が倒れたという事実。
    それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
    この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
    あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。

    ちょっと視点を変えてみる。

    ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
    間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。

    いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。

  • 人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間は死ぬまで成長できる、と考えていたけれど、時折、足踏みするよなと思ったりもする。

    足踏みする自分を許容しても良いのだろうか。そんなことじゃダメだろ!と鼓舞し、自分の成長を促すべきなんだろうか。

    促すには体力が必要だ。気力も同じくらい必要で、それらがないと自分の中で力が出てこない。

    成長のために、気力と体力を準備するのって難しい。40代も後半に差し掛かってくると、その両方が同じタイミングで満たされるってことが結構貴重なことなんだなと思う。

    だとすると、自然の流れに従って、死ぬまでぼんやりと生きるという生き方、考え方も貴重なのではないかと思う。

    貴重というか、考慮すべきというか。

    常に100%、いつでも発射できますぜ!というスタンスを作るのが難しくなっていくからこそ、ケセラセラ、Let it be的な生き方も考慮すべき、みたいな。

    たぶん、基本的には後者のスタンスで生き、自分の中で「今行けるな」と感じた時に、成長の機会を促すべくアクションを起こしていくことが必要なように思う。

    たぶん、って上で書いたけれど、きっとこれ正解ってないんだよな。

    だけど昨今、成長していかなきゃ!ってなることが多い。

    SNSとか見るだけでも、他人と比較してしまったりして、自分の武器の拙さ、弱さに辟易したりして。

    ちょっと哲学的な考え方に実を寄せてみると、これ系のことがすでに打ち出されているのに気づく。

    例えばニーチェ。自分で価値を作り、それを肯定すべき。苦しみは成長するための条件。(善悪の彼岸)

    ずいぶんとまぁ背中を押してくれるよな、と思う。

    いやそもそも、上記、私の前提が良くなかったかも、と思う。

    気力体力を十分に必要とする成長にばかり目を向けていたから、「できないときはしょうがない」なんて条件を加えていたんだ。

    そうじゃなくて、気力体力が十分じゃない時にでも、その時に持ってる気力体力で臨んでいけば良いだろう。

    自分の価値を創造するために、必ずしも気力体力が必要じゃないということ。

    そもそも、上述したけど、むしろ100%じゃない時の方が多いもんな。

    成長の機会、と言ってみても、それはいったいどんなことが挙げられるだろう。

    分かりやすいところで考えると、仕事をもっと効率的、効果的に進めるために、必要な知識を得ることとか。

    今の私で言うと数字を集計し、マネージメントへ報告するという業務が大半なので、数字が暴れているところをいち早く察知して、それの原因を探り、必要な対策を講じること、この一連の仕事をもっと効率的にやっていきたい。

    この流れで考えると、自分の仕事を効率化させるには数字を集計するところのスピード。あと正確性。もしくは、見方を変えてみると、一連の流れを自動化することも可能かもしれない。

    目の前にある仕事を毎月のように同じ作業を繰り返すこと自体は楽だ。あんま物事を考えなくて済むから。だけどこのご時世、このテの仕事は自動化すべきだという風潮をものすごく強く感じるので、その方向で考えていっても良いのかもしれない。

    仕事から離れてみるとどうだろう。このブログにも書いているけれど、ランニング。つい5年くらいの間に、ランニングをする習慣がなくなり、身体が太ってしまった。健康的な身体作りというのは、ライフワークとして考えていくべきなんだろうな。こんなところで倒れてなんていられないもんな。

    ランニングは日々、コツコツとやっていくことが肝心なので、なるべくそっち側に意識を向けて、頻度を上げて取り組んでいきたいと思う。

    仕事とプライベートという両面で、成長の機会というものを考えてみたけれど、その前に、こんな感じでブログを書くことだって自分の成長につながるのではないかと思う。文を書くって難しい。自分の考えを適切な言葉を使って可視化するのって、すごく難しい。けれどそういうものもランニングと同じで、日々、コツコツと続けていくことが必要なんだろうな。

    そう考えると、コツコツと続けることこそが、人間にとって一番大切なことかもしれないなぁ。

    結局、正解はないんだよな。でもニーチェはこう言った。『苦しみの訓練こそ、人類のあらゆる高まりをもたらした唯一の原因である』。私は、いったいどんな苦しみを抱きしめる?

  • # 今、ここに存在するものが、未来に存在し続けるとは限らない

    # 今、ここに存在するものが、未来に存在し続けるとは限らない

    ちょっと時間が経ってしまいました。

    引き続きマルクス・アウレリウスの自省録から気に入ったものを。

    しかしこれ、何度も書いてますが、数千年前に書かれたものとは到底思えないですね。

    今、この、2025年という日において、十分役に立つ言葉が載せられているということの、マルクス・アウレリウスの先見の明がいかに偉大か。マルクス・アウレリウスは自分のために書いた、とどこかで読みましたが、それだとしても、他の人に見られることをまるで想定しているかのような書き方をしていることにも驚きます。

    未来の私に伝えたい言葉

    これはおそらく未来の自分に向けて、彼は書いたんだろうと思います。

    日記なんかでもそうですよね、未来の自分へ書く手紙だ、と言われることもあったりします。

    未来の私に、伝えていきたい言葉を、今、頭の中で整理して書いてみるという行為は、自分の身体(というかメンタル)にとってとても大切です。未来の自分に向けて書くという点で考えると、マルクス・アウレリウスの自省録もそうですが、自分が「善く生きる」ために必要なことを書いているワケです。時々、日記に今日の愚痴を書く、書きなぐる、という人もいるようですが、それは結局建設的に、明日は今日よりも善く生きようというのに繋がらないから、そればっかりだとダメなような気がします。

    愚痴を書いて、それを反面教師として、明日の自分への糧にする。この考え方であれば、どんな愚痴でも十分に自分を成長させるための材料なのだと思います。

    > ものごとはすべて変化によって生じることを、絶えず観察すること。自然がもっとも愛するのは、いま存在するものを変化させ、それに似せてあらたなものをつくりだすことにある。

    > いま存在するものはすべて、これから生じようとしているものの種子だ。だが君は、大地や胎内にまかれるものだけを種子だと考えている。じつに浅い考えではないか。もっと深く考えることだ。

    自然の中で、絶えず変わっていくもの

    毎日毎日、同じような生活をしていて、変化がないように思う日々とか。

    同じ仕事をしていると、あれ、今日水曜日?!火曜日はどこいった?!俺の火曜日、なんも生み出してない!というような思いに駆られることがあります。

    日にちって難しいですよね。きちんと意識していないと、すぐ、今日は何月何日なのかを忘れてしまいます。

    海軍が金曜日にカレーを作って食べるのは、曜日感覚のない生活を過ごしているから、カレーを食べれば金曜日、という風に状況を作り出すことで、曜日感覚を忘れないようにしているのです。

    マルクス・アウレリウスは言います。「自然がもっとも愛するのは、いま存在するものを変化させ、それに似せてあらたなものをつくりだすことにある」のだと。

    自然っていったい何なんでしょう。ベランダから見える外?それだけではないはずです。

    私が思うに、自分という存在 を含めた、全体的な自然なのではないでしょうか。

    つまり自分も、自分の周りを取り巻く自然というものの一部なのだと。

    自然とうまく付き合っていくことが、自分が善く生きるコツなんです。

  • 7月27日 正しさとは

    7月27日 正しさとは

    数日前からChatGPTに触れる機会が多く訪れており、その中で私は彼(勝手に男性だと仮定している)とたくさんの対話をしてきた。
    その中で、私が生業としているシステムのテストという観点に置き換えて考えた時に、彼の出す回答が正しいかどうかを判断するのって結構な難敵なんじゃないかと思い始めてきた。

    基本的に彼を100%信じるのは危険で、それは彼の会社のCEOも言っていて、だからこそ使う人が「ちゃんと正解を知っている」ことに対して対話をしていくべき、なのかなぁ、と。

    自分のわからないことを彼に答えてもらう、っていう、理想的なAIの使い方はどこかのタイミングでできてくると思うんだけど、それでも、「得体の知れないAIなる生き物」に正解を委ねるというのは、一種の神頼み的な感覚とも言えるんじゃないかね。

    その辺の回答。彼もちゃんとその辺は考えている模様。ChatGPT4である程度この辺の会話をした後で出てきた回答。

    回答の正しさってこういう技術的なものだけではないよね。
    昔から、困った時は「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり」で決めてきた経緯がある人間としては、自分の意思では作れない正解を、どっかに委ねながら生きてきたんだよなぁ。
    それが、今はGenerativeAIになっただけ、という感覚、というか。

    ちょっと意地悪な質問をしてみた。

    それに対し、追加で、以下の会話。そうだよね、という雰囲気の回答。

    正しさ、と言う言葉自体が曖昧なんだから、答えは60億人いれば60億通りの考え方があるはずだよな。
    テロ組織は危険!と思う一方で、彼らにしてみたら彼らこそが正義という考え方になるはずだから。

    そういう点で、正論を突きつけることの危険性も孕んでるよなぁ。
    だってその正論は、あなたの意見ですよね、ってことになるから。
    誰から見ても正しいって言うのは、それこそ「人間はいつか死ぬ」くらいのもので、それ以外については反論の余地があるものばかりじゃん。
    柏レイソルが今めちゃくちゃ弱くて、このチームを応援し続けることに意味は?と言う問いかけにしたって、それはあなたのクラブ愛がどのくらいあるか次第でしょ、みたいな話だろうし(なんか脱線した気がする

  • 6月25日 自分の親友になってみる

    6月25日 自分の親友になってみる

    今日は、良い一日だった。
    今日も、良い一日だった。

    朝起きたらすでに10時近くなっており、朝ランはできなかった。
    なんとなく私の中で、朝に走ることができたら、その日は良い日と考えている節があり、その基準で考えると今日は、あまりイケてない日ということになる。
    そうやって自分のルーティンを固定したまま暮らすと、今日は一日中陰鬱な気持ちで過ごすことになるんだけれど、最近読んだ本で、自分をポジティブに持っていくためにこういう負のルーティンを壊すことが肝要、みたいなことが書いてあった。

    鋼の自己肯定感 最先端の研究結果×シリコンバレーの習慣から開発された”二度と下がらない”方法 [ 宮崎 直子 ]

    この本では繰り返して「アファメーション」という言葉を使っていて、これをちょっと調べてみると、要は自分の心をポジティブにするような言葉を繰り返し言い続けることで、気持ちが自然と明るく、前向きになれる、みたいなことなんだけど、そんな感じでイケてない日も「今日は良い日だった」と唱えることで、気持ちを明るくさせていけたら良いな、と思っている。

    また、悪いことばかり探していると、そればかりが目につくようになってしまい、良くないことだとか。
    今、ここに在るもので十分じゃん、とか、私は理想の体型から程遠いけど、それに向かって頑張っているんだ、とか言うことで、今の自分を応援することができる、と。
    自分の親友になろう、みたいなことも書いてあった。

    私の場合、自分が不幸になっても良いから周りをサポートしたい、みたいな献身性が心のどこかにあったのだけれど、それって自分にとっては害悪でしかないんだね。
    私が幸せになるために生きてて、それを蔑ろにしてしまっては良くないことだと。まぁ、自分が誰かの役に立った=自分が幸せになった、ということであれば、良いのかもしれないけれど。

    ここ数年、少なくとも10年くらいは、自分が幸せになる方法のようなものを考えてこなかったように思う。
    奇しくも、子供が生まれた頃からそうだったのかもしれない。
    家族のために仕事、自分のやりたいことは二の次、と考えているうちに、あれ、自分のやりたいことってなんだっけ、と、いつの間にか現れた戸惑い。
    それが起点となり、その先に、自分、この先生きていても楽しいことなんてないだろ、と考えるようになってしまったように思う。
    その時々で、自分のやりたいことを見つけ、時間と費やしてきたけれど、それらは全て付け焼き刃で、結局のところ、なーんにも残らなかったような。
    そんなことないか。
    だけどここから、まずは自分の親友になってあげて、自己肯定感を高めていくようにしていきたい。

  • 6月14日 人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、

    6月14日 人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、

    雨が、降ったりやんだりを繰り返している。
    近くの道路を走る車の音。果たして今日は、どんな思いを抱くだろうか。

    今日は偉い人とのミーティングで、私が主役になり説明する機会があった。
    こういう時になるといつも緊張してしまう。

    緊張とは。

    何度かこのブログでも書いているけれど、緊張は「いつもとは違う自分、ちゃんとしてるところを見せたいという思い」から生まれるのだそう。
    私にはそういう思いが強いということなのだろうか。
    もうちょっと考えてみると、私は、他人からの承認欲が強いということなのかもしれない。
    承認欲求を他人に求めるというのは、終わりのないスパイラルで、たとえばSNSでいいことを言おうみたいなのもその一つ。
    いいねをもらうために努力するのは、自分を磨くという点では良いのかもしれないけれど、そのために自分の気持ちを蔑ろにしてしまったり、無理をしちゃったりするので、いったん深呼吸をしてみて自分の気持ちに寄り添ってみたりすると良いのだろう。

    それは仕事だけではなく、日常生活のすべてにおいて言えること。

    どちらかと言えば悪く言われることの多い他人からの承認欲、考えるべきは自分からの承認欲を強くもつこと。
    昨日の自分よりも成長することで、自分で自分を承認してあげること。
    泡沫の夢のように、キラキラした自分を見せることも良いことではあるのだけれど、それよりも自分で自分の味方になってあげて、応援する姿勢を持つことが良いだろう。

    って、言うのは簡単なんだけどね。
    他人と触れ合う前提で成り立っているこの社会で、私はどっちを向いて生きていけば良いのだろうか。
    少し立ち止まって、そんなことを考える。人生なんて晴れたり曇ったりなんだから、曇った時にこそ自分で自分の味方になってあげるべきだ。

  • 6月6日 自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと

    6月6日 自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと

    あの頃の自分に戻れたら、と自分のふっくらしたお腹を見て思う。
    あの頃、今から10kgぐらい痩せていた頃の体型が、とても大好きだった。

    過去の、自分がかつて歩んできた道の頃を考えてみることは、自分を前進させているのだろうか。
    もしかすると、今の自分という存在を否定しているのではないか、と。

    違うのだ。
    今の私は未来に向かんで少しずつ歩んでいるのであって、過去の自分に戻りたいわけではない。
    たまたま、私の歩んできた道のなかで、「あの頃は良かったな」と思える瞬間を思い浮かべているだけなのだから。

    もしかするとそれは、恵まれていることなのかもしれない。
    自分の思い描く理想を、自分が歩んできた道の瞬間に出会っていたのだから。
    だとすると、今の自分をまず肯定してあげて、あの頃生きていた自分を思い描き、それに向かって進むだけなんだろうな。

    未来って難しい。難しいけれど、未来は359°の可能性に満ちているから、自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと足を向けるだけなんだよな。
    もしかすると、私の選択は、未来の方向性を340°狭めてしまうかもしれない。だけど、残り19°あるんだから、そこからまた自分の思い描く方向へと、足を向ければ良いのだろう。

  • 6月3日

    あっという間に、日常がすぎていく。
    つい最近書いた気がするけど、仕事に没頭されて終業後の夜時間すらも一瞬で過ぎ去っていくという程度のノリ。

    こうやって、43歳っていう私の時代も、大した記憶が残らずに過ぎ去っていくんだろうなぁ。

    仕事が忙しいとか、お酒をたくさん飲めるとか、ご飯を胃が痛くならずに食べられるとか、身体が健康だからやってられるわけで。
    そのことを蔑ろにしてしまってはいけないなぁと思うのよね。

    もしかしたらこの日記を書いている途中に気持ちが悪くなり、病院へ運ばれ、そのまま還らぬ人になってしまう可能性だってあるのだから。

    健康でいたいんだろうか、自分は。

    つい最近、ある人と話している中で、ここでも何度か書いている「もう死んじゃっても構わない、決してそれは後悔していないという体ではなく、どちらかというとネガティブな意味での諦観」みたいなことを話したら、何がしたいのか分からない、そうしたいんだったらそうすればいいじゃん、って言われて、

    それは流石に凹んだよね。
    別に、「死んでほしくないよ!」って言ってほしいわけではないんだけどさ、止めて欲しかったっていうか。
    なに他人よがりになってんだ、って話ではあると思うんだけど。

    自分に課せられたことは、ただ一つ、生きることだと思うんだけどね。
    そこからさらに、子供を育てるとか、自分のやりたいことを実現させるだとか、そういう面でのあれやこれやは出てくると思うんだけど、

    結局、諦観っていう視点葉、なくなることはないんだよなぁ。

    これって良いことなんだろうか。

  • 5月6日

    快晴の中での仕事。

    昨日は、日曜の夜と同じ心境だったせいか、今日は月曜日という感覚。
    GWのせいで仕事に皺寄せが起きる。
    急に進めるの無理だって普通に考えていても。

    さて

    今日はどんな1日だっただろうか。

    何も考えずに1日を過ごしたような気がする。

    仕事に没頭している証拠なのだろう、あっという間、まるでタイムマシンに乗ったような気分。
    本当は、時間の長さ通りに過ごしたという気分が必要なのだろうか。

    ん、待てよ

    時間の長さ通りに進むって超ムズいよな。
    今日みたいに、仕事とか、趣味に没頭していたら、1日なんてあっという間だもんね。
    逆に、やることがなくて、散漫な気分だったら、今日は退屈だったなぁー超長く感じたわー、ってなるでしょ。

    本当は、人生なんて没頭しているうちに終わっちゃうのが良いかもしれないなぁ。
    たまに訪れる鬱期間の時みたいに、「なんで生きてるんだろう」「生きてる意味、価値、ないだろ」とか考えちゃうのって、本当は不要なのではないかと。
    どうせ、そんなのに悩んだって、何も見えてこなかったりするもんな。
    今日みたいに、何も考えずに一生が終わってしまった!気づいたら死んでた!みたいなくらいのほうが、幸せなのかもしれない。

  • 4月16日

    二日続いた雨がやみ、思わず嬉しくなって外ランをしてきたんだけど
    なんとなく街を歩いている人たちみんなも同じ気持ちになっているような気がしたなぁ。

    やっぱみんな、晴れのほうが嬉しいよな。
    そりゃ、雨の日だってあるから、それに一喜一憂していること自体、どうかとは思うのだけれど。

    君は君の道をゆけ [ 齋藤 孝 ]楽天で購入

    図書館で、齋藤孝さんがニーチェの哲学について語っている本があったので思わず借りたんだけど、

    うーん、

    どうなんだろうこれは、と思うようなことがあって。

    齋藤孝さんというよりは、ニーチェの考え方になるんだろうけれど、

    過去を全部肯定せよ、みたいなところがあって。

    論調としては、今の自分を作り上げたのは、過去の自分が選択してきた道があるから。
    今の自分を応援するためには、過去、自分がイヤだったようなことも全部抱きしめなきゃいけないのかな、と思って。
    それってかなりキツい。たまに、そういうイヤなことを思い出しては心の中で「んあー!」ってなり、一瞬でものすごく死にたくなるんだけど、それをなるべく忘れるように、思い出さないように生きている中で、それを全部愛せ、肯定しろ、っていうのは

    うーん、すぐにはムリっすね、ってなってる。

    そりゃ確かに、今の自分は、当時の自分がいたというのは否定しないし、そりゃそうなんだけど、過去に対してそんな感じで、全部包み込む必要があるかっていうとなんとも言えなくて、私個人としては、忘れた方が良い過去はダッシュで忘れるべきだと思うんだよなぁ。

    思い出す度に「んあー!」ってなって、自分の心を病んでしまうから。

    両方を生かすにはどうしたら良いのか。どうしたら、良いものか。

    「んあー!」な過去を思い出してしまったら、「そういうこともあったなぁ…」って考えながら、そっとしてあげる、って感じかなぁ。
    それで、自分の心にあるささくれが、わだかまりが、薄まったりするのだろうか。

    分からんね。分からんよ。