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  • 夢とか持つべきではないのかもしれない

    夢とか持つべきではないのかもしれない

    理想の自分と比較するといつも、自分の至らないところが目に見えてきて、本当にイヤになる。
    この、思考の繰り返しについても、本当に嫌気が差す。

    なんでこうなったのか。

    つまるところ、めんどくさがることに起因しているのではないだろうか。
    めんどくさがることと、関連して、物事を先延ばししてしまうこと。

    理想の自分は万能型。なんでもできるタイプをイメージしている。
    現実の自分はというと、いろんなところに中途半端で、情熱を持って自分を磨いてこなかったことの結果だと容易に想像できてしまう。

    めんどくさがるのはなぜか。先延ばししてしまいたくなるのはなぜか。

    怠惰。怠けたくなってしまう。自分を律するのがめんどくさい。
    ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲み、生きていたい。

    多分、そんなところだろう。

    それはそれで良いのだ。それを選択したのだから。
    それならいっそのこと、理想の自分は「ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲みながら生きていくことです」と言い放てば良いだけ。

    けど、それができない。
    それは、自分の理想とは大きくかけ離れているから。

    理想とは。

    そもそも理想なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。
    夢なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。

    そもそも夢とは。持つべきものなのだろうか。理想も然り。

    人間は、成長すべきなのだろうか。

    自分のやりたいように生きる、ことが人生の目的なのであれば、やりたいように生きる≠自分を磨き、夢を実現させるというケースだってあるでしょ。

  • なにも変わらない

    なにも変わらない

    2021年になった。
    人類が作った暦という意味での、ただの区切り。

    ただぼんやりと日常を過ごしていた生き物たちは、その、日常に意味を持たせようと思い、カレンダーを作った。
    当初は懐疑的だったはずだ。
    そんなん、なんの意味があるの?と思ったはず。
    そりゃそうだ、カレンダーを作る目的がぼんやりとしていたはずだから。

    だけど、その小さな積み重ねはやがて大きな意味を成すことになる。
    カレンダーは、年の区切りというものに明確な意味を持たせた。

    とは言え、いろんな国がある中で、年の区切りに対して祝福する場合と、ただの祝日として過ごす場合があるようで。
    いくつかの国では、1月1日は祝日として扱うけど、それ以外、例えば12月31日とか1月2日はただの平日だ。
    そりゃそうだ、別に、年が跨いだだけで、それ以外の意味なんてないのだから。

    とは言え、人間はそうやって時間を経過していくことでいろいろな思いを馳せる。
    自分が生きてきた証として、年齢というものがある。
    木と同じように、年輪みたいなものを持つことで、自分が今どの立ち位置にいるかを、客観的に見ようとしている。
    なんの意味もないはずの、ただ地球が一周するだけの、日付の跨ぎに。

  • そっち側のこと

    そっち側のこと

    ぼんやりと、死ぬことを考える時期に入っている。
    年に数回、そっち側のことを考える。
    寒くなるからなのかな、ときっかけを考えることが良くあるけど、きっときっかけなんてその時々で違うはずで、いくつかの思考が重なり、そっち側のゾーンに入ってしまうのだと思っている。
    季節の移ろいに思いを馳せるのと同じような感覚で、死ぬことについても思いを馳せるだけ。
    たぶん、ただの暇つぶし。
    つーかだいたい全部そうだろ。

    結局人間は孤独。
    死ぬまで、ただ生きているだけ。
    その、数十年間に意味を持たせるために、自分を納得させるために活動する。
    活動自体に意味はない。
    自分や誰かを好きになろうが、嫌いになろうが、なにか功績や罪過を残そうが、死ぬまで生きているだけ。
    なにか意味を持たせようとしてしまうけど、それは本来は必要のないこと。
    意味なんてない。
    生まれてきたことすら、意味なんてないのだから。
    爆発しろ、この思い。
    考えることすら無意味。

    人間は、迷惑をかけないで生きていくべきなのか。
    死ぬことすら誰かに迷惑をかける人間という生き物は、もはや死ぬことすら自由ではなくなった。
    勝手に死んで、朽ちていくだけで良いのに。
    それを願い、樹海に入っていく人たち。
    彼らのことを考え、静かに、泣く。
    それが共感というのだろうか。
    多分、樹海に入っていく瞬間に抱く思いの、0.1%すらも理解できていない。
    多分、生きることにめんどくさくなったんだろうな、くらいしか思いつかない。

    そっち側のことを考えるのは、悪いことではない。
    生と同じレイヤーにあるべき、死という存在。
    生き物はみんなそのイベントを迎える運命にある。
    ただ、心臓が止まるだけ。
    生き物が、生き物という存在ではなくなるだけ。
    死ぬことを考えないように、という考えは違う。

  • 誰にも読まれたくない

    誰にも読まれたくない

    楽しいとか嬉しい、悲しいと感じていることは、もしかしたら誰かと同じ思いを抱いているかもしれないけど、100%同じ思いを共有するのは難しい。
    だから、「誰かと繋がっている」という思いは嘘だ。悲しいけど。それを、悲しいと思うことすら、独りよがりなのだけど。
    そして、「誰かと繋がりたい」という思いすらも、結局独りよがり。自分だけが良ければいいというワガママのもと、生き物は、誰かに迷惑をかけてる。誰かを利用している。
    孤独なんだ、生き物って。一人で生きていかなきゃいけない。

    ゆっくりと、アウトプットしたい期間を閉じていってるのがわかる。
    自分の思いを外に出したいという思い、それすらも独りよがりなんだけど、それでも私は、私の、やりたいという思いに従って生きているから、それ自体には満足している。誰にも読まれなくても、私は満足している。
    それが承認欲求から来るものなのか自己実現から来るものなのかはよく分からないけど、私自身が満足しているから、それで良い。
    いろんな思いを削ぎ取って、最後に残るものは結局、私自身が満足するかどうか。納得するかどうか、なんだよな。
    この、ブログを書くことが後悔に繋がるものだとしても、ブログを書いている時の自分は満足して書いているのだから、納得するはずだろう。知らんけど。

    むしろ、こんなブログ、誰にも読まれたくない、とすら感じることだってある。
    誰の得にもならないから。自分だけが得をするから。満足するという意味での得。

  • 罪悪感は何も生まないだろ

    罪悪感は何も生まないだろ

    これを読んでまして。

    https://www.amazon.co.jp/dp/B07T2CCC8K?encoding=UTF8&redirect=true&ref=ku_mi_rw_edp

    自分の心をクヨクヨさせる大きな要因に、この罪悪感があるということが。

    例えば、私は家族のために、私の時間を費やすとします。
    そうすると「私は、私のことを大切にしていない」と罪悪感が湧き、それが態度に表れ、家族に八つ当たりしてしまう。
    いや、違う、正確には「私はあなたたちのために時間を費やしていますよ」というアピールをしてしまうのです。

    そして、それが負の連鎖になっちゃうんですよ。

    家族は、私がそんな思いを抱きながら時間を費やしているのを理解し、家族もまた、罪悪感を抱いてしまう、と。

    それは、自分の中で期待していること、自分の中にある正しさが正義で、それに応えられないから、罪悪感を抱いてしまう、ということだそうで。

    期待していること、正しさ、ってつまり価値観ですよね。
    その価値観はどうやってできたのか、どうやっても揺るぐことがないのか、立ち止まって考える必要があるように思うんですよね。

    そして気づくんです、価値観なんていつでも変わるんだから、その価値観を変えることに抵抗を持つ必要はないのだ、と。そうなんすよ。自分の殻を破るのって実はそんなに難しくないよな、と最近感じるようになりました。マジ最近。ここ1ヶ月くらい。

    根本的に、自分の行いを肯定することが大切

    ストレートに言うと、自分のことをきちんと愛してあげることが必要なんですって。

    私、自分のことが嫌いって公言するほどに否定的だったのですが、そこを少しずつ意識を変えるようにしました。

    もっと、なんでもっとさ、って思っていた日々。

    自分は自分に対し、随分と高い期待値を持っていたことがあり、それを達成することができなくて、どんどん自分が嫌いになり、そして追い詰めていったことがありました。

    それは、良く考えると誰かに対して自分が達していないから、ということの裏返しだったんですね。

    それは上述した価値観のこと。

    そもそも、罪悪感、という、自分が悪いと思う必要は一切ないんですよね。
    誰に対して悪いのか、全く分からないし。自分に対して、自分が悪い?
    そういう風に思っているから、いつまで経っても自分のことを肯定できず、罪悪感でいっぱいで、前を向くことができない、と。

    良くないですね。良くないんですよ。自分を無条件に愛するだけで、解決するというのに。

  • 幸せの形は人それぞれだろ

    幸せの形は人それぞれだろ

    公私に関わらず自分の思い通りにいかない日々が続くと、
    「なんか全然楽しくないぜ人生」と思ってしまいます。

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    生きているだけで「うまくいってる」

    期待通りの結果が得られない日々を送っていると、生きてる意味ってあるのかな、
    こんな楽しくないことばっかで、、と、だんだん気持ちが沈んでしまいます。

    これをバネに変えられる人間はすごいですね。私には無理だ。

    そう考えてしまい、負のスパイラルで、さらに落下してしまう。

    そんな人間はきっと、自分に対する期待値が高いのだと思います。

    安易に期待値を下げるようでは、成長できないじゃん、と悲観的になるのを
    いったんどこかに放り投げて、まずは、自分が元気になることが必要なのかな。

    自分に対する期待値を下げる。期間限定です。元気になるまで。

    そんな時は、生きられれば成功、それだけで「人生、うまくいってる」という
    スタンスに変えられるのかなと思います。

    Photo by Eternal Happiness on Pexels.com

    自分に対しての戒めとして、この記事を書いている

    ここまで書いていて、私は思いました。
    「はて、これはいったい誰のために書いているのだろう」と。

    これは誰かに投げかける手紙のような存在でありながら、

    実は、

    自分自身へ投げかけているのです。

    私は、周りから言われて気づくのですが、自分に対する期待値が高い人間で、
    いろんなことが一瞬でできるだろお前なら、と自分の実力を無視して
    勝手に期待してしまう人間なんです。

    だから、自分の首を絞めてしまうことになりかねない。

    なので、そうなる前に、定期的にこういうことを振り返って、予防する必要があるのかな、と。