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  • 昔から変わってない

    昔から変わってない

    学級委員に選ばれるような人間だった自分、
    なぜそんな風に見られていたのかと考えてみたのだけれど
    多分、落ち着いて見えるからなのだと思う。

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    落ち着いているのではない。
    自分の中でたくさんの葛藤が生まれていたし、みんなと同じように喜怒哀楽、様々な感情を抱いていた。

    条件反射的に動くことがあまり得意ではなかった当時、それができるような人間、例えば体育がめっちゃ得意な人、給食をめっちゃ早く食べられる人、彼らを羨んでいた。
    それらが、私にはできなかったから。

    そうだ、私にはできないことがたくさんあったんだ。
    できる、できないというのが「人より優れている、優れていない」という観点で見ていたので、自分をだいぶ蔑んで見ていたように思う。人よりできるものなんて、今だってそうだけど、何一つない。
    目立たない私。どこにでもいるような、静かな、人間。

    あ、けど、人の話を聞くという点では、もしかしたら人より優れていたかもしれない。
    当時の、クラスメイトよりも。
    まぁ、人の話を聞いたからって、その人が持つ悩みを解決できたのかというと、そこは疑問ですけどね。そういう問題ではないだろ。

    私が学級委員に選ばれていたのは、その、人の話を聞くという点だったのかもしれない。
    そして私を推してくれた人たちは、私のそういうところを評価していたのかもしれない。

    こういう根本にあるようなものってさ、年月を経ても変わることないよなぁ。
    35年前から何ひとつ変わっていない気がする、私のコアにあるものたちは。

  • 自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    私は、私のことをなんでも知っていると思う。
    そりゃ、もう42年も一緒に暮らしているのだから、私に関するほとんどのことは知っているはずだ。
    例えば、自分がどんなことに喜びや悲しみを感じるか。
    どんな事実に反応するか。もしくは興味がないか。
    それらを記録して統計として残しておくことで、たぶん、「私ってこんな人です」という自己紹介の文章が出来るだろう。

    だけど、本当の自分は、それだけではない。
    他人が私のことをどう見ているか。どう、評価しているかという点、これは実際に、私を知っている知人に対してヒアリングし、具体的な感想を聞くしかないだろう。
    知人は、本当は私のことを良く思っていない部分があるけれど、それを私に伝えることで、私は気分を悪くしてしまい、その知人との縁を遠いものに虐げてしまうことだってありうるから、ともし知人がそこまで気遣いをするような人だとしたら、本当のことは言わないだろう。
    本当は、私のことをめちゃくちゃめんどくさい人だと思っていて、もうほんとは関わりたくないんです、ということを。

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    たぶんそれは、深く考えてもしょうがないこと

    他人からの評価が気になる人は、基本的に考えすぎなのだ。
    上記のように、実際にインタビューしたとしても、自分のことをどう思っているか、知ることはできないのだ。もし知人がとても正直な人で、どんなふうに私を評価しているかを適切な言葉で表現したとしても、その言葉に対する解釈が違う場合、私が正しく理解することだってできないはずなのだから。

    唐揚げだって、嫌う人がいるのに、というツイートを拝見したことがある。唐揚げは大好きだ。日本に住む全員が好きなはずだと信じて止まなかった自分だが、そのツイートを見てからは、100%好かれる人なんていないに決まっている、ということに気づいた。
    私は誰からも好かれようとして生きてきた。おそらく42年過ごしたうちの39年くらいはそんな感じだったと思う。
    今だって、もしかしたらそういうところがあるかもしれない。全部抜けました、とは断言できない自分がいるということは、つまりそういうことだろう。
    嫌われたっていいのだ。どうせ嫌う人はいるのだから。
    大事なのは、そういう人に気遣う時間を作るよりも、自分を良く思ってくれている人に対しての時間を確保することなのだ。

  • 「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    ヘモ、今日はまだ残業してるって言ってたなぁ…アイツ、最近働きすぎじゃないか…

    働けばお金が沢山もらえるかもしれないけど、それって自分の時間を失っているということに気づかないのだろうか…

    お金が沢山あるほうが、幸せなのだろうか

    私が考える幸せは、「自由」だと思う。
    ただし自由を手に入れるには頭を使わなければいけない。

    自由とは、なんでもかんでも自分の好きなことをやってもいい、と思えるかもしれないが、そうではない。
    例えば日本であれば、日本という国の法律に則り、法を犯さない程度で、自由気ままに生きることであろう。
    そのためには、日本の法律を学ばなければいけない。って書くと法学の知識が、、と思うかもしれないがそうではない。
    日本で、法を犯さないで暮らすにはどういうことか、自分で理解しなければいけない。

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    また、人によっては、散財することが自分の幸せとみなす人がいるかもしれない。
    そのためには、自分の物欲を満たすほどのお金が必要である。
    だけどお金は、働いたり、誰かに貢献しなければ手に入らないものである。
    だから、誰か困っている人を見つけ、その人の手助けができるようなことは何だろうか、と頭を使うことが必要だ。場合によっては「事業」と呼ばれる規模で、誰かの手助けをすることになる場合だってあるだろう。

    自分の幸せってなんだろう

    もしかしたら、たくさん仕事をして誰かに喜んでもらうことが、自分の幸せなのかもしれない。そういう人はたくさん仕事をしたら良い。
    たくさん欲しいものを買って暮らすことが幸せと感じるのならば、たくさんお金を用意すれば良い。
    本を読むのが幸せならば、本をたくさん読める環境に身を置くことが幸せにつながる道だろう。

    たまに、なんかいいことないかなー、とぼやく人がいる。
    いつの時代も、一定数いると思う。

    そういう人は、自分の幸せが何なのか、きちんと考えたことがないのかもしれない。
    沢山お金を持つこと。みんなから尊敬される人間になること。誰かに喜ばれること。
    多分これは価値観の話だから、みんなが共通して言える「幸せの形」というのは無いように思う。
    だから私が冒頭に書いた「自由」ということが、イコール幸せと言える人は、もしかしたら少ないかもしれない。だけどこれは私の価値観だから、誰かに「それは違うだろ」と言われたとしても、別に私は変えるつもりはない。
    私の価値観はどうだって良いのだが、私はある程度、幸せの形について自分なりに考えてきた。その結果、自由ということが一つの形だと気づいた。
    多分、真剣に考えないと幸せの形って見えてこないと思う。
    だけど、だからと言ってその、自分の価値観を軽視して一般的に言われるようなお金、名誉、などに引きずられていると、本当の自分の幸せが何なのか、それを逃してしまうような気がする。そしてそれに気づいた時には手遅れで、その幸せを実現する時間が残っていないようなことだって、実際はあり得るように感じる。

  • 我慢していることに気づかない人間

    我慢していることに気づかない人間

    我慢することがデフォルトになっている人がいる。
    そんな人は、「自分、ほんとは我慢してるんすよね」という気持ちにすらならない。
    それがデフォルトだから。

    それがデフォルトでも、ストレスなく生きていける人なら問題ないだろう。
    だけど100%の人がそういうわけではないはずだから、困る。

    デフォルトで我慢していることが自然だから、それが原因で被ったストレスすらもデフォルトとして感じてしまう。
    そしてその状況を打破する必要性を感じない。デフォルトだから。

    私は学級委員をやるタイプだった。
    その時代、私はみんなの模範になることが固定観念としてあった。
    その結果、自分が生きたいように生きることができず、それがストレスになっていたことにも気づいていない時代があった。
    ちびまる子ちゃんの丸尾くんタイプか。
    彼は彼なりにポリシーを持っているように見える。
    が、それによって自分の本当にやりたいことができないと気づいた時、ダメージを受けるだろうか。
    それを「我慢」として考えてしまったら、多分、自分が無理している証拠なのだろう。
    その判断が難しい。

    私は、どうやら無理していたと言うことになるのだろう。
    社会人になり、いくつかの経験を経て気づくことができた。
    きっとそれは幸運なことなのであろう。

  • なんの役にも立っていない

    なんの役にも立っていない

    なるべく客観的に、今自分の置かれている環境を見渡してみて、それに対して今の自分が、その環境に対して何か役に立つようなことを担っているのだろうかと考えた時に、その答えが、何一つとして浮かんでこなかった。

    つまりそれは自分が今、この地球という環境に対してなんの役にも立っていないということを意味する。むしろ空気を吸い何かを食べ、つまり地球のリソースを無駄に消費するだけの生き物ということになるのであろう。

    私はいなくなった方が良いのだろうか。
    生き物は食物連鎖などで、この地球という環境に対して役に立っている。みんなそれぞれ、何らかの役割を担っている。
    それに比べて私は。私は、無駄に、この地球がもたらすリソースを食い荒らすだけの生き物なのではないだろうか。

    ここでもし私がなんらかの宗教に対して敬虔な信者だったとしたら、これを神様に懺悔することで、心が救われるのかもしれない。
    だが、残念ながら私は明確な信心を持っていない。
    だから、そのやり方で救われることは、おそらくないのであろう。

    だけど私は、まだ死ぬわけにはいかない気がしている。
    地球に悪影響を及ぼす存在なのかもしれない。
    上述したように地球がもたらす貴重なリソースを食い荒らすだけの生き物なのだから。
    そんな私でも、生を全うするという役割を担っているのだ。
    それが地球に対してどんな貢献をするのか、全く分かっていない、けれども、生きる。

  • 自由って難しい

    自由って難しい

    自分は自由だ。

    自由ってなんだ。

    自由、っていう文字を何度も繰り返し、その文字自体を凝視していたら、じゆうって読めなくなってきた。

    森博嗣によると、自由は、自分が計画した通り、予定した通りに生きること、だそうだ。

    こんなにシンプルに、自由の意味を定義できるなんて!と、私は彼の才能に嫉妬した。

    自由について少し考えたい。

    生活な自由と聞いて連想するものは、たしかに、自分が思い通りに生きていることにつながる。思い通りというのは言い換えれば計画した通り、予定した通り、になるから、森博嗣の言い方はまさに的を得ているように感じる。

    難しい。
    自分が計画できなくてはいけないし、
    計画を遂行できなくてはいけない。
    計画するためには気力が必要だし、
    遂行するためには気力、体力が必要だからだ。
    つまり自由を得るために、準備が必要なのか。
    自由を得るために、体力作りをしなければいけない場合があるのか。(計画した内容が体力を必要とする場合)

    休日、家でダラダラすることだって自由だ。
    だがこれも同様で、ダラダラするための気力が必要なのだろう。
    私は日々、何か成果を残したいタイプなのでダラダラすることがあまり得意でなく、なので、私にはダラダラするための気力が足りていないのだろう。だから、ダラダラするための気力を準備する必要がある。

    強引な展開だろうか。私には強引に見えない。

  • 日常生活を豊かにすることの意義とか意味とか

    日常生活を豊かにすることの意義とか意味とか

    手の届く範囲には、全力を尽くす。
    これはいろいろな哲学の考え方で、基礎となるものだと思う。
    哲学に正解は無いと思うので、少し濁したけど。

    手の届く範囲は、自分の意思でどうにかなる物事。
    自分の意思、それ自身や、自分が今持つ体力、気力、財力を使って手に入れられる物事。

    手の届かない範囲は、自分の意思ではどうにもならない物事。
    シンプルに言うと、過去と、他人の感情。

    私はこのブログで理想論ばかり語っていて、書いてる途中によく、「とは言うものの現実はね…」と思っている。
    だから、過去についていつまでもグダグダ悩むし、
    あの人、私のこと嫌いなんだろうな、と他人の感情についても、
    同様にいつまでもグダグダ悩んでいる。
    残念なのが、それで良いのかもしれない、と自分を肯定できていないのが、
    また自分らしいな、と思ってあきらめてしまう点だ。

    自分の人生を豊かに彩るために、生きるべきなのは間違いがない。
    それを生きがいにする、という言い方は決して言い過ぎではないだろう。
    だとすると、どうすれば良いのか。

    やっぱり、できる限りで構わないから、手の届かない範囲には極力手を触れないことだ。
    そして、手の届く範囲に、全力を尽くす必要があるのだろう。

    そのためには、日常生活に全力を尽くすということになる。
    自分が機嫌良く暮らせるように、好きなものに囲まれるようにするべきだし、
    邪魔だと思うものは目に触れないようにすべきだ。

    自分の体調があるから、そうすることで疲れてしまうのであれば、
    まずは体力回復に努めるべきで、ゆっくりと、自分の機嫌が良くなるような環境を作り上げていくこと、
    そしてそれを続け、生きがいだと言えれば、
    私は、胸を張って生を全うしているんだ!と言えるだろうと信じてやまない。

  • 人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    自戒を込めて。

    ここ半年くらいで、だいぶ気持ちを切り替えてきているのだけれど、私はすぐ他人と自分を比べてしまうところがあって、自分はダメだと思うこともあれば、逆に、あいつはダメだと思うことがあったりもする。
    他人と自分を比べることで、相対的に自分が劣っているとか、優れているとか、そんなことを考えてしまうのはもしかしたら人間の性なのかもしれない。
    人間というか、生き物の性だったりするのかな。

    けどそれって人の生き方として正しいものではなくて、その先には自分が破滅する世界しか残っていないのだから、まず、人と比べるのをやめましょう、という教えに則り、その辺の考え方を改めるようにした。
    そしてその辺はだいぶ改まったような感覚がしていて、個人的にこの取り組みは非常に納得のできるものだったと思っている。

    と、思っていたのだけど、
    実は全然そんなことなかった。

    というのも、私は、他人が、当時の私と同じように、他人と比べているのを見ていると、まだそんなことを思いながら生きているのか、それはだいぶもったいない、と思うようになっていた。
    それはある意味では、私とその人を比べていることになる訳で、結局、私は堂々巡りしていて、自分と他人を比べることから抜け出せていなかったのだ。

    それに気づいた時、私は、このループから抜け出すことができないのだと痛感し、割とリアルに死にたくなった。
    抜け出したかったのだ、この、人と比べてしまうという愚かな思考から。

    この辺りは本当に最近気づいたことで、だから、まだ、現在進行形で、死にたいと思っている。
    楽になりたいから。

    だけど人間は、生き物は生にしがみつかないといけない。
    自然に死ぬまで生き続けないといけない。
    そんな罰を背負っているのだから、ここで投げ出して死を選ぶ訳にはいかないのだ。

    だったらどうするか。

    もっと、より良い人生を送ることができるよう、考え方を変えるのしかないのだろう。
    全く分からない。方向性が見えない。

    けど、それでも、生きていくという姿勢を貫かなければならないのであれば、
    いっそのこと、その、他人と比べてしまう自分をどこかに打ち捨てておいて、
    その抜け殻には目もくれずに前を向いて生きていった方が、

    人間の姿勢として正しい方向に向かっているのではないのだろうか。

    その抜け殻は、思い出した時に、拾いに行こう。

  • 可能性の話

    可能性の話

    不惑というのは40歳のことを指す。
    これは自分の可能性についてどのように捉えるかという点において、そういう年なのかな、とふと考えた。

    自分の将来について、可能性は無限大で、極端なことを言うと死ぬ直前まで自分の将来というものの可能性は無限大に広がっていると考えることもできるのだろう。
    私は自分が今持っているリソース、例えば身体能力、思考力、財産、家族、といったものの枠を超えて広げて考えるほどの突飛な可能性を考えないタイプなので、多分そんなに大それたことを考えることはできないだろう。

    これは見方を考えると、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
    自分が持っている、制限と言い換えることもできるだろうこれらのリソースを元に、自分の将来を考える。ある種真っ当なことのように思えるが、例えば今、私が「国会議員になり、その先に総理大臣、そしてその暁にはこの日本を明るい国にしたい」のようなことを考えなくなってしまう。

    別に私が大志を抱き、国会議員を目指そうとしても良いのだろうけど。

    話を戻す。40歳が不惑と言われる所以。
    多分、そこには、私が上述したようなリソースが固まってくる頃なのだろう。
    仕事に就く、家族と生活を営む、この辺りの観念が定まることによって、将来の方向性が狭まってくる頃。
    人生は細かな選択というのだろうけど、私はその都度で自分の最善と思える選択をしてきて、今の自分が出来上がっている。
    だから今の自分がこうなっているということに対して後悔をするのは違う。その都度で選択をしてきた自分を否定することになるからだ。

    今の自分自身、そして自分を取り巻く生活の色々な部分を考えると不満があるかもしれない。けど、過去の自分が選択してきた結果こうなっているのであって、それによって将来の選択肢が狭まってきたとしても、それはそれとして納得して、その狭まった選択肢の中で自分が機嫌良く生きていくためにはどうしたら良いか、それについて真剣に考えれば、良いだけなのだろうか。

  • 楽しい思い出

    楽しい思い出

    良かった。アルパカは気軽にがぶがぶ飲めるのが良い。