6月29日 解釈について

ニーチェは、物事の解釈についていくつか言葉を残している。

物事はいかようにも解釈できる。
良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。良いとするのも悪いとするのも、役立つとか役立たないとか、素晴らしいとか醜悪だとか、いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。
しかし、どう解釈しようとも、そのときからその解釈の中に自分を差し込むことになるのを知っておこう。つまり、解釈にとらわれ、その解釈ができるような視点からのみ物事を見てしまうようになるのだ。
つまり、解釈や、そこから生まれる価値判断が自分をきつく縛るというわけだ。しかし、解釈せずには物事の始末がつけられない。ここに、人生を読み解いていくことのジレンマがある。

ニーチェ たわむれ、たばかり、意趣ばらし

どういうことだろう。
私は今、44歳になるけれど、44歳の目線でしか解釈ができないということだろうか。
確かに今からでは20代の気持ちを持ち、彼らの目線で解釈することはできない。
例えば新宿の歌舞伎町は今治安があまり良くないと言われている。
私としては、けしからん、彼らの両親はそのことをどう思ってるんだ、と思ってしまうけれど、「歌舞伎町は治安が悪い」というのは私の目線、参考にしているのはテレビのニュースだったりするけれど、その目線でしか物を語ることができない。
実際に歌舞伎町に行ってみると治安が悪いというほどではないかもしれない。(治安の良し悪しについてもある程度の解釈が含まれるから、歩きタバコをしている人がいる!=治安が悪い!と思う人もいるかもしれない。正直なところ私は歩きタバコくらいは、いいんじゃないの、と思ったりしてしまう)

ニーチェは、そこにジレンマがあると言う。
私の解釈は、私の目線からでしか解釈できない。毎日のように歌舞伎町で飲み歩くような人生を送っていたら、違う解釈になるだろう。
今の私の境遇だと、外野からニュースを見てる程度の知識量で歌舞伎町の治安を語るようなレベルだろうから、その程度の目線でしか解釈ができないということだ。

喧嘩両成敗、という言葉がある。
ある人から、例えば仕事の同僚からある人の愚痴を聞かされたとしよう。
私はそう言う時、その人の話をよく聞いてしまい、その人の肩を持つようになるのだけれど、もしかすると愚痴の対象となっている人からの声を聞いてみないと、きちんと成敗することはできない。
それも解釈の一つで、その諍いを公平な目で見るならば、両方から聞いてから成敗するのが適当なやり方だと思う。
両方聞いてみると、最初に愚痴を聞いていた方が悪い、みたいなことだってたくさんあり得るだろうから。

なるべく公平な目で、物事を見て解釈していきたいと思う。
地球のどこかで今も起こっている諍いが、それぞれの頭で考えた解釈をベースに行なわれているはずで、蓋を開けてみたら、まぁ、お互いに悪いところあったよね、みたいなことだってあるんじゃないかなぁ。そんな簡単な話でないことはわかっているけれど。