タグ: 価値観

  • 7月9日 完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊

    7月9日 完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊

    木曜日、金曜日と飲み会が続き、家に着いたのはいずれも0時を回っていた。
    そんな暴飲暴食の2日を経て、この土日は気持ちと身体を休める休息日とした。
    飲み会は嫌いではないんだけれど、やっぱりどうしたって気を遣ってしまって、途中からは酒を飲んでいるのか、それとも酒や空気に飲まれているのかわからない状態になってしまう。そしてぐったりする。
    疲れ切った時は、本当に誰とも話したくない、そんな気分になったりもする。
    家族ですら最低限の会話。生きるためには会話、そしてそういう社会生活を営むことが必要だよね、という程度の会話。
    そんなこんなを繰り返して、ようやく日曜日の夜を迎えることができた。
    多分、この状態であれば明日会社に行けるだろう。果報は寝て待て、という言葉もあるけれど、期待をせずに明日を迎えたいと思う。

    そして飲み会でも良く聞くフレーズなんだけど、「あの頃はよかった」と振り返り、そのころを思ってお酒を飲む、みたいなやつ。
    あれって願望なんだろうか。
    今の現実を否定することになると思うんだよね。
    自分は、自分の味方であるべき、とこの間読んだ本から学んだんだけど、であれば、あの頃から変わってしまった自分だけど、そこがまた可愛いんだよね、と自分を肯定してあげる必要があるのではないだろうか。
    私もそうだけどね。高校の時とか、大学の時とか、戻れるなら戻って、バンドやったりバイク乗ったりしたいよなぁ、とか考えちゃうけどね。
    過去の、どっかのタイミングで生きていた自分が、今の自分が考える「完璧な自分」なんだとしたら、どうだろう。
    その頃の自分に嫉妬し、今の自分を嫌いになってしまうのだろうかね。
    今の自分、そんなにイケてないか。
    過去と他人は変えられないけれど、未来だったら変えられるんだよね。
    未来を、その「完璧な自分」を超えるくらい、素晴らしい自分像を作り上げることができたら、もっと最高なんだろうな。
    完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊だよな。
    もしかすると、今を精一杯生きている自分も、十分に完璧な自分ということができたり、しちゃったりしないだろうかね。

  • 6月20日 開き直り、空元気みたいなもの

    6月20日 開き直り、空元気みたいなもの

    天気は今日も軽やかに快晴。
    梅雨の合間の晴れ間って何回書いただろう。

    自分はこうありたい、と考えてみて、それに近づくための努力をする。
    人間は成長する生き物だから、それは自然なことのように思う。
    だけどその目標みたいなものを見失ってしまうと、もしくは、自分の体調的にそこへ辿り着くための道から少し外れなければいけないと考えた時、人間はどうするのだろう。
    多分、停滞する。
    一休みして、また、その道に戻れば良いだろうと考えるはずなんだけど、その道に戻るためのやり方、方法が分からなくなったとしたら。
    仮定ばかりの話をしているけれど、明日は我が身、もしくは現在の自分が、そんな状態に陥っていることだってあるはずだ。

    自分が今、どんな状態なのかすら分からなくなってくると、いよいよ大変。
    周りは日々成長しようとして努力しているのが見えるし、自分はなぜ、と焦ってしまうだろう。
    焦ることでまたエンジンをかけることができれば良いのだ。
    けれど、人間の気力って、不思議なんだけどそういう時に鍵ってエンジンをかけるための鍵が見つからなかったりする。
    自分だけ成長できていないのではないか、と日々自問自答し続け、やがて、焦りから体力までも消耗し、再び立ち上がるまでに長い時間を要することだってある。

    そうなりたくないな、と思っても、勝手にそうなってしまうことだってあるのだ。
    そんな人生。ハードモードすぎるわ。

    もしかすると、そういう時には開き直り、空元気みたいなものが必要なのかもしれない。
    自分を鼓舞する、と書くと言い過ぎかもしれないが、まずは自分を愛することから始め、自分の今置かれている状況をなるべく俯瞰して見えるようにし、また、体力と気力が戻ってきてエンジンをかけられるようになるまで、温存するべきだろう。
    その期間だって無駄じゃないはず。その時にしか見えない景色があるはずだから。鳥の囀り。季節の移り変わり。周りには味方ばかりだ。

  • 6月16日 嫌だったけれど、得たものはあった

    6月16日 嫌だったけれど、得たものはあった

    今日は暑かった。
    数日ぶりの出社だったけれど、会社までの道が暑かった。
    梅雨の中休みとでもいうべきか。

    今日は、自分で動かせるものの限界について考えていた。
    自分で動かせるものって案外少なくて、世の中のほとんどのことは自分では動かせないものということになる。
    それだけではない。
    自分の過去も、それがあった事実というものは動かせないのだ。
    だけど、解釈は違う。
    自分が過ごしてきた過去は、そのこと自体は動かせないけれど、それに起因する自分の解釈は、言い換えると考え方みたいなものは、変えることができる。
    いやだった過去の出来事は、もしかするとこの先、どっかで、嫌だったけれど、得たものはあった、と考えることだってできるのではないだろうか。

    それを日々、暮らしていく中で、鍛錬しているのかもしれない。
    過去と現在、未来は一本の線で結ばれているのかもしれないけれど、そこから生まれる自分の解釈は、改めることができるかもしれないのだ。
    だけどそれもいいことばかりではなくて、過去、良かった思い出が、悪かった思い出に変わることだってあるのだろう。
    だけど、それが自分の糧になるのであれば、ながーい目で見ると、良いことになるのかもしれない。それも解釈。

  • 6月15日 それが欲しい、という

    6月15日 それが欲しい、という

    久しぶりにJavaの勉強に手を出している。
    久しぶり、というのは数日ぶりくらいの間隔、感覚で、私みたいにおじさんになってからは記憶することの劣化が激しいから、こういうのはこまめにやっていかないとすぐに忘れてしまう。

    何かを作りたいと思っているわけではないのだから、そういう点でモチベーションになりづらい。
    強いて言えば、仕事で使うことがありそう、という点だけで、果たしてそれが強いモチベーションになるかというと、そこまでではない。現状、できていなくても仕事は回せているのだから。

    だけど、私の心のどっかにエンジニア志向のようなものがあり、プログラムをかける人ってカッコ良い、みたいなところがあるのは確かだ。
    今、机の隣にある本棚にはJava入門と、Python入門が鎮座している。

    人は、何かに強く興味を持つと、「ただそれを深く知りたい」というのがシンプルにモチベーションとなり、それこそ寝る間を惜しんで学習したりする。
    時には寝食を忘れるほどで、それが良いことなのか悪いことなのか私には分からないけれど、少なくとも「昨日の自分より成長している」という点では、良いことのように思う。健康を損なわない程度であれば。
    私にはそんな機会、しばらく訪れていないのではないだろうか。
    別にそれが欲しい、というわけではないが、それほどの情熱を注げるような物事にここ数年、出会っていないかもしれない。
    それにはなにか理由があるように感じる。
    学習であれば、自分の時間を優先するという点で、家族と過ごす時間が減るというデメリットがある。まずそこが頭に浮かんだ。
    家族と過ごす時間はもちろん優先されるべき事項だ。それは私の価値観になっているから。
    つまりそれに勝るような物事に、出会っていないというべきか。
    いや、待て、去年までハマって行ってたソロキャンはそれに該当するだろう。家族と過ごす時間を割いてまでも、行ってたのだから。抗うつ剤を飲むようになってから、なぜかそちらに気持ちが向かなくなってしまい、行っていないのだけれど。
    または、ランニングとか。これも自分一人で過ごす時間である。

    こうして考えてみると、家族との時間を割いてまでやりたいようなことがあまりないんだなー、と思う。良いことなのか、悪いことなのかは分からないけれど。
    そこまで情熱を注げることのできるような、Javaを使ったプログラムがあると良いのだけれど。

    あとは小説とかね。最近書いてないなぁ。ここで日記を書いているせいか、アウトプットするカロリーがここで使い果たされている気がするんだよなぁ。

  • 6月6日 自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと

    6月6日 自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと

    あの頃の自分に戻れたら、と自分のふっくらしたお腹を見て思う。
    あの頃、今から10kgぐらい痩せていた頃の体型が、とても大好きだった。

    過去の、自分がかつて歩んできた道の頃を考えてみることは、自分を前進させているのだろうか。
    もしかすると、今の自分という存在を否定しているのではないか、と。

    違うのだ。
    今の私は未来に向かんで少しずつ歩んでいるのであって、過去の自分に戻りたいわけではない。
    たまたま、私の歩んできた道のなかで、「あの頃は良かったな」と思える瞬間を思い浮かべているだけなのだから。

    もしかするとそれは、恵まれていることなのかもしれない。
    自分の思い描く理想を、自分が歩んできた道の瞬間に出会っていたのだから。
    だとすると、今の自分をまず肯定してあげて、あの頃生きていた自分を思い描き、それに向かって進むだけなんだろうな。

    未来って難しい。難しいけれど、未来は359°の可能性に満ちているから、自分の歩む先を、自分の理想とする方向へと足を向けるだけなんだよな。
    もしかすると、私の選択は、未来の方向性を340°狭めてしまうかもしれない。だけど、残り19°あるんだから、そこからまた自分の思い描く方向へと、足を向ければ良いのだろう。

  • 6月1日 ここに書く日記と、ほぼ日手帳に書く日記

    6月1日 ここに書く日記と、ほぼ日手帳に書く日記

    3月21日から始めた、この毎日なにかしらブログを書くということで、「今日なに書こうかなぁ」と考える時間が増えた。
    ネタに困る、とシンプルに言うとそういうことも少なくはなく、だけど、日々気になったものや、新たに始めてみようと思うようなことをここに書き留めることで、自分の考えを俯瞰できるような気がしている。
    過去に書いた日記を振り返ることは、ほとんどしない。
    正直に言うと、昨日書いた日記すら、なにを書いたか覚えていない。
    せっかく書いたんだから、と思う一方で、どうせ死ぬまでの暇つぶしで、1日に数万回くらいの発想を無意識に行なっている中で、それが記憶に残る程度まで強かったものだとしても、それがどうした、と考えてしまう。
    私としては後者の方が思いとしては強く、ほぼ日手帳にも同じように日記を書いている中で、そちらも気が向いた時くらいしか振り返ったりはしない。
    最近投資を新たに始めたので、時系列で追うことで何かが見えてくるかもしれないが、それをやる労力と効果を比較した時に、メリットが感じられないので、まぁいいかと思ったり。

    ここで書く日記と、ほぼ日手帳に書く日記、なにが違うのだろう。
    一番最初に思いつくのは、他人が見るかどうか。ここは誰かしら見る場合があるので、書いてることの支離滅裂さはある程度制限させ、私としてはきちんとした文章を書こうと心がけている。
    一方でほぼ日手帳のほうは、完全に殴り書き。誰も見ないし。たまーに、書いたところを写真で撮影してツイッターとかにアップロードすることもあるけれど、自分の書く字の輪郭など含めてプライベートに踏み込み過ぎていると考えており、あまり載せるようなことはしていない。
    どちらかに寄せても良いのかもしれない、と考えることがある。
    今のところはどっちも共存させていくつもりで、その分2倍の労力がかかるのだけれど、思考を外向けと内向けで使い分けることで、お互いの良い面を生かしながら自分の文章を書く力に役立てていけたら嬉しい。

    いや、これは自分の文章を書く力として役立っているのだろうか。
    このブログだって思いついたことをさらさらと書くだけで、自分のスキルとして身についているのか、甚だ疑問だ。
    自分のスキルを測るのって難しいけどね。続けることで、自然と身についていくものなのかもしれないけども。

  • 5月31日 気に病んでしまうかもしれないリスト

    5月31日 気に病んでしまうかもしれないリスト

    あっという間に5月も終わり!
    12分の5が終わった。早いなー2023年。早いなー人生。

    先日同僚と、人生でやり残したことがあるか、みたいな話をした。
    私の中で、これもう何度も書いてることだけど、やり残したことってあんまないんだよなーという気分でいる。良くも悪くも。
    ポジティブに捉えるならば、自分のやりたいことが全部できているということになるから、それは自分の人生を謳歌してますよ、って話なんだろうな。

    そこに至るには、家族がいたり、お金がそこそこあったり、家があったりと細かな条件が積み重なっているんだと思う。
    人生って揺れ動くものだから、それらが全部私の手元からなくなってしまうことだって、もしかしたらあるのかもしれない。
    それはそれとして、「それも人生だから」で片付けるほど器の大きな人だったら良いのかもしれないけれど、実際のところ、私は気に病んでしまうかもしれない。
    気に病んでしまうかもしれないリストがあると良いのだろう。
    それらは、自分の手から無くならないように、それぞれの重要度や優先度を決めて暮らしていくべきなのかなぁ。
    だけどそういう水準すら、ずーっと固定なのではなく、揺れ動くものなはず。そう考えると、自分の中の価値観を俯瞰して見れるような考え方になっておくと良いのかもしれないなぁ。

    私の中では、家族、お金、家、という順番なのだろうかね。
    上述した時に、パッと思いつく順番で書いてはみたものの、それぞれの順番とかはきちんと吟味する必要があるのだろう。

  • 5月27日 友達と呼べる仲間について

    5月27日 友達と呼べる仲間について

    先日、ちょっと思うところがあり大学時代の友人たちで作っているグループLINEにメッセージを投げた。
    そこは6人くらいの小さなグループで、大学時代に私の友達となってくれたメンバーの集まりである。
    かるーくメッセージを投げても、当時の思い出や、いろんな経験が蘇ってくるのがありありと伝わってくる。
    カラオケ後のラーメンで、ひとしきり盛り上がったのも、当時を知っているメンバーだからこそ、なのだなと感じる。

    友達100人できるかな、っていう歌があって、小学校に入る前に覚えたような記憶があるけれど、私の人生で、友達だ!と胸を張っていえるような人って、大体15人くらいだな、と思ったりする。
    友達100人なんて超難しくて、だいたい100人もいたら、名前を覚えるのだって大変なことだろう。

    友達って、人数ではなく、それぞれの人間関係に生まれる、質の方が重要だと思う。
    無理やり100人の友達を作ったとしても、それぞれが薄っぺらい関係だとしたら、それが友達と呼べるだろうか。
    友達の定義によるから、一概に私が決めつけるべきものではないと分かっているけれど、薄っぺらい関係性だとしたら、私の中では、それは友達とは呼べないのではないだろうか、と思ってしまう。

    そんな感じで、これは一つの価値観に基づく話だから、私がここで断定できるものではないのだけれど、友達って多けりゃいいってものでもないよなぁ。

  • 5月17日 昔話に花を咲かせすぎて

    5月17日 昔話に花を咲かせすぎて

    昨夜は、私が前に在籍していた会社の元同僚たちと数年ぶりに会い、だいぶ飲みすぎてしまった。
    タバコも吸いまくったので、喉が痛い気がする。
    今朝方すこし二日酔いっぽかったけど、お昼にサバ味噌の缶詰をおかずにご飯を食べ、ようやくいつもの感覚になってきた。
    二日酔いって、宿酔いって書き方をするんだよなー昔の本だと。うまい字を充てるなぁと感心したことがあった。
    私がそれを知ったのは、太宰治の人間失格、だったかなぁ。芥川龍之介の何か、だったかもしれない。忘れてしまった。

    昔のメンバーと、昔話をするのって楽しい。
    皆、それぞれの現在地点は別々だけど、当時を振り返って色々な思い出話をするのは、なんて楽しいんだろう。
    生きてるって感覚。私がその道を辿ってきたからこそ、こうやって人生のご褒美みたいな楽しみが生まれるんだから。
    最近は心療内科に通っていて、太ってきた点と、走る方に気力が向かないと言ったら、みんな驚いていた。
    あと、その会社に残っているメンバーから、会社に戻ってきてほしいと言われた。嬉しかった。
    私を必要としてくれているというのが、話の端々から、ひしひしと伝わってきていた。ごめん、戻らないけどね。とは言わなかった、言えなかった。
    いつか戻っても良いとは思っている。そういう心理的安全があるのって、安心する。

    私が、今の会社に留まっている理由ってなんだろう。
    給料。人間。やってる内容。
    「給料」が一番最初に思い浮かぶのって、なんかそういう人間なんだなぁって思ってしまう。
    一番大事でしょ、と思うけど。
    私は、情熱だとか、絆みたいなものにはあんま惹かれないんだよなぁ。ドライというべきか。
    あ、けど今の会社で私のロールモデルになってる人がいて、その人がいるからこの会社にいる、っていうこともある。こういう人間のつながりって大切な気がする一方で、だけど一番大事なのはそこじゃな、というダブスタっぷり。人間だもの、どっちも大切だって思ったっていいじゃない。
    そういう人が、私が前いた会社にもいたら良いのかもしれない。今の段階では、その会社の中に、そういう人は見つからなさそうな気がしている。

  • 5月11日 心療内科の先生に相談する内容とは

    5月11日 心療内科の先生に相談する内容とは

    心療内科って書こうとしたら、間違えて新緑、となってしまい、そうじゃん、新緑の綺麗な季節になってきたな、と思い返した。
    昨日と今日、家から一歩も出ていない。緑が遠い。
    ベランダで飼っている観葉植物を眺めながら、彼らが自らの腕のように延ばし始めた枝、そこから生えた葉が多くなってきたなぁと感じる。
    そんなふうに、ぼんやりしていたらどんどん暑くなって、知らず知らずのうちに夏を迎えるのだろうか。
    すでに43回分の夏を経験している身としては、44回目を迎えたとしても、今までと大差ない夏がきたな、と感じるんだろうなぁ。

    今日は心療内科へ通院する日。
    何を喋ろう、と思うと、少しだけ緊張する。
    緊張する心療内科ってどうなんだろう。良いのか、悪いのか。
    私の通う心療内科は、「誰でも気軽に来てくださいね」みたいな雰囲気で迎えてくれるのだが、私を診てくれる先生はやや口が重く、私からいつも喋り出すことになっている。
    他を知らないので、それが普通と考えてしまっている。もしかするともっと違う、私に合うような先生がいるかもしれないけれど。

    けれど、今になって病院を替えるというのは、サンクコスト的な考えもあり、腰がだいぶ思い。
    自分に合う/合わないってのがあるから、いろいろ見た方が良いよ、というアドバイスは今まで何人かからいただいたのだけれど、結局実行には移せていない。
    移せていない、というか、違う、今の自分としてはそこで満足している、のかもしれないから、新たなところを開拓する気がない、というのが正しい、

    ような気がしている、けれど、

    いつまでこの薬を飲み続けるんだろう、という思いがある。
    その前に、私がどういう状態になったら、この薬をやめられるのだろうか。
    元気になったら?と考えてはみるけれど、それじゃ今の私は元気じゃないのか、という問いが自然に浮かぶ。
    元気な時は元気だけれど、そうじゃない時だってあるさ、だけどそれって人間だもの、抗うつ剤を飲んでないような人だって同じようなことあるでしょ。
    分からない。
    極論を言うと、先生に決めてもらいたいと思ったりしている。
    私自身じゃ、分からないから。
    どの状態になったら薬をやめる、通院をやめることができるのか、分からないから。
    試しに、薬を飲まないで生活してみる?みたいなことも考えた。
    けれど、それで失敗して不幸のどん底みたいなマインドになってしまったら嫌なので、まだ実行に移したことはない。
    こういうことを、先生に相談してみても良いのだろうか。
    他の患者さんは、どんなことを先生に相談しているのだろうか。ちょっと気になる。