6月16日 嫌だったけれど、得たものはあった

今日は暑かった。
数日ぶりの出社だったけれど、会社までの道が暑かった。
梅雨の中休みとでもいうべきか。

今日は、自分で動かせるものの限界について考えていた。
自分で動かせるものって案外少なくて、世の中のほとんどのことは自分では動かせないものということになる。
それだけではない。
自分の過去も、それがあった事実というものは動かせないのだ。
だけど、解釈は違う。
自分が過ごしてきた過去は、そのこと自体は動かせないけれど、それに起因する自分の解釈は、言い換えると考え方みたいなものは、変えることができる。
いやだった過去の出来事は、もしかするとこの先、どっかで、嫌だったけれど、得たものはあった、と考えることだってできるのではないだろうか。

それを日々、暮らしていく中で、鍛錬しているのかもしれない。
過去と現在、未来は一本の線で結ばれているのかもしれないけれど、そこから生まれる自分の解釈は、改めることができるかもしれないのだ。
だけどそれもいいことばかりではなくて、過去、良かった思い出が、悪かった思い出に変わることだってあるのだろう。
だけど、それが自分の糧になるのであれば、ながーい目で見ると、良いことになるのかもしれない。それも解釈。