タグ: 価値観

  • 5月8日 自分の時間を使うこと

    5月8日 自分の時間を使うこと

    Javaをつかったテスト駆動開発やら、TOEICのスコアアップに向けた学習などに取り組んでいるけれど、そもそも空いた時間にトライしようとしている時点で、先が不透明なのではないかと考えるようになった。

    もしかするとそれは、伸び悩む自分に対して怯えているからかもしれないけれど。
    どちらも、自分が成長したいという意思に基づいて始めたはずなのに、それが自分の首をやんわりと締めているような感覚を持ち始めていたりもする。

    学習=つらい、という感覚を取り払うべきなのではないだろうか。
    前者の、Javaについてはむしろ遊びといえる要素が詰まっているから、Javaを覚えるという側面では学習と捉えられるのだけれど、その先にあるクリエイティブな部分については、学習?とはてなマークをつけたくなってしまう要素だ。
    JavaもTOEICも自分を成長させるための貴重なツールだし、それらを身につけた後のことを考えれば、それが自然とモチベーションになったりするだろう。

    あとは、取り組むための時間をきちんと割くことか。考えるべきは。
    いずれも業務時間中にやれるようなものではない(前者は、大枠としては可能かもしれないけれど)。
    となると、仕事を終えた後に取り組むことが多くなる。
    となると、家族と過ごす時間を割く必要が出てくる。
    別に、家族としては私が仕事をしてるのか、それらの勉強をしてるのかは分からない(と思う)から、仕事をしてます、って体で時間を使えば良いんだろうけど。
    なにをウダウダ悩んでいるのだろうか。
    こうやって、ウダウダ悩むのがホントに好きだなー、自分は、と私の後ろにいる私が考えている。

    毎日ブログを更新しているけれど、書くことがないから上記のような内容になっただけじゃん。
    戯言を書いて終わった。

  • 4月14日 自分探しの旅2023

    4月14日 自分探しの旅2023

    自由が幸せとは限らない

    スナフキンの名言

    多少の制約があったほうが、人生にハリが出てくるのだろうか。
    制約があるからこそ、その中での自由を噛み締めることができるような。

    昔、奴隷だった哲学者が、主人よりも奴隷の方が自由だ、みたいなことを言ったそうだ。
    理由は、依存度の違い。
    主人は奴隷に依存してて、奴隷がいなければその生活がままならない。

    現代では奴隷と思えるようなものは見当たらないけど、
    社長に対しての社員とか、見方によっては奴隷と考えられるかもしれない。
    奴隷というより、使用人みたいなイメージかな。

    そして一般社員で働く私の立場でちょっと考えてみる。
    すると、お金の奴隷になっているようなことを思いつく。
    お金のために働く。
    お金を、使うために働く。
    お金は、いくらあっても満足することはない。
    お金に、依存している、という考え方。

    お金に縛られない生き方。
    どっかの誰かが、年収130万円で豊かに暮らす、みたいなブログを書いているのを目にしたことがある。
    年収130万円というと、月10万円ちょっと。
    ほとんどは食費に消えてしまうかなー、とちょっと考えたりする。
    たまに、美味しいご飯を食べたくなっちゃったとしても、それを外食で済ませるのはちょっと難しいから、自分でなんとかしようとしたりする。
    いつ、どんな時でも外食ができる人が羨ましいか。
    それとも、自分の力でなんとかしようとして、スーパーで食材を買ってきて自分なりに作ってみて、それを食べる方が羨ましいか。

    私はここで、後者の方が良いだろうと推測しながら文章を書いてきたけど、いや、それは価値観に依存するから、どちらが正しい、どちらが幸せだとかは言えないよなぁ。
    楽に、お金を払って誰かが作ったものを食べ、舌鼓を打つ。
    もしくは、自分なりに料理して、苦心したものを食べ、舌鼓を打つ。
    結果を重んじるか、プロセスを重んじるか。
    私は、後者の方が私の価値観に合っているような気がする。

    こうやって、自分探しの旅をし続けていくんだと思う、人間は。
    経験を元に、自分の価値観を見つけ出すような旅を。

  • 3月24日

    3月24日

    晴れと雨、どちらも愛すことが、真理。

    少年は、晴れだけが好きだと言った。
    そんな彼は外で遊ぶのが好きで、雨だと遊べないからだと言う。

    確かに雨だと洋服は濡れるし、行動が限られてしまう。

    だけど考えてみよう。雨の後に訪れる晴れ間のことを。
    それは雨が降るからこそ、そのありがたみが分かるのだから。
    または、雨音のことを。
    あの独特な、パラパラという音は心を癒してくれるではないか。
    多分、むかーしむかし、洞窟の中に住んでいた頃、
    雨宿りをしている中で、ぼんやりと外を見ていた時の自分は、
    早くやまないかなぁと思う一方で、なんとなく心を落ち着かせていただろう。
    そうやって、人間は生きてきたじゃないか。

    別に晴れだけが好きっていうのも一つの価値観だからね
    それを否定するつもりは毛頭ないんだけどさ、
    もうちょい違う視点で見てみると、雨も悪くないなぁって思ったりするんじゃないかなぁ。

  • 2023年のほぼ日手帳、カズンという選択肢

    私は2011年からほぼ日手帳のオリジナルサイズを使っており(2021年、2022年はday free)、つまりカズンとはまだきちんと付き合ったことがないと言う状態。

    オリジナルはA6、カズンはその倍となるA5サイズである。

    今イマ、私がどんな風に使っているかというとその日の予定、ないしその日に抱いた思い、気になったものをイラストで描くといった程度である。つまり落書き。
    そう、落書き帳なんです私の場合。

    正直見せるような
    レベルではないです…

    これでA5にすると、落書きの量が増えると言うことになるのであろう。
    今イマはお仕事をおやすみしている状態なので、こうして手帳に向き合う時間、もっと言うときちんと色鉛筆を使って色を塗るようなことはできたのだけど、来月から仕事に復帰するのでそうなった時にA5サイズを落書きで埋め尽くすことができるかどうか、甚だ疑問。

    てか無理だろ、普通に考えて。

    つっても1日で10分とか15分くらいなんですけどね。それくらいの時間を捻出することすら難しいとすると、それは逆にそれすらも作れないと言うとそれはむしろ私の時間をどうやって使っているのかが気になりますね。

    そういう観点で見てみると、これは逆にカズン、つまりA5の、day free ではなくてちゃんと日付が載ったものを買うことで、「自分に向き合う時間を作る」という新たなタスクを生み出すことにも繋がるのではないかな。自問自答。
    真っ白いページがあっても、それはそれで良いのですが、その日を生きた証になると言う点で、今の私にはむしろカズンくらいのボリュームがあっても良いのかもしれない、と思い至りました。

    うーん。

    スペースが空いたらマステをペタペタ貼っちゃっても良いしな笑

  • 5月11日

    仕事ってほんと毒だよなぁ。今日もあっという間に11時間を浪費してしまった。
    生活を人質にして、それを守るために、11時間を使う。
    「俺には守るべき家族がいるからさ」ということすらも、もしかしたら私の偏見なのでは、とか思ったりするね。だって本当は守る必要がないのかもしれないから。

    いや、違うな、守るべき、っていうのは間違っていないんだよきっと。
    愛する人間たちを、蔑ろにするつもりは毛頭ないのだから。
    ということを考えると、蔑ろにしているのは自己ということになるのだろうかね。

    うーん。

    そう考えると、自分が本当にやるべきこと、考えるべきことに対してきちんと時間を使えていないということになるのかなぁ。
    仕事という、いわば暇つぶしに時間を浪費して、自分の、うーん、言い方が適切か分からないけれど自己実現に近づくための活動については全く触れていないってことになるんでしょ。
    仕事に没頭され、終わる頃には疲労で考えることなんかできない状態、あとはお酒を飲んで気を紛らわせて終わり、という感じ。
    その繰り返し。

    それが悪いのか。
    分からんね。
    自分の成長と、家族の安寧を天秤にかけるってことでしょ。
    そんなん、決めらんねーわ、っての。

  • 4月30日

    自分が信じるべきは自分だけで、それは自分の感覚を大切にしろ、ということなのだと思うど、けど実際は自分の持つ五感すらも怪しいことがあるから、となると何を信じれば良いのだろう。

    自分の五感が怪しいというのは、例えば大好きなご飯の匂いも、食欲がない時はそんな風に感じられなくなったりとか。
    自分の見える色が、他人には全く同じではない、とか。

    そして体調によって意識の持ち方も変わったりする、体調が悪い時はだいたいのことに対して保守的、ネガティブになったりするから、そうなると意識すらも、生きている間ずっと同じようなレベル、考え方で持つことができない、とかあるでしょ。

    自分の過ごす経験によって、言い方を変えると歳を取っていくことによっていろいろ経験が積まれていくから、それで見えてくる景色が変わったりするとか。
    若い時ってどうしても他人を許せなくなっちゃったりするような気がするんだよな。
    自分の思い通りにならないから。自分の思い通りにならない!と言って怒るのは、大人になってないから。大人と言えるほどの、経験をしていないから。

    これはつまり、経験至上主義ということになるのだろうか。

    旅をして見聞を広めることが、自分の成長につながるみたいな考え方って、そういうことなのかもなぁ。
    もしくは本か。本を読むと他人の経験談(小説含む)が見えるから、それで考え方が変わったりするみたいな。

  • 4月25日

    日曜の夜から、憂鬱な時間になるのは、なぜか。

    なぜ、普段と同じ程度の難しさ、仕事量なのに、日曜夜になると途端に怖くなるのか。

    いつも通り、日曜の22時くらいから、なんとなく週末を終わりにさせるのがイヤで、夜ふかしをしてしまっていた。
    だいたい24時を回ったくらいから、だんだん、観念してくる。諦めというか。そこで、眠くても頑張って起きたとして、いずれ朝はやってきてしまうのである。
    25時くらいまで頑張ってみて、やがて諦める。寝床を準備し、布団に入る。
    もともと眠かったので、一瞬で眠りに就く。
    そして朝になり、子供たちは学校へ行き、私は戻りたくない仕事に戻るために、仕事の電源を入れる。パソコンの電源ボタンを押し、VPNで会社のネットワークに入ると、そこはもういつもの日常。
    Teamsにはいくつかのメッセージが届いていて、メールも届いているし、承諾済みのミーティングに被せるように、新たなミーティングが飛び込んできている。それらを地味に検証し、優先度を考え、時には承諾していた会議を諦め、新たな方へ承諾を飛ばす。
    そうしている間に仕事が始まり、会議、昼、会議、夕方、そして仕事が終わる。

    私が、日曜の夜に抱いていたのは、仕事に対する不安ではなく、ただ、週末から離れることの寂しさ、仕事という日常へ戻ることの億劫な気分を抱いていただけだったのだ。

    今の仕事は嫌いか、と言われると、本音で考えても結構好きな部類に入ると思う。そんな仕事に戻るのが嫌というのは、もしかしたら贅沢なことなのかもしれない。

  • 4月23日

    少し気温の高い土曜日、何をするにも最高な陽気になっている。子供たちと公園で遊ぶだけでも、最高。
    幸運なことに、スギ花粉が落ち着いてきたっぽくて、薬を飲まなくても大丈夫になってきた。

    美しい季節。木々の緑色が、とても美しい。

    最高。ゴールデンウィークが近くなってきて、仕事の段取りが難しい。仕事なんて、生きるためのツールなんだから、それに全力を注ぐのはちょっと違うと考えることができたので、苦しまなくても良くなった。

    自分の考え方って変わるよなぁ。簡単に。頑固なところもあるけれど、気持ち良く生きるために、柔軟に考え方を変えていくのって、必要なことだと思う。

  • 4月16日

    二日続いた雨がやみ、思わず嬉しくなって外ランをしてきたんだけど
    なんとなく街を歩いている人たちみんなも同じ気持ちになっているような気がしたなぁ。

    やっぱみんな、晴れのほうが嬉しいよな。
    そりゃ、雨の日だってあるから、それに一喜一憂していること自体、どうかとは思うのだけれど。

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    図書館で、齋藤孝さんがニーチェの哲学について語っている本があったので思わず借りたんだけど、

    うーん、

    どうなんだろうこれは、と思うようなことがあって。

    齋藤孝さんというよりは、ニーチェの考え方になるんだろうけれど、

    過去を全部肯定せよ、みたいなところがあって。

    論調としては、今の自分を作り上げたのは、過去の自分が選択してきた道があるから。
    今の自分を応援するためには、過去、自分がイヤだったようなことも全部抱きしめなきゃいけないのかな、と思って。
    それってかなりキツい。たまに、そういうイヤなことを思い出しては心の中で「んあー!」ってなり、一瞬でものすごく死にたくなるんだけど、それをなるべく忘れるように、思い出さないように生きている中で、それを全部愛せ、肯定しろ、っていうのは

    うーん、すぐにはムリっすね、ってなってる。

    そりゃ確かに、今の自分は、当時の自分がいたというのは否定しないし、そりゃそうなんだけど、過去に対してそんな感じで、全部包み込む必要があるかっていうとなんとも言えなくて、私個人としては、忘れた方が良い過去はダッシュで忘れるべきだと思うんだよなぁ。

    思い出す度に「んあー!」ってなって、自分の心を病んでしまうから。

    両方を生かすにはどうしたら良いのか。どうしたら、良いものか。

    「んあー!」な過去を思い出してしまったら、「そういうこともあったなぁ…」って考えながら、そっとしてあげる、って感じかなぁ。
    それで、自分の心にあるささくれが、わだかまりが、薄まったりするのだろうか。

    分からんね。分からんよ。

  • 4月14日

    自分の価値観を、揺るがずに持っていることにポリシーと感じているような人は、私からすると合わないのかもしれない。

    人によるから、私はその人に対して良いとか悪いとか、そういう判断ができない。私の判断なんてなんの意味もないから。自分の機嫌を取りたいだけだから。

    だから、頑固な人、周りに合わせようとしない人、努力しない人には、今までずーっと「なんであの人は協力しないんだろう」と一人で悔やみ、がっかりしていたのだけれど、

    それは私がその人に対して期待をしていたからであって、多分、ではなくきっと、私の思惑が間違っていたんだと思う。

    そうすべきじゃなかった、ということ。

    期待すんな、と1週間に20回くらい考えることがあって、それはつまり私が、人や、組織に対して期待してしまっていることの裏返しなのであるからなのだけど、少なくとも私の意識を変えるだけで、もしかしたら世界が変わってみてるのかもしれない。

    同じように、厭世的な考えをずーっと持っていて、この世に対してなんの未練もありません、今すぐに命が終わっても良いです、と考えていたんだけど、

    一方で、

    例えば、もうすでに別れてしまった人に対して、もっと優しくすべきだったとしても、その人が死別してしまっているとしたらすでに手遅れで、それは後悔の一つで、

    その点で、

    私はまだ会いたい人がいるし、その人と会って話がしたいし、その人の顔が見たいし、てかずーっと見ていたいし、それはつまり家族であったり旧い友人であったりするんだけど、

    そういう人たちとの、黄色いTシャツの番組みたいな言い方をすると「絆」というものが思い浮かぶんだけど、その絆があるから、まだ死にたくないな、と思うようになりました。

    ただそこにも、他人には期待すんなよ、ということがあり、私が会いたいからと言って、向こうも同じように会いたいと思っているかは彼らの勝手なのだから、私はそこに期待しちゃいけないんだな、ということは忘れないでいたい。