哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
だって実際に木が倒れているんだから。
今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。
木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。
軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。
近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
木が倒れたという事実。
それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。
ちょっと視点を変えてみる。
ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。
いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。