読書感想文 モモ ★★★★★

完全にナメてました。

名作とは言え児童書だろ、しかもかなり前に出たやつだし、くらいの感じで。

読んだきっかけ

Xを通じて知り合った方が、ご自身を作り上げた本の中にこれを挙げていて、おいおいマジかよ、と思ったのがきっかけです。私はその方を信頼していて、そこまで言うなら、と図書館で借りたという経緯になります。

私が住む自治体の図書館ではこれを児童書コーナーではなく、ヤングアダルトコーナーに置いていたので、探すのに少し苦労しました。借りた時は宝物を見つけたかのような気分。

だけど分厚い。ものすごく分厚い。同時に、他に何冊も借りていたので2週間以内に読み切れるんだろうか、もしかしたらモモだけ読んで残り全部を返す羽目になるのではないか、と思いました。

だけどそんなことは杞憂でした。

帰宅してすぐに読み始めたところ、これがまためちゃめちゃ面白い。子供向けでもあるのでひらがなが多め、だから本が分厚いということなのかもしれません。

この作者が上手いのか、訳者が上手いのか、もしくは両方とも上手いに違いないのですが、ストーリーへの緩急の付け方がとても上手いのです。

そして物語を盛り上げていくところに対する書き方。

灰色の、なんかよく分からない軍団が、だんだんとモモに近づいてくるところの描写が素晴らしく、話の展開が気になって仕方ありませんでした。

主人公モモ

モモという女の子が主人公なのですが、表紙に彼女の外見が描かれています。

あえて彼女の顔を描かないところに、読者の想像力を掻き立てる工夫がなされています。

おかげで、どんな顔をしているんだろう、これイタリアとかギリシャとか、そういうところだから、そういうところにいるような女の子なんだろう、みたいな想像をしました。

モモは不思議な魅力を兼ね備えていて、会話をしていると、その相手がだんだん気持ち良くなってくる、とのこと。

今の時代の言葉で言うなら、聞き上手ということになるのかな。

なんでそんなふうに上手に、人の話を聞けるんだろう。

モモに限らず、聞き上手な人は相槌の質が高いことが多いですね。

相槌の質って本を読んでもなかなか上達するのが難しくて、というのも会話をしながら、どんな相槌を打ったら相手が気持ちよく喋れるんだろうか、って考えながら聞かないといけなくて、それには話を聞くと言うことと、相槌をどう打つか考えるという両面で物事を考えながら聞かないといけないからです。

それは天性とも言える素質なのかなー、と思います。両方を頭の中で動かしながらってなかなか簡単にはいかないから。

物語で心に残ったセリフなど

モモはまるで、はかり知れないほどの宝のつまったほら穴に閉じ込められているような気がしました。しかもその財宝はどんどんふえつづけ、いまにも息ができなくりなそうなのです。出口はありません。だれも助けに入ってくることができず、じぶんが中にいることを外に知らせるすべはありません。それほど深く、彼女は時間の山にうずもれてしまったのです。
284ページ

時間が、無限にのしかかってくる感覚。

それを”財宝”と表現することで、作者の価値観を読者の心に植え付けているなぁと思いました。

時間って、財宝なんでしょうか。あんまそんなイメージを持っていなかったので驚きました。

けど、「自由な」という意味を付け加えることでより一層、作者の気持ちを汲み取ることができるなー、と。

自由な時間。これは悪い意味で言うと、退屈でしょうか。

何もすることがなくて暇を持て余している感覚。モモが、石段に座り、かつての友人たちを待つ間、彼女もまた、退屈と感じていたのかも知れません。

今、私は家族で過ごす自由のために、自分の時間を会社、社会に提供し、その対価としてお金をもらっています。そのお金を使って「やりたいことをやる」という意味での、自由を手にいれることができます。時折、仕事によって気持ちが打ちひしがれてしまい、家族で過ごすはずだった自由な時間を楽しむことができないことがあります。

それって、ものすごく残念なことです。

ゆとりが楽しみを海、それによって対価を得るための活力を得るという循環が、どんなに貴重で、どんなに難しいことか。

今の私は、その、ゆとりを感じながら生きているのだろうか、と本を読みながら感じていました。

時間を、財宝と捉えるべきことに、私は違和感を抱いていないだろうか。

自由を十分に謳歌できているだろうか。

灰色の男たちに惑わされ、自由を疎かにし、財宝を見失って生きてはいないだろうか。自問が尽きません。

きちんと考えるべき問題、人間が忘れてはいけない、とても大切で大きな問題だと思います。

ふつうの場所では、時間はおまえの中に入っていく。それでおまえの中には時間がどんどんたまっていき、そのためにおまえは年をとっていく。

315ページ

時間が自分の中に入っていく、という感覚。

原文は分からないのですが、これを訳した人の才能たるや。

時間がまるで液体のように身体の中にたまっていき、それを栄養にして年をとっていく、とはすごい発想です。

今までそう考えたことはなかったけれど、これからはそのように、時間を飲み込んで生きていくんだな、って考えていくことになる気がします。

だけどもし、時間が栄養になるんだとしたら、きちんとした栄養として身体に取り入れたいものです。

良い時間は例えば、貴重な体験とか、ゆとりのある時間から得られるでしょうから、例えば子供たちとすごす時間とか、大好きな趣味とか、睡眠とか、なるべく怠惰なことではなく、きちんとした時間を過ごしていきたいなと思いました。

この物語のように、時間をもとに戻すことはできないので、過去を振り返ってもそれが糧になるとは限らないため、たまに参考にする程度で、日々、良い選択をしていきたいです。

うーん、違うかな。

過去、自分を肯定するために、自分が判断した選択は全て正しかった、と考えて生きるべきなのかもしれません。

そんなことで後悔したってしょうがないから。

はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、何もする気がなくなってしまう。何についても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。
だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなっていく。日ごとに、週ごとに、ひどくなるのだ。
気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、自分に対しても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちに、こういう感情さえもなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかり遠のいてしまって、自分とはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うこともなくこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気は治る見込みはない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色をしてせかせか動き回るばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。
そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。
321ページ

長い引用となります。

生身の人間が、だんだんと灰色の男になっていく描写。余裕をなくし、何かに縛られてせかせかと働く人間の様を表しているように見えます。

こうはなりたくないと思っていても、いざこの状況になってみると周りが見えなくなり、だんだん灰色になっていくんだろうなぁ。

時間を節約して、効率的に生きることを否定するつもりはありません。

私も、ライフハックとか、時短術と呼ばれる類の話はむしろ好きな方です。

だけど、そればかり優先して大切な余裕とか、ゆとりとか、そういうのを見失ってしまっては人生が台無しになってしまうのではないでしょうか。

人のフリ見て、というわけではないけれど、自分はワーカホリックなところがあるので、定期的にこのことを思い出して、自分を俯瞰して見つめ直す必要がありそうです。

家族と過ごす時間とかもきっと、こういうことの役に立つ気がしますけどね。

そういえば最近、子供と遊んでいない気がするなぁ。

このままでいいんだろうか。