ようやく読める機会があり、読みました。
芥川賞を受賞した時の会見で、作者の素性というか人間的な特性を先に見てしまったので、彼女の自伝的小説なのかなと先入観を多大に抱きながら読み進めました。
私の知り得ない人の生活をつぶさに見ることができた、とても良い機会でした。
私が今見えている視点では、言葉に表すことができないくらい自然なことでも、ある特性を持つ人にとってはとてもできないことってあるんだな。
どこまでが彼女の経験で得たものなんだろう。どこからが、想像なんだろう。後半に出てくる田中さんとの一件は、芥川賞を狙ってくっ付けたような印象でした。考えすぎかな。そういえば去年くらいに、障碍者への性サービスみたいなニュースが飛び回ってたなぁ。そういう類の話には蓋をして、なるべく見えなくなるようにしていて、そういう仕事をしている人にだけその十字架を背負わせているような気がする。では一体、社会全体で考えていきましょう、という課題を設定した時に、どんな解決策が出されるんだろう。今まで真面目に考えたことがない私なりに、少し考えてみたけれど、残念ながらなんの回答も思いつかなかった。そういう社会の歪み(失礼な言い方ですねごめんなさい)ってビジネスチャンスになるんだよ、って最近どっかで読みました。
生まれた時点で、先天的な何かとか、お母さんのお腹にいる時に起こった何かとかがあり、生まれながらにしてそういう特性を抱えてしまった人には、ある種、その時点でできないことっていうのがあるんだろうなぁ。
いわゆる健常者(と呼んでいいのかはさておき、だって100%健常な人なんていないだろうから)から見ると、今の世の中っていろんな特性を持つ人に優しい世界が作られているように感じるけれど、実際はそんなことないんだろうな。生きづらい世の中。生きやすい世の中ってなんだろう。歩くことすら十分にできない人が、この世の中を自由に闊歩することの難しさを、この小説を通して改めて痛感しました。本を読むことすら難しいという考え方もね、これは芥川賞の会見の時にも本人が話していたけれど、こうして文章で読みそれを想像することによって、私の腹になんとも言えない気持ちで落ちていきました。本が重たいものだとはね。そういう視点を知ることができて良かったよ。
普通ってなんだろう
ずーっと普通について考えていました。普通に妊娠して、普通に堕してみたい、という表現がありました。それが普通かどうかは分からないけれど、そして普通の人間からしてみたら堕すという行為は好まれるものではないはず。だけどそんなことすら実行することができない人っていうのがいるんだよな、そりゃそうだよな。
人間の設計図ってさまざまで、それこそヒトの数だけそれがあるのでしょう。私にも設計図っていうのはあって、—そういえば何年か前に「私の取扱説明書」みたいなのが流行りましたね—、その設計図にはどんなことが載っているんだろうと気になりました。
普通、または標準という見えない価値観があり、それから外れている箇所については、私も私なりにこの世を生きる術を身につけて、生きているように感じます。
この世の中がどんな人によって形成されているかというと、まず国を司る人たちがいて、そしてこの社会を一緒に運用している会社があって、その会社に属する人間たちがいて、その社会で暮らす一般的な私たちがいるでしょ。それら全体で同じ思いを持って形成している社会は、人口がいればいるほど平均的なものになっていくのかなぁ。その平均が、今の、社会?私は平均的な人間だと思う人がこの世にはいったいどのくらいいるんだろう。私も、私なりに平均的な人間だと思っているけれど。
ふと我に返って考えてみると、ついつい私のウィークポイントばかりが気になってしまいます。その「ウィークポイント」という考え方にはヒトの標準的なものから”劣っている”というふうに捉えるものになるので、なんというか、自分の考え方のクセが見えてきてしまいます。私はいっつも、そうやって、自分のウィークポイントばかり考えてしまうんだよな。そういうことを考えてしまうからダメなんだ、と考えるたび、メタな自分が言っているんだよな。常に見張られているんだよな。逆に、ストロングポイントとして捉える点だってきっとあるはずなのにね。